夜と霧の使者
クライアント側の生き残りの1人はスーツの後ろ腰に右手を伸ばした途端にH&K P9Sの餌食になり胸部に被弾してうつ伏せに崩れ落ちる。
妹理は本懐を遂げるべく生き残りの標的――ターゲットである殺し屋――を銃口を左右させて探る。
「!」
不意に視界の中央に銀色の亀裂が入る。それが投擲されたナイフであると察するや、目前に左腕を翳す。
橈骨の真ん中にナイフが浅く刺さる。
皮膚も筋肉も薄い部分なだけに痛みが血と共に噴出し、歯を食縛る。刃に毒を塗られていないことを願うばかりだ。太い血管は傷つかなかったらしく以降の出血は大した事はない。
二閃、三閃と視界の左右の端から全長20cmほどのスローイングナイフが投擲される。
銃弾よりも遅く距離が開いているのでフライトジャケット姿の殺し屋は風声鶴唳に慌てる様子であったが、ナイフを投擲するモーションに入るときは流石にプロの端くれを見せつけ、的確に妹理の咽頭や頸部を狙撃してくる。
妹理は見逃さなかった。
そのスローイングナイフの殺し屋は左掌の内側にナイフのグリップエンドを落としていることを。
左手の薬指と小指が軽く折れて、ナイフのグリップエンドを悟られないように保持している。
恐らく僅かな挙動で左手にナイフをアイスピックグリップで握ることが可能だろう。
殺し屋は頻繁に位置を変え、妹理の視界の右から左からナイフを投げる。
それも妹理が引き金を引こうとするタイミングより僅かに速い速度で投擲し、折角定まった照準を狂わされる。
妹理もその場で腰を据えて発砲の機会を伺っているのではない。兵法家の野仕合のようにその殺し屋と対峙しながらジリジリと摺足気味に右回転で移動する。
――――何本のナイフを仕込んでいるの!
妹理に焦りが生じる。
ナイフ使いが恐ろしいのは至近接格闘の場合だと思われがちだが、ナイフ格闘術の基本は下半身のバネにある。
瞬間的に圧縮し、瞬間的に解放される瞬発力は拳銃を使用する妹理にとっても看過できない事柄だ。
古典的ナイフ格闘術ではイタリアンマフィアの決闘で古くから行われてきたコルシカンというコルシカ流ナイフ格闘術が有名だが、このナイフ格闘術はフェンシングの動作を取り入れているために一瞬で勝敗が決する。
現代の軍隊で用いられるナイフ格闘術のように振る、引く、掻く、押すという動作はその応用だ。
――――面倒臭い!
――――黴臭いワザを使うわね!
事前にナイフ格闘術の使い手だと資料は入手していたが……絶滅危惧種のコルシカンの使い手だとは思わなかった。
コルシカンのファイティングポーズはフェンシングと同じ構えで片手に鋒が鋭利なナイフを握る。目前のフライトジャケットの男はスローイングナイフがネタ切れになるや否や、即座に極端な左半身に構え、左手にスイッチナイフを構える。
スイッチナイフまで古典的なイタリアンスティリットだ。
「!」
H&K P9Sを両手で構える。
右半身のウイーバースタンス。……見抜かれている……否、プロだ。
相手はナイフのプロだ。
ウイーバースタンスの人体的構造の弱点を即座に突かれる。
その男はナイフを突き出したまま、不規則なステップで妹理の右側へ移動を繰り返す。
ウイーバースタンスは利き手側へ大きく素早く標的が移動すると、右小脇を締めて左手で固定している事情から、上半身を捻った程度の射線しか確保できない。
踏み止まる足を移動させてポジションを大きく変えないと利き手側にさらに大きな視界が確保できないのだ。
即ち、『首と視線は標的を捉えているのに上半身が、腕が、銃口が標的を捉えていない』状態になる。状況が生み出した掣肘など1秒もあれば挽回できる。……と信じている妹理。
1秒。
大きな、広い、長い1秒。
フライトジャケット姿のナイフ使いは、指弾の間髪に靴裏を紙袋を破裂させたかのような音を立てて飛び出してくる。
あたかも彼自身がサーベルの鋒に変貌したかのような、鋭く素早く視界に捉え辛い、ナイフの突きだ。
左手を一杯に伸ばし、空中を飛んでいると錯覚させるほど、視界に入る表面積が少なく、ナイフの鋒から腕、腋、腰、爪先までの距離感が錯覚を起こして掴めない。
人間の目玉が二つ有る理由は物体を三次元で補足するのが大きな理由だが、それを意図的に錯覚させる技量を持つナイフ使い。
どんなに術が優れていても素質が伴わなければ意味がない。……彼はそれを超然と行った。
1秒。
大きな、広い、長い1秒。
ナイフは貫いた。
フィニッシュ時に靴裏が床を叩き、又も紙袋を破裂させたかのような音を発する。
ナイフは確かに貫いた。
妹理の右頭部後方からそよぐフードに綺麗に風穴を拵える。
妹理はウイーバースタンスを捨てた。
