夜と霧の使者
――――毒物か……。
――――面倒臭いなぁ……。
麗らかな午後。日当たりが僅かに良い時間帯。
手元のスマートフォンに何度も視線を落としながら考えあぐねる。
舞い込んだ依頼の報酬は魅力的だ。それに見合うだけの危険ではあるが。
殺し屋の殺し屋である手前、殺し屋を殺してくれと頼まれて口語的に「申し訳有りません。相性が悪いので別を当たって下さい」とは口が裂けてもいえない。
こういう信用商売でなり立っている反面、殺し屋の殺し屋が必ずしも『優れた殺し屋として長生きしない』理由だ。
どんなに過酷でも営業スマイルで引き受ける愛想良さの一つでも会得しなければ信用はガタ落ちし、あっという間に食いっぱぐれて、自分が殺し屋としてデビューし、殺し屋の殺し屋に殺されるのがオチだ。
殺し屋と殺し屋の殺し屋がそのような微妙なジレンマの上に成り立っているので両者のバランスが崩れることはない。
殺し屋の中にもその経験と勘を用いて殺し屋の殺し屋に転職する腕利きも多数存在する。
マグカップに注いだ熱い紅茶を啜る。
日当たりのいい貴重な時間帯にベランダで折り畳みのアウトドアチェアを出して日光浴。その脇見でメールチェックをしていると1件の依頼を見つけたのだが……その文面を頭の中で反芻して1時間経過。
殺し屋にはカテゴリと同じく、パーソナリティ的な『タイプ』が有る。
近接でのナイフ格闘術を得意とするデブは居ないし、S&W M500を片手で撃つ痩せっぽちはいない。
それと同じ理屈で、敏捷性に劣る身体能力の殺し屋は知的作業を得意とする。
巧妙に偽造文書を作成し、特定の人物だけを社会的に抹殺する者や爆発物のエキスパート、劇薬物の製造使用を生業とする奴、高周波や高電圧での殺害を得意とする者。……外見が鬱蒼としているから職掌も鬱屈しているのか、職掌が鬱屈しているのは外見の劣等感の裏返しなのか。いずれにしても厄介なターゲットには違いない。
以前、先手を打って強襲に出たのに、簡易的なワイヤートラップを踏んでしまい、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンのように作動し、ホームセンターでよくみかける、2種類の洗剤が混合して塩素ガスを発生させたことがある。
結果としてターゲットを逃してしまい、『莨屋妹理は単純な暴力でしか解決できない程度のスペック』だと一部で陰口を叩かれている。
その経緯もあってか、この手の知的犯罪傾向の殺し屋をターゲットにした依頼が舞い込むと同業者が、からかいや蹴落としのために裏で策動しているとしか思えなくなっている。
ときには痩せ我慢で依頼を引き受けないと信用が保てない世界。それが殺し屋の殺し屋。
深い溜め息を吐いてスマートフォンで了承の返事を返信する。
殺し屋の殺し屋でも命が惜しい。
臆病者だから長生きすると嘯くのは殺し屋だけだ。
その殺し屋を殺すのが職業ならば致し方がない。
この辺りに莨屋妹理というパーソナルの葛藤が存在する。「仕事だから辛いに決まっている。楽しい仕事に就ける人間は極一握り」といい聞かせる自分と「表層的に潜在する自分自身を満足させられる仕事は殺し屋の殺し屋しかない」と理解している自分。
この境界でいつも依頼の引き受けに躊躇する。
躊躇する原因が、内向部分の自分自身なので解決の糸口がみえない。
否、見えている。
臆病風に吹かれている自分が、自分を見失うほどの戦闘悦楽症を誘発させるためにはリスクの高い魔女の鍋に飛び込むしかない。
遂行後にやって来る虚脱感と満足感。リスクが高ければ高いほど、襲いくる達成感は大きい。
性的娯楽に浸るのと同じ快楽だ。
基本的に戦闘悦楽症はA-10神経……報酬神経と呼ばれる神経細胞に作用する。
昔に果たした達成感が安息と満足の記憶と深く結び付き、「駄目だと分かっていてもそれをしてしまう」という悪循環を生む。本来のA-10神経は仕事をなして得る報酬や善行をなして褒められて「嬉しい」と感じる神経なのだが、ここへ送られる電気信号が誤変換されて同一化に似た症状を招き、何が楽しくて何が嬉しくて何が喜ばしいことなのかが曖昧になる。
個人差は勿論存在する。妹理の場合はリスクの高い鉄火場でないと自分のカラダが喜ばないと自覚しているだけ、精神罹患としては軽度だと言える。
セックスジャンキーよろしく、性的興奮と深く結びつかないだけマシだと自分にいい聞かせている。
性的興奮は覚えても性的絶頂は感じない。以前に成功した仕事を反芻して、不器用ながら自分を慰めるしか性的に鎮める手段しかない。
「ああああ……」
神様助けて! と叫び出しそうな悲しい精神罹患に赤くなったり青くなったりと忙しい顔色。
今もアウトドアチェアで三角座りをして、顔を深く膝の間に埋めて1人で耽る自分を思い返して遣り場のない恥ずかしさに悶えている。
※ ※ ※
毒を使う殺し屋。
定義は広い。手口も広い。
クライアントとメールでいくつもの遣り取りをしたが、鎌を掛けても深い探りを入れても、特に後ろ暗い反応はなかったので――この場合、妹理に敵対意識が皆無であることが証明されたという意味――クライアントに関しては安心だと仕事を引き受けた。
ターゲットは1人。毒物を使うと聞いていたが路地裏の情報屋から引き出せる情報を統合するともっと厄介な物だ。
――――コレ、どう考えても毒じゃないよね。
頭を掻きながら雑踏を歩く。
クライアントからは「毒を使う殺し屋を始末して欲しい」と依頼されたが、いざ引き受けてみるとトリスキニーネが可愛らしく思える化学兵器だった。
――――VXガス……ヤバイよぉ……。
――――っていうか、自作のVXガスってどういうことよ!
