簡略アイロニーと狭い笑顔

「ねえ、あなた。早く逃げなさい。折角、ご主人様があなたの命を助けて欲しいって頼んだのだから無駄にしちゃ駄目。早く逃げなさい……えーと」
 言葉が詰まる亜美に槙都香苗は口を挟む。
「……平賀唯衣(ひらが ゆい)よ」
「唯衣、早く逃げなさい!」
 平賀唯衣という名前らしいその少女は、しばしへたり込んだままだったが、1911のグリップエンドで砂利の地面を叩いて悔しさを体現すると、力無く立ち上がり……踵を返して夜陰に消える。
「ねえ、あの子はあなたにとってどれくらい大事なの?」
「うーん。妹みたいなもの、かな? ……どうして?」
「あの子を随分大事にするじゃないの。妹って……『エス』という意味の妹?」
「どうだろうね……」
 亜美のいう『エス』とは川端康成の《乙女の港》で初登場する主従的同性愛の隠語で《sister》のSを指す。
 年下の者が年上の者を慕う場合、これに当て嵌るとされているが、性愛的同性愛は除外される。亜美は今更ながらに、自分の命を危険に晒す因子をみすみすと逃がしたのではないかと寒気を覚えた。
 精神的同性愛者のもたらす遺恨は根深く執拗でドス黒い。
「根はいい子なのよ……」
 亜美の心を読んで焦り始める彼女に対して、宥めるようにそっと呟く槙都香苗。
「ふーん……『根はいい子』ねぇ。随分と可愛がっていたらしいじゃない」
 亜美はどことなく面白くなさそうな声でいう。
 槙都香苗の、前面がズタボロにカランビットナイフで切り裂かれたシャツの胸ポケットからキングエドワードのリトルシガーのソフトパックを抜き取り、勝手に1本拝借する亜美。
 使い捨てライターで火を点けると大きく口腔に溜めて紫煙を吐き出す。
 そして2服目を吐くと、無造作にリトルシガーを槙都香苗の唇に押しやり、そのまま銜えさせる。
「あ、り、が、と」
 嫌味一杯に唇の端から己の言葉を捻り出す槙都香苗。
 それから亜美が手配した『運び屋』が荷物の槙都香苗を『積み込んで』去るまで、不本意ながら亜美と槙都香苗は冷たい山の空気を吸い込みながら寒さに震えた。
  ※ ※ ※
 その、気の置けない相棒の目は、まるで拾ってきた猫を抱える子供が母親の目を見て「ねえ、面倒は必ずみるから飼っちゃダメ?」と無言で問いかける視線そのものだった。
「あんたねぇ……」
 共同住宅《しまの荘》にて。
 亜美の塒である共同住宅の一室でのことだ。
 築35年のほどよく古びた2階建て共同住宅。7.5畳にキッチン、簡易水洗のトイレのみの部屋。
 冷蔵庫と箪笥を1本置けばそれだけで閉塞感を感じる。
 ネット環境は無し。床は畳。ベランダが申し訳程度に後付けで取り付けられている。
 洗濯場と風呂は共同。
 近隣は開発のラッシュで賑わっているのにこ、の界隈だけ切り取って忘れ去られたようだ。雑多で雑然とし雑駁とした統一性の感じられない住宅街が広がっている。
 その一角の一棟の一室での出来事だ。
 亜美は昼食に、卵を落として葱をトッピングしたチキンラーメンを今まさに、啜らんと箸を差し込んだときに情報収集担当の相沢悠子(あいざわ ゆうこ)が転がり込んできたので返答に困った。
 困ったというより困惑したという方が正しいのかもしれない。
 今年で三十路入りしたと思えない、瑞々しい肌をした悠子は亜美より5cmほど小柄で3サイズもやや控えめ。知的な容貌に典型的文学人を思わせるセミロングと黒縁メガネがよいアクセントとなり、オトコに貢がせる身分に収まっている。
 ……だが、それも仮の姿で、実際は《しまの荘》の一室で住んでいる。 表面を整えるためと情報収集のために《しまの荘》以外で高級マンションを『キープ』しているだけだ。
