夜と霧の使者
この世界の常として新鮮な情報は命を左右する。
妹理が自宅で屍のように昏睡同然の睡眠を貪っている間に、侵入者が麻酔を注射するまでもなく、夢の世界を彷徨っている津ヶ谷理恵を攫っていっても彼女に責を求めるのは酷というものだ。
この世界の常として新鮮な情報は命を左右する。
妹理の動向を探る組織が存在しているのにも関わらず、その情報を掴むことができなかったのは、彼女の情報収集能力ひいては信用商売の看板に自ら泥を塗る行為だった。
津ヶ谷理恵は、行方知れずとなった。
半年が経過した。
45%も依頼がダウンしたことを告げるタブレット端末を何度も叩く。
津ヶ谷理恵の身柄引き渡しを追加条件にしたクライアントは、相応の額に色をつけて振り込んでくれた。
このことから津ヶ谷理恵はクライアントの手によって連れ去られたのだと解る。
そして色をつけた報酬で口止め料とした。
妹理にとっては数を覚えていない依頼の結末の一つだと納得させた。
そんな事よりも45%もダウンした信用のバロメーターをいかに回復させるかで頭が痛かった。
半年前に駆け込んだ闇医者になけなしの貯金をこまめに切って支払っているので今のところ、闇医者に依頼された殺し屋が自分を狙う心配はない。
上下ともグレイのホットパンツにタンクトップのまま、魚肉ソーセージを齧りながら、依頼のメールを確認する。
相変わらず、命を賭けるには割に合わない報酬がみえ隠れしている。
こんなにいい天気なのに彼女の心は永らく曇天だ。
時折、大仕事の結果、最後の最後で守り抜くことができなかった津ヶ谷理恵の薄幸な笑顔が脳裏を横切る。
すぐにその虚しい思い出を打ち消し、タブレット端末に集中する。
この後には溜まった新聞の記事のチェックが待っている。半年分の有力紙のチェックは夏休みの宿題を彷彿とさせる、嫌な堆積物だ。
最近は中小の暴力団が連日ガサ入れの報道ばかりでニュースの幕間を埋めるのに困らない毎日が世間を騒がせている。……その記事も並行してチェックだと思うと頭が痛くなる。
「ふう……」
タブレット端末とソーセージのセロファンを投げ出すと、タンクトップ姿で大の字になってベッドで転がる。
大きく伸びをしたときだ。インターフォンが軽快に鳴る。
習慣として枕の下に手を伸ばし、H&K P9Sを静かに引き抜く。
居留守のように息を殺す。
――――ふむ。帰ったか。
――――? ……軽い足音?
――――女? 若い?
自室の窓に身を寄せて手元の手鏡で反射させ、今し方、訪った人物を伺う。
「……え!」
相棒のH&K P9Sをベッドに放り出し、慌ててスエットパンツを穿きジャージを羽織る。そしてドアをぶち破る勢いで自室を飛び出る。
「ちょっと待って!」
ハイツに隣接する駐輪場で彼女を呼び止める妹理。
彼女は……津ヶ谷理恵は振り向いた。
袖を折ったデニムのシャツにジーンズパンツ、腰にウエストポーチを巻いただけの軽装だ。
喜色を浮かべる津ヶ谷理恵の次の台詞も待たずに、慌てる彼女の手を引いて妹理は自室に連れて帰る。
クライアントの詮索は命を短くするがどうしても納得が行かない自分を宥める絶好の機会だと思った。
これがどこかの誰かのブラフやデコイだとすればこの瞬間に妹理は『消されている』。妹理にとっては、そんな心配事も吹き飛ぶほどの出来事だった。
コーヒーのマグカップが2つ置かれたテーブルを挟んで眉根を忙しなく揉む妹理が口をへの字に曲げ、キョトンとしている津ヶ谷理恵を一瞥する。
謎は解けた。
謎というには余りにもお粗末な展開。いつもの面倒事に毛が生えた程度の種明かしでしかなかった。
半年前に津ヶ谷理恵と知り合ってからのことの顛末はこうだ……。
「解った……OK、解ったわ……つまり」
妹理は今度はコメカミを押しながらいう。
「私を雇った本来のクライアントは元からあなたを殺す気はなかった。万が一自殺されたら面倒なのとクライアントを信じない『護り屋』の梶本を消して欲しかっただけ。で、同じタイミングで取引相手の中の暴力団関係者が南方から殺し屋を雇って私達にふっかけてきた……そういうことね?」
津ヶ谷理恵が苦笑いしながら頷く。
「はあ。一部、端折ってますけどそんな所です」
「……ふぅ。まあ、良いわ。その一部というのは私が詳しく聞くと拙いことね?」
「はい。ごめんなさい……」
妹理の心に残っていた謎……何故、殺し屋の殺し屋でしかない自分が本来のクライアントからも、正体の知れない殺し屋からも狙われたのか。
2つの、目的を同じとする組織が共闘せず機会だけを伺っていたのか?
