夜と霧の使者

 完全に虚心を抜かれていた表情でその男はS&W M627PCを両手で構えていたが、銃口は床を向いていた。
「……」
「……」
 両者に沈黙。
 妹理の銃口は男を捉えている。
 男――30代後半の痩せ型――は肩を不覚動筋で痙攣させながら手にしたS&W M627PCを妹理に向ける機会を伺っているが、隙だらけの上に戦意をなかば喪失しているようで絶望的だ。
 やがて、発砲。
 9mmのフルメタルジャケットが顔面の真ん中に叩き込まれる。
 鼻腔の最奥を貫いたフルメタルジャケットは盲管にならず、真っ直ぐな射入孔と射出孔を作り、脳髄を破壊した。
 射出孔から延髄の構成物を吐き散らしながら男の首は後部へ不自然に曲がり仰向けに倒れる。
 断末魔の代わりに357マグナムを床に向けて1発だけ発砲。それが最後だ。
「!」
 殺気を帯びていない気配を感じ銃口を左側へ振る。
「……!」
 酸素不足の金魚のように口をパクパクさせているエキストラの女がいる。
 余ほど怖い思いをしたのか、青褪めた顔は土気色を帯びて顔は大粒の汗でびっしりと覆われている。床に漏らした小便の水溜りがある。
 暫く自分が雇ったエキストラの女と見つめ合っていたが、別段、特別な思い入れはなかった。
 妹理自身が膠着していた。
 僅かな時間の膠着。過呼吸発作に似た呼吸を数度繰り返して、全身の硬直を覚える。……H&K P9Sを暴発させるかもしれない、と硬くなる指先に命令を出してやっと安全装置をONにした途端、妹理も床に吸いつけられるように膝が崩れた。
 敵対勢力の排除に成功した途端、アドレナリンが正常値に戻り、新陳代謝が堰を切ったように再開されたのだ。
 腰が抜けているエキストラの方に、同じく腰が砕け気味の妹理が近寄って、自分の財布から抜き取った全ての紙幣を女に握らせて「悪かったね。怖かったでしょ」と労った。裏の世界の『役者』だが、火花の散る現場では素人同然なので、どれだけ労っても足りることはない。
 重い足を引き摺って元きたルートを戻る。
 途中で転がっている虫の息のターゲットに2発ずつバイタルゾーンにシルバーチップを叩き込む。
 右手首を失い戦意を喪失して座り込んでいる男の頸部にも2発の9mmをくれてやる。
 後始末をしながらようやく気づいた。
 ここへ来る途中に抱いていた違和感の正体。
 危険予知とでもいおうか?
 『ターゲットは4人組』だと妹理が勝手に思い込んでいた。勿論、ターゲット連中も4人で仕事をしているといいふらしていた。
 なぜ、同じ銃で同じ体躯で同じ恰好をしていたのか……。
 徹底的に隠匿された、『誰にも触れさせていない5人目』の伏兵を潜ませて計算違いを誘発させるのが目的だ。
 道理で簡単に4人の……連中の資料が集められたはずだ。5人目がローテーション制なのかスタンドポジションなのか解らない。だが、長物を使う狙撃担当はやバックアップは存在していないらしい。……不用意に窓際を歩いたが銃弾は飛来しなかったからその違和感が解けたのだ。
「……つっ!」
 今頃になって体の各所に傷を負っていることに気がつく。
 新陳代謝が完全に復旧していないために出血量は少ないが、右上腕部、左橈骨付近、左大腿部、左脇腹にやや深い擦過傷を負っている。
 みるからでは、命に別状はないが、焼け火箸を押し付けられているような不快感がジワジワと襲いくる。
 持参していた特大サイズの絆創膏を貼り付けるが、あっという間に血を吸って染み出す。不快だが致命的負傷は無かった。
 運の良さに御の字だ。
 下駄履きに使っているカローラに乗り込むとキーを捻ってさっさと立ち去る。
 夜風の寒さが寒気を誘う。
 そんな夜だった。
   ※ ※ ※
 ハイツの自室で体を捻って負傷箇所を撫でてみる。大判の絆創膏が痛々しい。だいぶ回復している。