――――そんな技術を持っているのなら『ややこしい国』で就職すればいいじゃない!
VXガスといえば、サリン、タブン、ソマンと人類の叡智を用いた「間違えた」天才的発明だと例えられているが、それを自作して販売目的で所持しているバカを屠るのが今回の大まかな内容だ。
自作した試作品を試すために何度も使用しデモンストレーションとしている。
元傭兵という職業柄、化学兵器には敏感だ。
妹理の渡り歩いた戦場では化学兵器は結局使用されなかったが、常に化学兵器を保有する軍隊と対峙していた。
化学兵器は別名『貧者の核弾頭』。
米国や国連に監視されて化学兵器を購入できない貧乏な小国が手軽で安上がりに入手できる最もタチの悪い兵器。使い方いかんでは核弾頭より厄介だ。
妹理はターゲットが化学兵器のイロハを知っている『常識人』であることを期待せずにいられなかった。
大量破壊兵器に分類される化学兵器の難しい扱いの一つに、特定の少数あるいは個人だけを致死させる項目が有る。
広範囲に亘って致死率の高い気体や液体を撒き散らし最大の効果を得るのが化学兵器の本来の使い方だからだ。
ターゲットは今のところ、保管と計量の技術だけは超一流らしく、被害者の数は犯罪白書の統計を大きく崩すほどのものではない。
なれば、妹理の常套である短期決戦は使えない。
ターゲットの身元と塒、それにセーフハウスやパッケージ――VXガスのありか――を確保する必要がある。
翌日から妹理はターゲットの行動パターンを読むべく東奔西走することとなった。
――――面倒臭いなぁ……。
麗らかな午後。日当たりが僅かに良い時間帯。
手元のスマートフォンに何度も視線を落としながら考えあぐねる。
舞い込んだ依頼の報酬は魅力的だ。それに見合うだけの危険ではあるが。
殺し屋の殺し屋である手前、殺し屋を殺してくれと頼まれて口語的に「申し訳有りません。相性が悪いので別を当たって下さい」とは口が裂けてもいえない。
こういう信用商売でなり立っている反面、殺し屋の殺し屋が必ずしも『優れた殺し屋として長生きしない』理由だ。
どんなに過酷でも営業スマイルで引き受ける愛想良さの一つでも会得しなければ信用はガタ落ちし、あっという間に食いっぱぐれて、自分が殺し屋としてデビューし、殺し屋の殺し屋に殺されるのがオチだ。
殺し屋と殺し屋の殺し屋がそのような微妙なジレンマの上に成り立っているので両者のバランスが崩れることはない。
殺し屋の中にもその経験と勘を用いて殺し屋の殺し屋に転職する腕利きも多数存在する。
マグカップに注いだ熱い紅茶を啜る。
日当たりのいい貴重な時間帯にベランダで折り畳みのアウトドアチェアを出して日光浴。その脇見でメールチェックをしていると1件の依頼を見つけたのだが……その文面を頭の中で反芻して1時間経過。
殺し屋にはカテゴリと同じく、パーソナリティ的な『タイプ』が有る。
近接でのナイフ格闘術を得意とするデブは居ないし、S&W M500を片手で撃つ痩せっぽちはいない。
それと同じ理屈で、敏捷性に劣る身体能力の殺し屋は知的作業を得意とする。
巧妙に偽造文書を作成し、特定の人物だけを社会的に抹殺する者や爆発物のエキスパート、劇薬物の製造使用を生業とする奴、高周波や高電圧での殺害を得意とする者。……外見が鬱蒼としているから職掌も鬱屈しているのか、職掌が鬱屈しているのは外見の劣等感の裏返しなのか。いずれにしても厄介なターゲットには違いない。
以前、先手を打って強襲に出たのに、簡易的なワイヤートラップを踏んでしまい、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンのように作動し、ホームセンターでよくみかける、2種類の洗剤が混合して塩素ガスを発生させたことがある。
結果としてターゲットを逃してしまい、『莨屋妹理は単純な暴力でしか解決できない程度のスペック』だと一部で陰口を叩かれている。
その経緯もあってか、この手の知的犯罪傾向の殺し屋をターゲットにした依頼が舞い込むと同業者が、からかいや蹴落としのために裏で策動しているとしか思えなくなっている。
ときには痩せ我慢で依頼を引き受けないと信用が保てない世界。それが殺し屋の殺し屋。
深い溜め息を吐いてスマートフォンで了承の返事を返信する。
殺し屋の殺し屋でも命が惜しい。
