夜と霧の使者
昨日のナイフ使いを相手にした仕事で想像はしていたが面倒臭いことになっていた。
ハイツと名のつく奇妙なコーポの一室で、妹理は一尺手拭いを鉢巻にして前髪を目にかからないようにして胡座を書いていた。
上下灰色のタンクトップにホットパンツ。裸足。
左頬に絆創膏を貼り付けている。
面倒ではあるが最もクリエイティブに脳が活性する時間。
H&K P9Sのクリーニングだ。
ただでさえクリーニングロッドを通すまでが困難なH&K P9Sをピッキングツールで解錠するがごとく神経を張る。
スライドやデバイスブロックを分解していく。
この過程でセフティが完全にON状態でなければギアの齟齬が発生し、連鎖的にデバイスブロックのラッチと噛み合わさり、特殊な工具無しではデバイスブロックとスライドを分離させることが不可能になる。
後年にみるH&K社のアメリカナイズで大雑把な拵えではないのが微笑ましい。
日本でもSATの前身がH&K P9Sを正式採用していた経緯があるが、装備の保全を統括する部署はさぞかし腕利きの職人揃いだったのだろう。
銃火器犯罪が一般的でなかった時代にこんなにタイトな拳銃を採用するのだから。
あるいは銃火器の出番がなく保全する部署に仕事を与えるために難解な構造のH&K P9Sを採用したのか?
「さて、と……拙いなぁ」
柳眉を下げ、苦笑い。無事に分解が終わったH&K P9Sを見る。
ナイフ使いの脇腹に銃口を密接させて発砲した為に血煙と硝煙の滓が激しく酸化して僅かな隙間のスライドスペースに焦がしたような形跡を作っている。
クリーニングリキッドで根気よくブラッシングしてやれば問題無い。
最大の問題は当初は液体だった血煙が乾いてフレームの前方部分の隙間にこびり付いていることだ。
全ての血痕を除去しなければ錆による不具合の発生になるので1時間以上かけてクリーニングする。フィニッシュのグリススプレーを吹きつける頃には神経の使い過ぎで空腹に襲われていた。
「ん。問題なーし」
スライドを引いてシリコンのダミーカートを薬室から掻き出す。
実包を装填した弾倉を差し込むとスライドを引く。
初弾が薬室に送り込まれ、内蔵式の撃鉄が引き絞られる。
慣れない使い手が一番肝を冷やすのはこの次の段階だ。
薬室に実包を送り込んだH&K P9Sはそのまま安全装置を掛けても内蔵式撃鉄が引き絞られたままなので安全に携行できない。
そこで引き金を引き絞らなければ撃鉄は空撃ちしてデコックされない。
グリップ側面にSIG P210に類似した形状のレバーが有るが、これはデコッキングレバーではなく、薬室に装填済みでデコッキングした状態から素早く内蔵撃鉄をコッキングするためのレバーとなっている。
発砲するつもりがなく、引き金を引くという行為はシューターにとっては大きな精神的負荷だろう。
このメカニズムは古くはモーゼルHScにみられた操作方法でH&Kの初期の自動拳銃に多くみられた。
ナチス政権時代の正式採用拳銃のメカニズムをコピーしているという角で設立当初のH&K社は何度もユダヤ団体や司法局から槍玉に挙げられていた。
ワルサー社やルガーのパテントを買収したモーゼル社も同じ経緯がある。
設計者が自らの技量を宣伝したがるために本社を巻き込んで製造したとしか考えられない全長20cm余、装填重量1kg弱の難物な自動拳銃を肩にかけずに、放り出しているショルダーホルスターに差し込む。
グリップエンドのマガジンキャッチは仕方なくともせめてダブルカアラムマガジンであれば……と、誰しもが残念な面持ちになる拳銃だ。
傭兵稼業を一時閉店して帰国してから3年になるが、もう既にコイツで何人の殺し屋を仕留めたか覚えていない。
※ ※ ※
――――カルテットか……コンビネーションがどこまで、洗練されているか問題ねぇ。
都市部郊外の廃棄された車輌基地に中古のカローラで向かう。
1時間ほどの道程。
その間にクライアントからの依頼メールと事前にターゲットの素性を洗い出した独自の資料を照らし合わせて作戦を練る。