銃を下方から保持する左手を離し、その掌でナイフ使いのナイフを握る手首を横へ押してやっただけだ。
大きな運動エネルギーが働いているためにベクトルを完全に逸らせることはできなかった。
だが、必殺の切っ先は逸らせた。
そして妹理のH&K P9Sの銃口はナイフ使いの左脇腹に押し付けられている。
「やってらんねぇよ……」
それがナイフ使いの最後の言葉だった。
2発、発砲。
肋骨の間から侵徹した2発の9mmのシルバーチップホローポイントはマッシュルーミングを起こしながら、体内の柔らかい部位を避け、傷つけながら複雑に進み、横隔膜を突破する前に全ての停止力を撒き散らして衝撃を内臓にぶつけた。
「……痛い」
今頃になって左頬に横一文字2cmほど切り傷が浮き上がる。
薄皮を切った程度。軟膏でも塗りこんで絆創膏を貼っておけばすぐに跡形もなくなるだろう。
頬を引き攣らせて苦悶するナイフ使いを見下ろすと頸部に1発の9mmを叩き込む。
不自然な角度で頭部が跳ね上がり床をバウンドする。
やがてホースを切ったようにドス黒い血液が溢れ出し鉄錆の匂いを湛えた池を作る。頚動脈と脛骨が確実に破壊された。
妹理は愛銃がH&K P9Sでよかったと今更ながらに自分の演繹的思考を有り難がっている。
若しも銃身固定式のH&K P9Sでなかったら、ナイフ使いの体に銃口を押し付けたときに妹理はナイフ使いと相打ちになっていた可能性があるのだ。
一閃ほどの時間での話だ。
銃身固定式でなければ1発発砲した瞬間に作動不良を起こし、次弾が撃発できずに、余力が残るナイフ使いがナイフを持つ掌を返して刃を掻き引けば、妹理の延髄は抉られていただろう。
弾倉を交換し、死に切れないでいる、巻き込まれただけのナイフ使いのクライアント連中に2発ずつ9mmを叩き込む。
殺し屋だけ執拗にバイタルゾーンに的中させていたのでは妹理の殺し屋の殺し屋としてのアシが掴まれてしまうので、腕の悪い複数の襲撃者が強襲したとみせかけるために息の根を止める。
被弾箇所もわざとノンバイタルゾーンを交える。
クライアント連中に拳銃を握らせ弾倉が空になるまで、壁や天井に向けて発泡する。
出番も多いが手抜かりも多い鑑識が本気にならない限り、この現場を読み解くのは無理だろう。
幸い、負傷した左橈骨の皮膚もナイフが橈骨に対して垂直に命中したので流血が止まらぬほどの負傷ではない。
僅か1分半の仕事。
これが妹理の具体的職務だ。
妹理は本懐を遂げるべく生き残りの標的――ターゲットである殺し屋――を銃口を左右させて探る。
「!」
不意に視界の中央に銀色の亀裂が入る。それが投擲されたナイフであると察するや、目前に左腕を翳す。
橈骨の真ん中にナイフが浅く刺さる。
皮膚も筋肉も薄い部分なだけに痛みが血と共に噴出し、歯を食縛る。刃に毒を塗られていないことを願うばかりだ。太い血管は傷つかなかったらしく以降の出血は大した事はない。
二閃、三閃と視界の左右の端から全長20cmほどのスローイングナイフが投擲される。
銃弾よりも遅く距離が開いているのでフライトジャケット姿の殺し屋は風声鶴唳に慌てる様子であったが、ナイフを投擲するモーションに入るときは流石にプロの端くれを見せつけ、的確に妹理の咽頭や頸部を狙撃してくる。
妹理は見逃さなかった。
そのスローイングナイフの殺し屋は左掌の内側にナイフのグリップエンドを落としていることを。
左手の薬指と小指が軽く折れて、ナイフのグリップエンドを悟られないように保持している。
恐らく僅かな挙動で左手にナイフをアイスピックグリップで握ることが可能だろう。
殺し屋は頻繁に位置を変え、妹理の視界の右から左からナイフを投げる。
それも妹理が引き金を引こうとするタイミングより僅かに速い速度で投擲し、折角定まった照準を狂わされる。
妹理もその場で腰を据えて発砲の機会を伺っているのではない。兵法家の野仕合のようにその殺し屋と対峙しながらジリジリと摺足気味に右回転で移動する。
――――何本のナイフを仕込んでいるの!
妹理に焦りが生じる。
ナイフ使いが恐ろしいのは至近接格闘の場合だと思われがちだが、ナイフ格闘術の基本は下半身のバネにある。
瞬間的に圧縮し、瞬間的に解放される瞬発力は拳銃を使用する妹理にとっても看過できない事柄だ。
古典的ナイフ格闘術ではイタリアンマフィアの決闘で古くから行われてきたコルシカンというコルシカ流ナイフ格闘術が有名だが、このナイフ格闘術はフェンシングの動作を取り入れているために一瞬で勝敗が決する。
現代の軍隊で用いられるナイフ格闘術のように振る、引く、掻く、押すという動作はその応用だ。
――――面倒臭い!
――――黴臭いワザを使うわね!