……謎は解けた。
本来のクライアントは津ヶ谷理恵の右肩に埋められたマイクロフィルムを引き継いで取引を続行し、更に収益を増やしたかった。
『護り屋』に自白剤を打ち、津ヶ谷理恵を持ち帰りたかった連中のクライアントは、化学兵器製造と取引の全貌を記したマイクロフィルムを奪い、交渉を優位に進めて全てのシノギを狙っていた。
想像していた展開が想像通りに広がると逆に驚きを隠せない。妹理を混乱させていたのは、2つの勢力がタイミングを計ったように接触をしてきたので情報に齟齬を発生させただけだった。
「ふぅ……」
肩から重い何かが落ちた気分。
チラリと床に散らばった新聞が目に入る。
「……もしかして……最近の暴力団の連続したガサ入れって……」
「はい。お父さんの『会社』……あ、あなたのクライアントがこの一件で一応勝ったようです。それで見せしめに取引相手で反抗的な暴力団の情報を警察にばらしているとか……それで! お父さん、無事でした!!」
――――あ、駄目だ。こんなところまで聞いたら私が消される。
冷や汗が流れる妹理。
「それからなんですけど、私は本当にいらないそうです。殺し屋と清掃人と処理業者を雇ってまで、私一人を殺して死体を処理していたらお金がかかるから、海外へ留学扱いで国外で『消えます』」
津ヶ谷理恵は笑顔でしれっという。
「え? 『消える』って?」
「あ、えと……殺されるために外国へ行くんじゃなくて、『会社』の上の組織が外国にあって、そこでならお父さんと一緒に面倒をみてくれるそうなので」
「で、日本大使館には『消息不明で届け出て』御仕舞い、ね?」
「そうです。その国でお父さんと生活できるなら……」
「へえ。事情は探らないけどよかったわね」
恐らく津ヶ谷理恵は私のわだかまりだけでも解消させたくて今日、1人でここにきたのだろう。
律儀が固くて損をするタイプだな、と妹理は僅かに眉を落とす。
「もしもどこかの国で『右肩に2針の縫い傷が有る日本人女性』を見
かけたら私だと思って下さいね」
おどけた顔で悪戯っぽく津ヶ谷理恵はいう。言葉に悲壮感は感じられない。
そして佇まいを正すと妹理を真っ直ぐ見つめて、深く頭を下げた。
「有難う御座いました。何とか命を繋ぐことができました。この恩は一生忘れません。こんな救われない世間でもあなたのような人がいたことは凄く驚きました。助けられました。本当に有難う御座いました」
「……」
妹理もその誠意に負けない真摯な気持ちで彼女をみる。
「……でも、ごめんなさいはいいませんね。きっとあなたの世界ではこんなことはいつものことでしょうから、ごめんなさいは無礼でしょう?」
しばし見つめ合う2人。
「……いつまでも元気でね」
「……有難う。『妹理さん』」
初めて津ヶ谷理恵の口から名前で呼ばれた気がする。
それに軽い衝撃を覚えていると、不意に津ヶ谷理恵は立ち上がり、一礼して妹理の部屋を出た。
妹理は何も声を掛けなかった。
視線で追うこともしなかった。
莨屋妹理という殺し屋を殺す事を生業にする女の、1つのドラマ……とも呼べない、単なる日常。
暗社会でホンの少しばかり血が通った出来事でしかない。
それでも妹理の心には救済が完了した達成感が舞い降りる。
しばし、2つ並んだコーヒーが入ったマグカップを眺めていたが、ポケットに押し込んだ携帯電話が着信を報せるとすぐに手に取る。
『依頼有り。委細下記URL』
いつもの依頼フォームに現実に戻され、本日も殺し屋の殺し屋としての彼女が蠢動する。
《夜と霧の使者・了》
妹理が自宅で屍のように昏睡同然の睡眠を貪っている間に、侵入者が麻酔を注射するまでもなく、夢の世界を彷徨っている津ヶ谷理恵を攫っていっても彼女に責を求めるのは酷というものだ。
この世界の常として新鮮な情報は命を左右する。
