冬空越しの楽園

 意識に走るノイズ。
 するべきことと、為すべきことを、処理能力が落ちた頭脳と体に染みついた経験で補う。
 今を無駄にすれば死んでしまう。殺されてしまう。
 左手に残弾が不確かなノリンコT-R9がある。
 まずはそれの弾倉交換。
 無意識に行うモーゼルHSc-80のオンセフティ。
 引き金は引かず。撃鉄はデコッキングされない。安全装置がかかっただけだ。
 霞み始める瞳。
 この急性症状には、なんの薬物も効果がない……何となくそれは理解していた。
 モーゼルHSc-80を左脇に差し込み、代わりに内ポケットからミントのタブレットを取り出して3粒ほどまとめて噛み砕く。
 セールス通りの清涼感が鼻腔を突き抜け眠気に似た頭重がやや軽減される。
――――残り……2人。
――――……のはず。
 左手の小指から始まる痙攣をごまかすオマジナイ替わりに、左手の甲の薄い皮を前歯で強く噛む。
 まだ働いてもらわないといけない末端組織に喝を入れる。
 腹の虫が疼き出す。まともな夕餉はまだだ。夕食を抜きにしたのは正解だが、その正解が『正解であって欲しくない』。……胃腸に未消化物がある状態での消化器官への被弾は死亡率が跳ね上がる。早く逃げ出して腹一杯の白飯を平らげたい。
 そう。
 逃げ出したい、だ。
 連中を殲滅させるのが目的ではない。
 連中の全戦力をここへおびき出して何かしらの作戦で注視させている間に遁走を図るのが目的だった。
 勢力パターンは完全に由子が優位。最後の一手の手前で気を抜いたがために、命を落とした同業者はたくさんみてきた。
 随分とバカだな、と笑っていたが、今になって理解できた気がする。ストレス、恐怖、緊張が続きすぎると心身が悲鳴を上げ、意図しない行動を取ってしまう。あるいは、取らされてしまうのだ。
 現に、今なら逃げ出せるというのに座り込んで、顔を青くして弾倉交換しているだけで名案が浮かばない。
 今、空き地の中央を全速力で駆ければたった2梃の拳銃程度の火力を無視して逃げられるはずだ。
 なのに、この倦怠感はなんだ? 腹が減った。微熱が全身を侵食し始めた。関節が錘をぶら下げたように重い。頭の中に霞がかかったような思考の妨害。喉が渇く。左太腿内側の染み出した血がカーゴパンツに淡く浮き出ている。
 足音。
 2つ。
 二手に分かれての挟撃。
 由子の戦闘力を高く評価してくれているのか、ジワリジワリといった進軍だ。
――――?
 わずかに焦げ臭い。気だるそうな視線を左肩に掛けたボストンバッグに移す。
――――あ……。
 先ほど、咄嗟にこのバッグを掲げたが、敵の銃弾がこのバッグに命中して中身に詰まった予備弾倉や実包に衝突して予備の弾が衝撃で爆ぜたらしい。
 ナイロン生地に丸い焦げ跡を伴った射入孔を見つける。
 くすぶってはいるが、この程度の熱で実包は暴発しない。精々、ボストンバッグがボヤの種になるくらいだ。
 そのボストンバッグを肩からおろして全身のバランスを崩す大元から解放される。
「…………」
 運はまだ『ツイてる』。
 使い切ったかもしれないが、なけなしの運をはたけばなんとかなるかも? ……そのような現実逃避を交えたノイズが脳内を先ほどから交錯している。
 本来なら鬱陶しいしいと頬を自らつねるはずだが、正論を述べる自分自身がどこにも存在しない。
 いっその事、自分で自分の頭を弾けと、左手のノリンコT-R9を見る。
 右手でモーゼルHSc-80を抜く。
 だが、それを見つめる目にも精気の光が点っていない。
 モーゼルHSc-80のセフティのオンとカットを繰り返して弄ぶ。
 例えるなら、自暴自棄に近い。
 充分に戦ったし、道連れもたくさん作った。
 捕まれば、死ぬほうが楽な拷問にかけられるだろう。
 連中の目的であるはずのフラッシュメモリはいまだ健在。首からボールチェーンでぶら下がっている。あるいはこれを渡せば案外素直に全てが解決するんじゃないか?