乱暴にいえば、同じ銃火器を用いる殺し屋だから殺してくれという依頼内容だ。
丁寧に口語的にいえば「二つ名持ちの拳銃を使う4人組の殺し屋に命を狙われている可能性がある。殺される前に殺して欲しい」とのことだ。
この理屈でいえば殺し屋同士のコロシが無限の連鎖どころかネズミ算で拡大していくのかと、暗黒社会の先行きを慮ってしまう。
……意外にも、殺し屋同士の遺恨での殺し合いというのは異常に少ない。この業界の殺し屋なら誰しもが誰かに殺されて当然の行いをしている負い目があるからだ。
「……4人」
依頼メールとクライアントの背後も洗ったが、怪しい点はなし。
尤も、何を線引きとして怪しいとするかは個人経営としての腕前のみせどころだ。
企業形態を持っていない手前、マネージメントやマーケティングやスケジューリングも自前の家内制手工業だ。
舞い込んだ依頼メール自体が罠の可能性もある。経験と勘を働かせて仕事の匂いを嗅ぎ分けないと途端に足元を掬われる。
――――4人……なーんかなぁ。
依頼内容としては平凡。
ターゲットのプロフィールもデータとして頭に叩き込んでいる。それでも何か引っ掛かる。直感が働いたのではない。具体的な『何か』でもない。
バラクラバを被って黒い戦闘服で外見の体躯を統一させた4人組。
得物の拳銃は揃ってSW& M627PC。357マグナム8連発の回転式を用いる4人組という触れ込みで、妹理も連中の活躍は風聞に聞いている。
人数と火力の上で圧倒されているのは毎度のことだ。今更文句は湧いてこない。
心に重い液体が沈んでいるような気概では死神に魅入られる、と奥歯で舌を強く噛んで眠気を払うように活を入れる。
やがて頼りない中古車はターゲットの4人が肩透かしを食らっている山間部の飯場付近に到着。
連中を誘き出すのにアングラ事務所でエキストラを雇って、さも本当に依頼者が依頼を持ってやってきたという『劇場』を作ったのだ。
殺し屋を殺すには自分が首を吊りそうになるような、多額の金額が必要になるので必要経費で落とすのは当然だ。
経費を払ってくれる依頼者のためにも雑念は捨てて真摯に誠実にコロシに徹しないと自分が死ぬ。
仕事に失敗し生きて帰れたとしても信用商売の世界なので裏社会的に死ぬ。
「……少し冷えるな」
梅雨前の湿った時期でも深夜1時の山間部は冷え込む。
湿度が冷気を帯びたので体感的には温度計の温度より2度は下回る。
歩みを進めると既に事務所の2階建てのプレハブには電灯が点っており、室内の人影が確認できた。
ターゲットとクライアントに扮したエキストラの合計4人がたむろしているはずだ。
クライアント役にはターゲットの目前で高額な成功報酬をちらつかせて「全員の素性か素顔を直接知らなければ話はなかったことにする」と告げろと吹き込んであるので、バラクラバを脱いだ状態で待機していると尚、好都合だ。
ハイツと名のつく奇妙なコーポの一室で、妹理は一尺手拭いを鉢巻にして前髪を目にかからないようにして胡座を書いていた。
上下灰色のタンクトップにホットパンツ。裸足。
左頬に絆創膏を貼り付けている。
面倒ではあるが最もクリエイティブに脳が活性する時間。
H&K P9Sのクリーニングだ。
ただでさえクリーニングロッドを通すまでが困難なH&K P9Sをピッキングツールで解錠するがごとく神経を張る。
スライドやデバイスブロックを分解していく。
この過程でセフティが完全にON状態でなければギアの齟齬が発生し、連鎖的にデバイスブロックのラッチと噛み合わさり、特殊な工具無しではデバイスブロックとスライドを分離させることが不可能になる。
後年にみるH&K社のアメリカナイズで大雑把な拵えではないのが微笑ましい。
日本でもSATの前身がH&K P9Sを正式採用していた経緯があるが、装備の保全を統括する部署はさぞかし腕利きの職人揃いだったのだろう。
銃火器犯罪が一般的でなかった時代にこんなにタイトな拳銃を採用するのだから。
あるいは銃火器の出番がなく保全する部署に仕事を与えるために難解な構造のH&K P9Sを採用したのか?
