夜と霧の使者

 妹理は前髪の長いマッシュウルフのショトートカットを風になびかせる速度で走る。
 紺色のフード付きパーカーにジーンズという動きやすさを重視した衣類のチョイスで正解だった。
 クライアントは殺し屋に組長を殺されたヤクザ。
 後釜に座ったヤクザの組長から落とし前をつけるために『雇われただけの部外者である殺し屋を始末して欲しい』との依頼を受けてこの場にいる。殺し屋を誘き寄せる算段は図らず、ターゲットの殺し屋が次のクライアントと落ち合う場所に一足早く出向き、そのクライアント共々殺すだけ。
 方法としては乱暴極まりないが、奥ゆかしい性格の人物が多い殺し屋の業界では掴めるチャンスは一毛ほども無駄にできない。
 放棄された港湾部の廃屋。元は測量事務所だったという鉄筋2階建ての建物。10tトラック1台が悠々と走行できる連絡道路を挟んですぐに埠頭の岸壁がある……海だ。
 海風の強い午後4時。
 暴力団の面構えを見事に具現化させたクライアント側の4人と標的の殺し屋1人は鉄筋の廃屋内部の、12坪ほどの広さがある会議室と思しき部屋で落ち合っている。
 その場に、妹理は迷うことなく吶喊する。
 近接距離より僅かに遠い間合いで拳銃を用いて狙撃を目論んだのなら、精々1人を仕留めるのが関の山。
 それも妹理の潜む場所からはクライアント側の人間しか狙えない。
 混乱に乗じてターゲットの殺し屋は遁走を図るだろう。だから敢えて奇を衒った。自分の体をスタングレネードじみた使い方で強行した。
 パーカーのフードを被ったと同時に建物の外部から内部へ窓ガラスを丸めた体で割って突入。
 前転しながら低い弧を描いてブレイクスルーを成功させると、右手に構えた拳銃を左フレーム側に横倒しにして、床をスライディングしながら発砲。
 初撃は2発。被害者は1人。
 殺し屋は殺し損ねるがイニシアティブはまだこちらにある。
 スライディングから発生する慣性の法則に従いながら体勢を整えてワークスペースを確保した瞬間にダブルタップ。
 ワークスペースを確保してはいるが、狙いを定める行為ではない。『スライディングの動線から体勢を整えたときに、自分が優位に立てる【陣地】に立ち、且つ、間髪を入れない攻撃を繰り出せるポジション』に立っただけだ。
 妹理のH&K P9Sが2度吠える。
 今度は的確に2つの標的に被弾させる。9mmパラベラムのシルバーチップホローポイントを腹部に受けた。反撃できぬほどの長い苦悶は続くが、死に至るには時間がかかるだろう。
 狭い空間に耳を聾する発砲音が席巻する。いずれも妹理のH&K P9Sによるものだ。
 1970年代H&K社が西ドイツ時代にオベルンドルフ・ネッカーに本社を置いていた時期に開発製造した自動拳銃としては、最も命中精度が高く、最も複雑怪奇な構造をした撃鉄内蔵式ダブルアクション大型オートだ。
 9mmパラベラム9連発モデルと45口径7連発モデルが存在するが欧州では9mmパラべラムの需要が高く。こちらのモデルの方が有名だ。
 試作品には3バーストモデルやフルオートモデルも存在していたが技術的問題からオーソドックスな半自動給填モデルが採用された。
 1972年に発売されたH&K P9SはH&K社の初期に見られる自動拳銃のコンセプトが盛り込まれた野心的で斬新なモデルであり、軍隊や治安機関に売り込みをかけ、商業的にまずまずのヒットとなる。
 軍隊の特殊部隊に納入された経歴もあるが、土埃や硝煙滓を丁寧にクリーニングする暇のない戦場では故障が頻発すると予想され、ほどなくして軍隊への納入は絶たれる。
 だが、装備を統括する部署での専門の技術員がメンテナンスとクリーニングを施す治安組織や、それに類する都市型特殊部隊では保全不備から発生する不具合を心配する必要もなく、1978年5月に正式に製造が終了しても長く治安関係者の間で使用された。
 最大の特色は固定式のポリゴナルバレルで、これはライフリングの摩耗を防ぎ、火薬滓の残留を防ぎ命中精度の向上に貢献している。
 他にも現在ではトレンドな樹脂パーツをスライド以外の一部分で採用し軽量化を図っている。また、H&K社の短機関銃や自動小銃に多く見られるローラーロッキング機構を採用しており、反動の緩和と命中精度の向上を図っている。
 引き金から連動する撃鉄周りもラッチやレールのタイトな組み合わせから滑車の理論を発生さ、ダブルアクションでの撃発時のトリガープルを「羽毛の如く」軽くしている。
 反面、ともすれば複雑というより奇妙奇天烈で難解な構造。
 通常分解にも多くの訓練時間を要する。このデメリットがなければ現在でも充分に通用する大型オートだろう。
 複雑で不具合に見舞われるとメーカー送り以外に手の施しようがないといわれるゆえんのデバイスブロックの集大成であるが、初期のH&K社の開発コンセプト――ユーザーと時代のニーズより、技術者の職人技とアイデアを詰め込みたい心意気――を最優先したがゆえのメカニズムが横溢しており、現在でも欧州に愛好家は多く、人気に翳りは見えていない。
 妹理がこの『素直なじゃじゃ馬』を選ぶ理由は2つ。
 1つ、確実に作動するからだ。
 H&K P9Sは確かに実戦では多くの不具合報告を提出されている。だがいずれも通常分解時に細部へのクリーニングを怠ったケースやメーカーが指定する公称値を約束する実包を用いなかったケースである。
 通常分解以上の分解や中途半端な技術でのカスタマイズなどで不具合を発生させたケースまでまとめて報告されているので、一概に機構や構造上の欠点を抱えているとはいい難い。
 その証拠に妹理は今までにどのような鉄火場でも不具合による危険に晒されたことはない。
 自らの生理現象のパターンよりも知り尽くした結果だ。
 2つ、上場の命中精度を約束してくれるからだ。
 固定銃身ゆえに微調整無しでサプレッサーを捩じ込むことが可能で、特殊なライフリングを持つ銃身に特殊なロック機構で反動が軽減され、続けざまの射撃時に命中精度の極端な低下が体感として感じられない。
 この2つ目の理由が無ければH&K P9Sは試作の段階で討議もされずに、形にもならずに消えていただろう。
 長所と短所が表裏のごとく張り付いているからこその奇妙な信頼。
 選ぶのにも選ばれるのにも理由は必ず存在する。
 彼女はその気難しそうな相棒を片手に――反対の手には予備弾倉を握り――吶喊したのだ。
 軽佻浮薄で浅慮にしかみえない行動であっても、実際に狙った通りの効果を及ぼした。
 一瞬の混乱を見逃さず3人を撃ち倒す。
 クライアントもターゲットもまとめて仕留めようと考えるのは、現場を見た他者が『この場にクライアント連中を除去しようと考える第三勢力が乗り込んで銃弾をばら撒いた』と錯覚させるためでもある。
 その巻き添えを受けて交渉に居合わせた、標的である殺し屋をどさくさ紛れに殺害するだけだ。
 傍から見れば今の日本では珍しくない反社会組織同士の抗争以上の現場にはみえず、新聞の地方版にも載らない出来事として片付けられる。
 勿論、この場には殺し屋が『二人、居るのだ』。
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