 4人組+1人の回転式を使う殺し屋連中との銃撃戦から1週間。
 高い金を出して闇医者に治療してもらった。縫合は必要なく、感染症を防ぐための処置と鎮痛剤、抗生物質をもらっただけで済んだ。
 毎日の消毒洗浄は自分で行える。……自分でも対処できる部位を負傷したのはつくづく運がいい。
 まだ絆創膏は血で滲むほどの生乾きだ。感染症を防ぐために10日の間は入浴が禁止されている。
 戦場では1ヶ月近くシャワーも浴びられない環境がザラだったので慣れている。体臭や汗や垢は介護用品の使い捨てウェットタオルで削ぎ落とす。
 グレイ一色のホットパンツとショーツでキッチンに向かうと冷蔵庫を漁って食材を探す。
 万が一の負傷でも早く回復しますようにと、願かけの気分で買い置きしていた動物性タンパク質……牛肉やベーコンのブロック、特定保健用食品に指定されているビタミン剤が視界に飛び込んできた。
 午後1時半。
 襟足の長いマッシュウルフの髪をゴムで束ねる。雀の尾羽のように可愛らしく揺れる。
 下着同然の姿にエプロンをかけて調理に移る。
 殺し屋の殺し屋とて人間である。
 生理的欲求や個人の観念を捨て去ることはできない。知力体力の仕事ならば尚更だ。
 妹理の戦闘悦楽症ともなれば消費するカロリーは格段に違う。
 実力以上の実力を強制的に引き出して開放してしまうので心身にかかる負担が後払いでやってくる。
 戦闘悦楽症が原因のハイテンションや身体能力のリミッター解除が現れると、脳内のあらゆる部位が糖分を消費し、筋骨がカロリーを欲する。
 空腹の余り、低血糖を引き起こして銃撃戦の最中に目眩を起こすこともある。 
過食症のように飲食を繰り返すが脳疲労が原因の一過性なので厳密には精神罹患からくる本物の過食症ではない。
 これは大脳と小脳が巧く連動しておらず、上限以上の力を発揮して代償として体内のエネルギーを消耗し、燃費の悪い体になったのだ。
 午後2時近く。
 機能性だけを追求した料理が完成。
 料理というほどの大したものではない。
 縦25cm、横7cm、厚さ2cmの厚切りベーコンを6枚とLサイズの卵を4個使ったベーコンエッグスだ。レタス3分の1をベースにした野菜サラダと全長70cmのバゲッドを食べやすいサイズに切り、並べただけ。粉末のコーンポタージュを数袋ブチこみ、小鍋一杯に作るという有り難みのない作り方。
 まともに胃袋に溜まる食べものを食べるのは本日が久し振りだ。
 4人組+1人を相手にしたときに蛇行運転をしないように帰宅し、即、倒れる。
 携帯電話で闇医者を呼び、治療を施してもらい、崩れっ放しの自律神経を収めるための自律神経調整剤を飲んでから眠りに落ちる。
 戦闘悦楽症の反動の一種で脱力と無気力に襲われ空腹すら忘れていた。
 一眠りして気がつくと、闇医者が置いていった薬を摂取するためだけに黴が生える直前のパンを齧り、マーガリンをスプーンで掬って舐めた。
 正気に戻ってから自分で絆創膏を張り替えて消毒をしていたが、倦怠感を覚えてさらに丸一日寝込む。
 被弾したことによる炎症の発生と思われる高熱にうなされた。
 起きると、回らぬ思考をふり絞って消毒し、薬を飲み、胃袋を慰めるためにパンだけを齧る。
 縮まっているかも知れない胃袋を労わって牛乳に浸したバケットばかり食べていたが、好い加減飽きてきた。
 正直なところ、薬での回復より養分での回復を体が望んでいた。……その結果のベーコンエッグスだ。元来はメリハリのある生活を心掛ける性質の妹理。
 心身が正常に戻るに従って、無節操無節制な毎日に嫌悪していたのだろう。
 唯、喰らう。
 頬張って咀嚼し嚥下。
 無言の、静かな、食事風景。
 頬張って咀嚼し嚥下。
  ※ ※ ※
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