臆病者だから長生きすると嘯くのは殺し屋だけだ。
その殺し屋を殺すのが職業ならば致し方がない。
この辺りに莨屋妹理というパーソナルの葛藤が存在する。「仕事だから辛いに決まっている。楽しい仕事に就ける人間は極一握り」といい聞かせる自分と「表層的に潜在する自分自身を満足させられる仕事は殺し屋の殺し屋しかない」と理解している自分。
この境界でいつも依頼の引き受けに躊躇する。
躊躇する原因が、内向部分の自分自身なので解決の糸口がみえない。
否、見えている。
臆病風に吹かれている自分が、自分を見失うほどの戦闘悦楽症を誘発させるためにはリスクの高い魔女の鍋に飛び込むしかない。
遂行後にやって来る虚脱感と満足感。リスクが高ければ高いほど、襲いくる達成感は大きい。
性的娯楽に浸るのと同じ快楽だ。
基本的に戦闘悦楽症はA-10神経……報酬神経と呼ばれる神経細胞に作用する。
昔に果たした達成感が安息と満足の記憶と深く結び付き、「駄目だと分かっていてもそれをしてしまう」という悪循環を生む。本来のA-10神経は仕事をなして得る報酬や善行をなして褒められて「嬉しい」と感じる神経なのだが、ここへ送られる電気信号が誤変換されて同一化に似た症状を招き、何が楽しくて何が嬉しくて何が喜ばしいことなのかが曖昧になる。
個人差は勿論存在する。妹理の場合はリスクの高い鉄火場でないと自分のカラダが喜ばないと自覚しているだけ、精神罹患としては軽度だと言える。
セックスジャンキーよろしく、性的興奮と深く結びつかないだけマシだと自分にいい聞かせている。
性的興奮は覚えても性的絶頂は感じない。以前に成功した仕事を反芻して、不器用ながら自分を慰めるしか性的に鎮める手段しかない。
「ああああ……」
神様助けて! と叫び出しそうな悲しい精神罹患に赤くなったり青くなったりと忙しい顔色。
今もアウトドアチェアで三角座りをして、顔を深く膝の間に埋めて1人で耽る自分を思い返して遣り場のない恥ずかしさに悶えている。
※ ※ ※
毒を使う殺し屋。
定義は広い。手口も広い。
クライアントとメールでいくつもの遣り取りをしたが、鎌を掛けても深い探りを入れても、特に後ろ暗い反応はなかったので――この場合、妹理に敵対意識が皆無であることが証明されたという意味――クライアントに関しては安心だと仕事を引き受けた。
ターゲットは1人。毒物を使うと聞いていたが路地裏の情報屋から引き出せる情報を統合するともっと厄介な物だ。
――――コレ、どう考えても毒じゃないよね。
頭を掻きながら雑踏を歩く。
クライアントからは「毒を使う殺し屋を始末して欲しい」と依頼されたが、いざ引き受けてみるとトリスキニーネが可愛らしく思える化学兵器だった。
――――VXガス……ヤバイよぉ……。
――――っていうか、自作のVXガスってどういうことよ!
――――そんな技術を持っているのなら『ややこしい国』で就職すればいいじゃない!
VXガスといえば、サリン、タブン、ソマンと人類の叡智を用いた「間違えた」天才的発明だと例えられているが、それを自作して販売目的で所持しているバカを屠るのが今回の大まかな内容だ。
自作した試作品を試すために何度も使用しデモンストレーションとしている。
元傭兵という職業柄、化学兵器には敏感だ。
妹理の渡り歩いた戦場では化学兵器は結局使用されなかったが、常に化学兵器を保有する軍隊と対峙していた。
化学兵器は別名『貧者の核弾頭』。
米国や国連に監視されて化学兵器を購入できない貧乏な小国が手軽で安上がりに入手できる最もタチの悪い兵器。使い方いかんでは核弾頭より厄介だ。
妹理はターゲットが化学兵器のイロハを知っている『常識人』であることを期待せずにいられなかった。
大量破壊兵器に分類される化学兵器の難しい扱いの一つに、特定の少数あるいは個人だけを致死させる項目が有る。
広範囲に亘って致死率の高い気体や液体を撒き散らし最大の効果を得るのが化学兵器の本来の使い方だからだ。
ターゲットは今のところ、保管と計量の技術だけは超一流らしく、被害者の数は犯罪白書の統計を大きく崩すほどのものではない。
なれば、妹理の常套である短期決戦は使えない。
ターゲットの身元と塒、それにセーフハウスやパッケージ――VXガスのありか――を確保する必要がある。
翌日から妹理はターゲットの行動パターンを読むべく東奔西走することとなった。