事前にナイフ格闘術の使い手だと資料は入手していたが……絶滅危惧種のコルシカンの使い手だとは思わなかった。
コルシカンのファイティングポーズはフェンシングと同じ構えで片手に鋒が鋭利なナイフを握る。目前のフライトジャケットの男はスローイングナイフがネタ切れになるや否や、即座に極端な左半身に構え、左手にスイッチナイフを構える。
スイッチナイフまで古典的なイタリアンスティリットだ。
「!」
H&K P9Sを両手で構える。
右半身のウイーバースタンス。……見抜かれている……否、プロだ。
相手はナイフのプロだ。
ウイーバースタンスの人体的構造の弱点を即座に突かれる。
その男はナイフを突き出したまま、不規則なステップで妹理の右側へ移動を繰り返す。
ウイーバースタンスは利き手側へ大きく素早く標的が移動すると、右小脇を締めて左手で固定している事情から、上半身を捻った程度の射線しか確保できない。
踏み止まる足を移動させてポジションを大きく変えないと利き手側にさらに大きな視界が確保できないのだ。
即ち、『首と視線は標的を捉えているのに上半身が、腕が、銃口が標的を捉えていない』状態になる。状況が生み出した掣肘など1秒もあれば挽回できる。……と信じている妹理。
1秒。
大きな、広い、長い1秒。
フライトジャケット姿のナイフ使いは、指弾の間髪に靴裏を紙袋を破裂させたかのような音を立てて飛び出してくる。
あたかも彼自身がサーベルの鋒に変貌したかのような、鋭く素早く視界に捉え辛い、ナイフの突きだ。
左手を一杯に伸ばし、空中を飛んでいると錯覚させるほど、視界に入る表面積が少なく、ナイフの鋒から腕、腋、腰、爪先までの距離感が錯覚を起こして掴めない。
人間の目玉が二つ有る理由は物体を三次元で補足するのが大きな理由だが、それを意図的に錯覚させる技量を持つナイフ使い。
どんなに術が優れていても素質が伴わなければ意味がない。……彼はそれを超然と行った。
1秒。
大きな、広い、長い1秒。
ナイフは貫いた。
フィニッシュ時に靴裏が床を叩き、又も紙袋を破裂させたかのような音を発する。
ナイフは確かに貫いた。
妹理の右頭部後方からそよぐフードに綺麗に風穴を拵える。
妹理はウイーバースタンスを捨てた。
銃を下方から保持する左手を離し、その掌でナイフ使いのナイフを握る手首を横へ押してやっただけだ。
大きな運動エネルギーが働いているためにベクトルを完全に逸らせることはできなかった。
だが、必殺の切っ先は逸らせた。
そして妹理のH&K P9Sの銃口はナイフ使いの左脇腹に押し付けられている。
「やってらんねぇよ……」
それがナイフ使いの最後の言葉だった。
2発、発砲。
肋骨の間から侵徹した2発の9mmのシルバーチップホローポイントはマッシュルーミングを起こしながら、体内の柔らかい部位を避け、傷つけながら複雑に進み、横隔膜を突破する前に全ての停止力を撒き散らして衝撃を内臓にぶつけた。
「……痛い」
今頃になって左頬に横一文字2cmほど切り傷が浮き上がる。
薄皮を切った程度。軟膏でも塗りこんで絆創膏を貼っておけばすぐに跡形もなくなるだろう。
頬を引き攣らせて苦悶するナイフ使いを見下ろすと頸部に1発の9mmを叩き込む。
不自然な角度で頭部が跳ね上がり床をバウンドする。
やがてホースを切ったようにドス黒い血液が溢れ出し鉄錆の匂いを湛えた池を作る。頚動脈と脛骨が確実に破壊された。
妹理は愛銃がH&K P9Sでよかったと今更ながらに自分の演繹的思考を有り難がっている。
若しも銃身固定式のH&K P9Sでなかったら、ナイフ使いの体に銃口を押し付けたときに妹理はナイフ使いと相打ちになっていた可能性があるのだ。
一閃ほどの時間での話だ。
銃身固定式でなければ1発発砲した瞬間に作動不良を起こし、次弾が撃発できずに、余力が残るナイフ使いがナイフを持つ掌を返して刃を掻き引けば、妹理の延髄は抉られていただろう。
弾倉を交換し、死に切れないでいる、巻き込まれただけのナイフ使いのクライアント連中に2発ずつ9mmを叩き込む。
殺し屋だけ執拗にバイタルゾーンに的中させていたのでは妹理の殺し屋の殺し屋としてのアシが掴まれてしまうので、腕の悪い複数の襲撃者が強襲したとみせかけるために息の根を止める。
被弾箇所もわざとノンバイタルゾーンを交える。
クライアント連中に拳銃を握らせ弾倉が空になるまで、壁や天井に向けて発泡する。
出番も多いが手抜かりも多い鑑識が本気にならない限り、この現場を読み解くのは無理だろう。
幸い、負傷した左橈骨の皮膚もナイフが橈骨に対して垂直に命中したので流血が止まらぬほどの負傷ではない。
僅か1分半の仕事。
これが妹理の具体的職務だ。