冬空越しの楽園

 山名由子(やまな よしこ)という一個人では精々、この程度の生き方しかできない。
 そう思っているしそうであるべきだとも思っている。
 身の丈に合わぬ生活はいつか大きな綻びを見せ、足元を掬うように目も当てられない顛末で幕を閉じるに決まっている。
 だからこそ、こうして姑息で矮小な小悪党として陽の当たらない世界を泳ぐように歩いている。
 大体、いつも博打に出るときは負けが込む先途でしかない。
 懐に呑んだ拳銃を買ったときもそうだ。
 新品で予備弾倉2本のオマケつきで弾薬の供給ルートも紹介してやるからと、代金と経費込みで4円以下だった。何度もカタログを読み返した。性能は申し分ない。これはきっと好い買い物に違いないと思って購入した中型自動拳銃。
 だが、思わぬところに落とし穴があった。
 レナートガンバの刻印が入ったマットブラックじみた肌をしたモーゼルHSc-80。
 使ってみれば、精神衛生に宜しくない大きな特徴がそのまま、大きな欠点に思えた。
 何しろ、安全装置を掛けても撃鉄はデコックしない。
 コック&ロックでもない。
 起きた撃鉄をデコックさせるには安全装置を掛けた後に、薬室に実包が装填されているのに、引き金を引いて空撃ちをさせなければならない。
 安全装置を掛けているとはいえ、薬室に実包が装填されているのに発砲以外で引き金を引くのは肝が冷やされる。
 今まで暴発はなかったがこれからは解らない。これ以外の拳銃を扱うとうっかりと誤操作で暴発させそうだ。
 他人からのまた聞きではあるが、安全装置を掛け、撃鉄を戻さず……つまり引き金を引かずに『待機』させておけば即応性が高くなるとのことだがそれでも暴発の可能性は拭えない。
 止めに、流通経路も込みで『販売』されていた理由が解った。
 弾薬がマイナーなのだ。薬莢の長さが18mmの9mmウルトラ用いる。9mmウルトラとはGECO社の登録商標で同じ名称で流通できないノルマ社やヒンテンベルガー社は別の名前で販売している。薬莢長が同じ9mmマカロフとは互換性がない。9mmマカロフは僅かに薬莢の直径が太いからだ。
 由子は流通経路など頼らなくとも、安く広く出回っている9mmマカロフで代用が利くと思っていたが弾倉に詰めている段階で違和感を覚え、実射に到らなかった。調べてみると案の定の結果だった。
 早い話がイニシャルコストでしか計算せずにランニングコストを軽視していた由子の不手際だ。
 どこかで抜けている己の無知蒙昧を自分の外部に求めなければ自身を慰められない今時の若者だということが伺える。
 そしてまた、半分騙されて購入に踏み切ったモーゼルHSc-80を心底嫌いになれないでいる中途半端加減も、昨今の若年層に見られる風潮だった。……9mmウルトラ13連発の火力は心強い。単純に9mmショート以上9mmパラベラム以下の威力を持つ実包を全長170mm程度の自動拳銃が呑み込めるのだ。
 ディフェンスガンとして『仕事道具』としても充分だった。
 山名由子。
 24歳。
 職業は電話帳に載ることがない、後ろめたい職種。
 独身。仕事上のパートナーだけ募集中。
 脆い普請の長屋で一人暮らし。目下の悩みは雨漏りと鉄錆臭い水道水。それに狭い風呂。
 高校を1年生の2学期で中退し、夜の街を徘徊しては素行不良を繰り返して何度も補導されている。
 そしてお決まりの社会不適合者街道を驀進中。
 恐喝窃盗や空き巣で糊口を凌ぐ。彼女の今までの浅い人生を微に入り細を穿いても感心できる行いは何一つみつからない。
 彼女に司直の手が及ばないのは運がいいだけなのか、それなりに小器用な世渡りを覚えているからなのか。
 隠忍自重の精神に薄い彼女は、飢えを凌いで雨露を防げるのなら手段を選ばなかった。
 多数の男に股を開いて等価を得る機会も充分にあった。
 だが、彼女は路地裏の喧嘩の当事者となり『運悪く』自分は強いと認識してしまった。
 以来、鞘を失った諸刃のナイフのように閃いては暴力を……否、『暗い世界の仕事』を生業にすることを選んだ。
 眉目の整った中々の粒。
 聡明そうな柳眉に滑らかに通った鼻筋。可憐、しかし意志の強さを推し量らせる一文字の唇。猛禽が餌を補足したのと同じ質の輝きを湛える瞳孔は、呪術師が磨き抜いたモリオンのように熱い精気を放つ。細い顎先に反して物語性を感じてしまう凶暴な八重歯は、さながら、吸血鬼を連想させる。
 薄暮の憂色で夕焼けを眺めていれば、それだけでフォトジェニックとしてファインダーが潤う龍顔。
 つまりは、天恵の容貌を無駄に具えたアンファンテリブルだ。
 なのに……職掌はプリミティブな荒事。
 彼女を理解するには同じ暗渠を潜らねば……同じ世界に訪っていなければ援用に足る資料も集められない。
 ……彼女は犯罪者だ。
 負けが込むと謂えば拳銃の選択ミスだけではない。
 兎に角、博打に弱い。
 文字通り負けが込む。
 故にチンピラらしくなくギャンブルからは遠い位置にいる。
 格好良くいえばハードラックウーマン。
 打つ手の殆どが裏目に出る。それも深謀遠慮の果ての負け戦なのだから往々にしてかけてやる言葉は慰めくらいしか見当たらない。
 尤も、それと引き換えに治安当局の目を掻い潜ることに成功していると思えば安い代償なのかもしれない。
 猥雑な世界を三下らしく這いずり回るように生活しているが彼女の主義、主張、信条、信念としてフリーランスのポジションだけは死守していた。
 誰かに飼われると生活はマシになるだろうが、逆に恩着せがましくフルタイムで働かされるかも知れないし、身代わりで前科を被ることもあるだろうし、ある日突然、鉄砲玉としてカチコミ要因に選抜されるかも知れない。
 それらが『怖い』のではなく『面倒臭い』のだ。
 人間同士のしがらみがどうしようもなく面倒臭いのだ。
 結局のところ、山名由子という人物は社会性、協調性、集団性といった精神が根底に流れる世界を嫌うはぐれ狼だ。
 はぐれ狼が連携する闇社会でも、はぐれ狼なのだ。
 それらが遠因となり、ただの小悪党に甘んじている。収まっている。
 居酒屋で馴染みの客や、あまたの情報を提供してくれる有料の情報屋には、それなりに愛想のいい笑いを浮かべて接しているが、それですらも彼女の『独りでいることになってしまった身分の処世術』の一つだ。
 はぐれ狼だから挨拶の一つもできない、仁と義の意味を知らないでは渉っていけない。
 自分が人間なら、接する知的生命体の大多数も人間だ。
 相手に与える第一印象が奇貨として働くことも今までに何度もあった。
 総括すれば、外見が少々サヴェージで精悍に見えるだけの、それなりに礼節を弁え、退きどころを心得た『行儀の良い不良』。それが山名由子だ。
  ※ ※ ※
「面倒臭いのは嫌い」
 開口一番、それ。
 由子の目前の小癪な女は視線をコーヒーカップに落として小さく吐き捨てた。
 昼下がりのオープンカフェ。
 往来の誰もが休憩すべく喫茶店やファストフードに引き込まれるように入店する時間。
 今日のような小春日和ではオープンカフェの一席は貴重な空間だ。
「だからって、こっちにソレを振る?」
 対面の彼女……由子は唇を尖らせた。
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