「さて、と……拙いなぁ」
柳眉を下げ、苦笑い。無事に分解が終わったH&K P9Sを見る。
ナイフ使いの脇腹に銃口を密接させて発砲した為に血煙と硝煙の滓が激しく酸化して僅かな隙間のスライドスペースに焦がしたような形跡を作っている。
クリーニングリキッドで根気よくブラッシングしてやれば問題無い。
最大の問題は当初は液体だった血煙が乾いてフレームの前方部分の隙間にこびり付いていることだ。
全ての血痕を除去しなければ錆による不具合の発生になるので1時間以上かけてクリーニングする。フィニッシュのグリススプレーを吹きつける頃には神経の使い過ぎで空腹に襲われていた。
「ん。問題なーし」
スライドを引いてシリコンのダミーカートを薬室から掻き出す。
実包を装填した弾倉を差し込むとスライドを引く。
初弾が薬室に送り込まれ、内蔵式の撃鉄が引き絞られる。
慣れない使い手が一番肝を冷やすのはこの次の段階だ。
薬室に実包を送り込んだH&K P9Sはそのまま安全装置を掛けても内蔵式撃鉄が引き絞られたままなので安全に携行できない。
そこで引き金を引き絞らなければ撃鉄は空撃ちしてデコックされない。
グリップ側面にSIG P210に類似した形状のレバーが有るが、これはデコッキングレバーではなく、薬室に装填済みでデコッキングした状態から素早く内蔵撃鉄をコッキングするためのレバーとなっている。
発砲するつもりがなく、引き金を引くという行為はシューターにとっては大きな精神的負荷だろう。
このメカニズムは古くはモーゼルHScにみられた操作方法でH&Kの初期の自動拳銃に多くみられた。
ナチス政権時代の正式採用拳銃のメカニズムをコピーしているという角で設立当初のH&K社は何度もユダヤ団体や司法局から槍玉に挙げられていた。
ワルサー社やルガーのパテントを買収したモーゼル社も同じ経緯がある。
設計者が自らの技量を宣伝したがるために本社を巻き込んで製造したとしか考えられない全長20cm余、装填重量1kg弱の難物な自動拳銃を肩にかけずに、放り出しているショルダーホルスターに差し込む。
グリップエンドのマガジンキャッチは仕方なくともせめてダブルカアラムマガジンであれば……と、誰しもが残念な面持ちになる拳銃だ。
傭兵稼業を一時閉店して帰国してから3年になるが、もう既にコイツで何人の殺し屋を仕留めたか覚えていない。
※ ※ ※
――――カルテットか……コンビネーションがどこまで、洗練されているか問題ねぇ。
都市部郊外の廃棄された車輌基地に中古のカローラで向かう。
1時間ほどの道程。
その間にクライアントからの依頼メールと事前にターゲットの素性を洗い出した独自の資料を照らし合わせて作戦を練る。
乱暴にいえば、同じ銃火器を用いる殺し屋だから殺してくれという依頼内容だ。
丁寧に口語的にいえば「二つ名持ちの拳銃を使う4人組の殺し屋に命を狙われている可能性がある。殺される前に殺して欲しい」とのことだ。
この理屈でいえば殺し屋同士のコロシが無限の連鎖どころかネズミ算で拡大していくのかと、暗黒社会の先行きを慮ってしまう。
……意外にも、殺し屋同士の遺恨での殺し合いというのは異常に少ない。この業界の殺し屋なら誰しもが誰かに殺されて当然の行いをしている負い目があるからだ。
「……4人」
依頼メールとクライアントの背後も洗ったが、怪しい点はなし。
尤も、何を線引きとして怪しいとするかは個人経営としての腕前のみせどころだ。
企業形態を持っていない手前、マネージメントやマーケティングやスケジューリングも自前の家内制手工業だ。
舞い込んだ依頼メール自体が罠の可能性もある。経験と勘を働かせて仕事の匂いを嗅ぎ分けないと途端に足元を掬われる。
――――4人……なーんかなぁ。
依頼内容としては平凡。
ターゲットのプロフィールもデータとして頭に叩き込んでいる。それでも何か引っ掛かる。直感が働いたのではない。具体的な『何か』でもない。
バラクラバを被って黒い戦闘服で外見の体躯を統一させた4人組。
得物の拳銃は揃ってSW& M627PC。357マグナム8連発の回転式を用いる4人組という触れ込みで、妹理も連中の活躍は風聞に聞いている。
人数と火力の上で圧倒されているのは毎度のことだ。今更文句は湧いてこない。
心に重い液体が沈んでいるような気概では死神に魅入られる、と奥歯で舌を強く噛んで眠気を払うように活を入れる。
やがて頼りない中古車はターゲットの4人が肩透かしを食らっている山間部の飯場付近に到着。
連中を誘き出すのにアングラ事務所でエキストラを雇って、さも本当に依頼者が依頼を持ってやってきたという『劇場』を作ったのだ。
殺し屋を殺すには自分が首を吊りそうになるような、多額の金額が必要になるので必要経費で落とすのは当然だ。
経費を払ってくれる依頼者のためにも雑念は捨てて真摯に誠実にコロシに徹しないと自分が死ぬ。
仕事に失敗し生きて帰れたとしても信用商売の世界なので裏社会的に死ぬ。
「……少し冷えるな」
梅雨前の湿った時期でも深夜1時の山間部は冷え込む。
湿度が冷気を帯びたので体感的には温度計の温度より2度は下回る。
歩みを進めると既に事務所の2階建てのプレハブには電灯が点っており、室内の人影が確認できた。
ターゲットとクライアントに扮したエキストラの合計4人がたむろしているはずだ。
クライアント役にはターゲットの目前で高額な成功報酬をちらつかせて「全員の素性か素顔を直接知らなければ話はなかったことにする」と告げろと吹き込んであるので、バラクラバを脱いだ状態で待機していると尚、好都合だ。