夜と霧の使者

「そんなっ!」
 1人が弾切れを起こす。
 虚しいはずの空撃ちも妹理には心地良く聞こえる。
 2人の防衛線にリロードが訪れ、1人が次弾を装填するのだと見越してH&K P9Sをウイーバースタンスのダブルハンドで銃口をもたげながら照準を定める。
 だが。「そんなっ!」という意地の悪い笑顔が浮かんだまま、妹理の表情は凍りつく。
 彼女の想定に於ける範疇内で、信じられない事象に虚を突かれた。
 弾切れを起こした1人は遮蔽物に引っ込むことなく体の大部分を晒したまま滞り、左手で相棒にS&W M627PCを放り投げ、その間の中空で入れ替わるように相棒からS&W M627PCが放り出された。それを待ち構えていた右手がキャッチし、銃撃が寸分の隙も開けずに開始される。
 死神の鎌を掠められながらも右手側の簡易給湯室に飛び込んだのは妹理の方だ。
 断続する連中の銃撃の合間に軽い金属音が鈴なりに聞こえる。
 あのときに放り出されたS&W M627PCに再装填されたのだろう。
 恐ろしい連携だ。
 確かに、1つの戦闘集団が統一された銃火器と同種の口径を用いることはオンとオフを問わずに心強い。
 長丁場での弾切れでも再配分できるし、故障しても同じ経路から同じ商品を入手する事ができる。
 ……だが、「だが」だ。
 外見は同じモデルでも個性のある銃火器を他人に任せることに生理的嫌悪感を覚える性分が働くといわれている「この業界の定説」で迷わず銃を放り出し、他人に再装填を任せ、他人から渡されたフルロードの拳銃を迷いもなく使うとは。
 そして自分たちが使っている拳銃に関しては並列化された情報を有しているかのような手際の良さ。
 見たくもない、知りたくもなかった曲芸をみせつけられる気分になる。
 半畳ほどしかない簡易給湯室で頭を整理する。
 気が焦って巧く呼吸を整えられない。
 喉の奥が氷水を渇望する。踊る心臓。鳩尾の下部の一点だけ熱さとも冷たさとも解らない温度を感じる。
 アドレナリンが分泌される。
 機銃掃射と砲声が聞こえる。
 肉に銃弾がめり込む独特の湿気を帯びた致命的被弾音が聞こえる。
 間抜けな砲撃音の迫撃砲に薙ぎ払われる、名前も知らない人間の影。履帯が死体を圧潰させて水風船を割るのに似た音を立てて腹腔の圧力で人間の腹部が爆ぜる。
 今の、目の焦点が定まっていない妹理の視界には嘗ての戦場が広がり悲鳴と罵声が谺し、深く残響する。呼吸をすれば砂塵に肺を汚される臨場感。
 戦闘悦楽症。PTSDの一種。
 長い時間、極度の緊張に晒され続けたためにアドレナリンの抑制が効かず、アドレナリンを始めとするあらゆる脳内麻薬が分泌され続けている事が『普通』だと脳が認識し、喜びによる満足感を得る神経を司るA-10神経が侵食され、『戦闘によるスリルと興奮を味わい続けないと自我が保てない』状態に陥る。
 米国で湾岸戦争後に帰国した兵員がしばしば、銃を持ち出して自殺を図ったり無差別殺人を突発的に起こしたのは大半がこの症状が原因だ。
 戦闘悦楽症に罹患するとタイプは二つに分かれる。
 負けていた記憶がもたらす否定的遁走的行動。
 無気力に陥り、突発的な自殺を図りやすい。戦場の中で自分をみつけた兵士は再び戦場に舞い戻る……というよくきくフレーズの正体がこれだ。帰国しても「負けは許せない。輝かしい自分でなければならない」「上手く逃げ果せた気分を味わいたい」「過去の敗戦や撤退の借りをどうしても返したい」という強迫観念から、傭兵となり戦場を渡り歩くのもこのタイプだ。
 酷い場合はある切っ掛けやフラッシュバックが原因で一時的に廃人になり生理的欲求すら感じなくなる。
 そして妹理はそれと対極をなす、勝っていた記憶が根幹に在るために好戦的直情的判断でのみ、本能でのみ行動を起こす。