 その悠子が、何と、あろうことか平賀唯衣の腕に自分の腕を絡ませてやってきた。
「……」
「……」
「……」
 三者三様の沈黙。
 ズルズルと亜美がチキンラーメンを啜りだしたので完全な沈黙とは言い難い。
 平賀唯衣。
 槙都香苗の妹分。
 きっと亜美のことを恨んでいるに違いない、アンダーグラウンドの住人。少なくとも拳銃を、1911を1梃を所持している。
 取り敢えずチキンラーメンを啜ることに専念する亜美。
 亜美のリアクション待ちで期待の目でみる悠子。
 なぜ自分がここにいるのか解らないという顔の唯衣。
 しばしの無言。
 その、気まずくも、重くも有りそうでもない雰囲気を壊す切っ掛けを作ったのは亜美だった。
 ドンと、卓袱台に空のラーメン鉢を叩きつけたと同時に、唯衣は薄いピンク色のサマージャンパーの左脇から1911を抜き放った。唯衣の反応は、食事中の猫が背後に置かれたキュウリをみて跳ねる姿を連想させた。
 亜美の方が早かった。
 部屋着のスエットの後ろ腰からグロックG20SFを閃かせる。
 これで勝負はついた。
 残念だが、セフティを解除し薬室に実包が収まっている1911といえど、撃鉄が起きていない状態から……ハーフコックを解除していない状態から撃発させるのは無理である。
 残念だが1911は、唯衣のコルトガバメントは、シングルアクションだ。撃鉄を起こしてからの発砲が前提だ。
 対して能動的なセフティの存在が皆無で、理論的にはダブルアクションに分類されるグロックシリーズでは即応性の面では1911とは勝負にならないほど早く撃てる。
 それでも期待の笑顔を崩さない悠子。
 またしても。
 尻尾を巻いて逃げたあの夜と同じく唯衣は1911……コルトガバメントの銃口を力無くさげた。
 亜美もフェザータッチで落ちるトリガーから指を離す。そしてぶっきらぼうに悠子に問う。
「『何故、この子がここに?』」
「情報屋のフォーラムを回っていたらさー。面白い子が亜美を懸賞首にしようと企んでいるって聞いてね……それが健気なのよー。今着てる服と拳銃以外は全部売り捌いて懸賞金に充てたんだって」
「で、私のヘッドバウンティ(※懸賞金)はいくらなの?」
 亜美は唯衣が奇貨に転じる可能性があると思い、悠子が拾ってきたのだと察していたが、概ねその通りの内容を喋り立てる悠子。それを前置きとして。
「あんたの首は生死問わずで、なんと11万円……ぷっ、くくく」
「今直ぐお前から殺してやりたい」
「で、この子ね、ウチに置いとかない? この共同住宅、空き部屋多いし」
「……悠子。正直に喋りなよ?」
 腹を抱えて笑い続ける悠子だったが、1オクターブ低くなった亜美の声を聞いて笑いを貼り付けたまま、声だけ真剣味を乗せて語る。
「この子を一流に仕上げてやりなよ。今のあんたならこの子が殺気を滲ませれば50m離れていても察知できる。そんななまくらな腕前じゃ……」
「このアンダーグラウンドでも生きていけない……ね?」
「そう。ご明察」
――――賞金首が自分を殺す殺し屋を育てるの?
――――冗談じゃない!
――――……ああああ。そんな目で見ないで!
 唯衣が既に陵辱され尽くしたかのような、あの被虐の瞳で亜美をみつめている。
 大人しくシナを作って座っているさまなどはボーイッシュな外見とのギャップが大きくて正直に可愛いと認めざるを得ない。
 足元に置かれた無骨な大型自動拳銃が世間で謂うところのギャップ萌えとかいう、緩い言葉を掻き立てて亜美の方から擦り寄って頬をつつきたくなる。
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