 だが、現実は常に非情である。
 楽観を伴った行動を起こして成功した試しがない。
 だからこそ、身の丈相応の生活を心掛けてきた。
 博打に出る勝負を避けた。嫌いではない。避けたのだ。長生きしたければ堅実で確実な勝算をみるまで妥協しない。……それを行動教義としてきた。この状況においては虫のいい話だと笑われても、投降するのが賢い選択だろう。
 実際問題として体が動かない。
 地面に座り込む尻から這い上がる氷のような冷たさ、左太腿内側の負傷箇所からの疼痛と微熱……高熱にシフトしつつある。一時をしのいだ脳内麻薬の興奮作用もガス欠で気力の低下が著しく、疲労の度合いも筆舌し難い。
「……もういいや」
 憔悴の色を浮かべた目。口元が虚無的な微笑みを浮かべる。
 エンドルフィンマシンではない由子には荷が重すぎた。それだけだ。
 生命の終焉まであと数秒。
「…………」
 生命の終焉まであと数秒。
 長い数秒だ。10秒は経過している。
 首も廻さず視線も動かさず、聴覚と鈍り始めた気配の察知能力だけで探る。
――――遮蔽に隠れたかな?
――――足音がしない。
――――すぐそこにいるはず。
――――この呼吸と匂いから……男と女のバディね。
 長い数秒。確実に秒針は1周している。
――――カッコ悪いなあ。
――――早く止めを刺してよ。
――――でないと……。
 さらに数秒。
 耳鳴りの方が五月蝿い世界。寒空の下の、とある寂れた町の中での出来事が中々、終わらない。
――――!
――――遮蔽から出たか……。
――――硝煙の匂いが強い。ああ。風向きが変わったな。
――――足音。二つ重なってる。
――――じゃあ、挟撃のタイミングを計ってたんだ。
 足音が二つ。
 歩幅が違うはずの体格なのにこの静寂の中、標的の由子に距離や火線の向きを悟られまいと、あらかじめ打ち合わせていたような『同じ歩幅』で二方向から足音が近づく。
 少し気が早い走馬灯が見える。
――――やれやれ。
――――死にはしないけど死ぬほど怠いってこういうことか。
 曖昧な感情と思い出が、矢継ぎ早に網膜の奥の記憶野でマーブル模様を描く。
「……!」
 寒風一陣。
 左半身……左手の甲を薙ぐ。
 先ほど噛みしばった掌の甲の歯型がチクリと……痛む。
 それだけで充分だった。
 丁度、走馬灯は過去に大きな博打を仕掛けて返り討ちに遭ったシーンで掻き消えた。
 それだけで充分だった。
「!」
 突然、頭が跳ね起きる。背筋が伸びる。
 条件反射。否。脊髄反射。
 警報が、危機感が、動物的感性が、思考や意識や苦痛を置き去りにさせるほどの行動に打って出る。
 みた目には不意を突く『博打じみた勝負』。
 それを行った瞬間に朦朧に陥ることも計算できずに行った『博打じみた勝負』。
 右腕と左腕が大きく交差。由子の眼前で大きく交差。
 ほぼ同時の発砲音。
 発砲音は合計4つ。
 一つの発砲音として計算できるほどに重なり合った発砲音。
 由子は両肩に灼熱した鉄棒を押し当てられたような度を超えた激痛を覚え、そのまま意識を遠のかせる。
 自らの体の側面で、交差したモーゼルHSc-80とノリンコT-R9は発砲した際の反動で掌からすっぽ抜ける。
 モーゼルHSc-80は体の左側面へ、ノリンコT-R9は体の右側面へと跳ね飛んだ。
 そして意識はフェイドアウト。
14/16ページ
スキ