 計算のない挙動で自分以外の全てが敵性要因であることを前提にアクティブにアグレッシブに活動する。
 海外派兵に参加した先進国はこの後者の症状を最も恐れている。
 普段は善良でも突如として殺人鬼に変貌する可能性が高いのだから。
 原因は同じく過去の記憶に直結するフラッシュバック。「勝利の栄光」「達成時の爽快感」「神に選ばれたがごとく、屍山血河で生き抜いた絶大な自信」……それらがもたらすのは実に簡素な物理的武力で他者を制圧することが何よりの報酬と考える限定的ウォーモンガーだ。
「っ!」
 呼吸が途切れる。
 一瞬、瞳孔が開き、瞳が濁る。そして呼吸再開。
 別人の心肺を嵌め変えたような穏やかな呼吸に変貌。
 濁る瞳孔の奥に僅かな精気。
 指先がチックのように震えていたが止まる。掌の汗も冷たい感触から熱さを帯びたものだと感じるようになる。胎の底に活力が滾る。
 五感が研ぎあげた剃刀のような鋭さで、情報を脳髄へ送り込む。
 侵食された脳髄は侵食された海馬へシナプスへと情報を伝達させて新陳代謝を遮断し……妹理は『笑った』。
 優勢や優越に浸る勝者の笑みではない。「危険な場所に居る自分」を悦んだのだ。
 論理的思考の停止。
 本能的能動的活動の開始。
 その顕著な部分が、『弾倉交換』だ。
 シルバーチップホローポイントが詰まった弾倉を抜く。
 フルメタルジャケットが装填された弾倉を叩き込む。
 敵の撃破殲滅より確実な負傷を提供することを妹理は無意識に選択し、判断した。
 2つの銃口が待ち構える、2階へと通じる階段の前に再び飛び出す。
 階段は12段。一気に駆け上がる。再び吠える357マグナム。口角を吊り上げて凄惨に笑う妹理。掠るだけで大きな戦力低下。
 階段を駆け上がる。357マグナムのセミジャケッテッドポイントが一拍遅れて妹理の足元に着弾する。
 牽制の発砲も行わない妹理。左腕や右脹脛の肉を浅く削られる。
 アドレナリンとエンドルフィンで痛みを感じない。負傷の情報は氷を押し当てられたような冷たさに変換されて脳髄へ伝達される。新陳代謝の遮断で出血も大したことがない。
「……!」
 一層、妹理の口角が釣り上がる。
 禍々しい悪鬼羅刹の肖像を連想させる。
 連中のリロードが、曲芸のような間髪入れないリロードが、拳銃を交換することで互いのロスをカバーし合うリロードが始まる。
 投げ渡されて手から離れたS&W M627PCが中空を滞空する残像が見える。……妹理にはそのよう様に視える。
 瞬発力と動体視力がピークを迎えたボクサーが相手のパンチの軌道が止まってみえるように……。
 H&K P9Sが咆哮を挙げる。
 同じ口径でも357マグナムと比較すれば可愛らしい囀りに思える発砲音。……なれど、S&Wが誇る新世代の材質を砕くには充分だった。
 エキストラクターとヨークの継ぎ目辺りに9mmのフルメタルジャケットを叩き込まれたS&W M627PCは甲高い音を立てて弾き飛ばされる。
 氷のブロックを金属バットで打ち砕いたように金属片が散らばる。
 空の弾倉のS&W M627PCを放り投げた男は後ろ腰に素早く手を廻してバックアップ用の同モデルを引き摺り出そうとするが、間に合わず。……H&K P9Sのダブルタップで胸腔に2箇所の孔を穿かれて衝撃で尻餅を搗く。
 僅か、僅か5.7mでの出来事。
 妹理は357マグナムが待ち構える細い階段を駆け上がり、数箇所の皮膚を焼き、裂かれながらも1人を仕留め、残りの1人の目前に立った。
 狭く薄暗い踊り場。
 密接した状態に近い。
 相手の呼吸から感じる焦燥。
 死に切れないでいる犠牲者。
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