妹理の動向を探る組織が存在しているのにも関わらず、その情報を掴むことができなかったのは、彼女の情報収集能力ひいては信用商売の看板に自ら泥を塗る行為だった。
津ヶ谷理恵は、行方知れずとなった。
半年が経過した。
45%も依頼がダウンしたことを告げるタブレット端末を何度も叩く。
津ヶ谷理恵の身柄引き渡しを追加条件にしたクライアントは、相応の額に色をつけて振り込んでくれた。
このことから津ヶ谷理恵はクライアントの手によって連れ去られたのだと解る。
そして色をつけた報酬で口止め料とした。
妹理にとっては数を覚えていない依頼の結末の一つだと納得させた。
そんな事よりも45%もダウンした信用のバロメーターをいかに回復させるかで頭が痛かった。
半年前に駆け込んだ闇医者になけなしの貯金をこまめに切って支払っているので今のところ、闇医者に依頼された殺し屋が自分を狙う心配はない。
上下ともグレイのホットパンツにタンクトップのまま、魚肉ソーセージを齧りながら、依頼のメールを確認する。
相変わらず、命を賭けるには割に合わない報酬がみえ隠れしている。
こんなにいい天気なのに彼女の心は永らく曇天だ。
時折、大仕事の結果、最後の最後で守り抜くことができなかった津ヶ谷理恵の薄幸な笑顔が脳裏を横切る。
すぐにその虚しい思い出を打ち消し、タブレット端末に集中する。
この後には溜まった新聞の記事のチェックが待っている。半年分の有力紙のチェックは夏休みの宿題を彷彿とさせる、嫌な堆積物だ。
最近は中小の暴力団が連日ガサ入れの報道ばかりでニュースの幕間を埋めるのに困らない毎日が世間を騒がせている。……その記事も並行してチェックだと思うと頭が痛くなる。
「ふう……」
タブレット端末とソーセージのセロファンを投げ出すと、タンクトップ姿で大の字になってベッドで転がる。
大きく伸びをしたときだ。インターフォンが軽快に鳴る。
習慣として枕の下に手を伸ばし、H&K P9Sを静かに引き抜く。
居留守のように息を殺す。
――――ふむ。帰ったか。
――――? ……軽い足音?
――――女? 若い?
自室の窓に身を寄せて手元の手鏡で反射させ、今し方、訪った人物を伺う。
「……え!」
相棒のH&K P9Sをベッドに放り出し、慌ててスエットパンツを穿きジャージを羽織る。そしてドアをぶち破る勢いで自室を飛び出る。
「ちょっと待って!」
ハイツに隣接する駐輪場で彼女を呼び止める妹理。
彼女は……津ヶ谷理恵は振り向いた。
袖を折ったデニムのシャツにジーンズパンツ、腰にウエストポーチを巻いただけの軽装だ。
喜色を浮かべる津ヶ谷理恵の次の台詞も待たずに、慌てる彼女の手を引いて妹理は自室に連れて帰る。
クライアントの詮索は命を短くするがどうしても納得が行かない自分を宥める絶好の機会だと思った。
これがどこかの誰かのブラフやデコイだとすればこの瞬間に妹理は『消されている』。妹理にとっては、そんな心配事も吹き飛ぶほどの出来事だった。
コーヒーのマグカップが2つ置かれたテーブルを挟んで眉根を忙しなく揉む妹理が口をへの字に曲げ、キョトンとしている津ヶ谷理恵を一瞥する。
謎は解けた。
謎というには余りにもお粗末な展開。いつもの面倒事に毛が生えた程度の種明かしでしかなかった。
半年前に津ヶ谷理恵と知り合ってからのことの顛末はこうだ……。
「解った……OK、解ったわ……つまり」
妹理は今度はコメカミを押しながらいう。
「私を雇った本来のクライアントは元からあなたを殺す気はなかった。万が一自殺されたら面倒なのとクライアントを信じない『護り屋』の梶本を消して欲しかっただけ。で、同じタイミングで取引相手の中の暴力団関係者が南方から殺し屋を雇って私達にふっかけてきた……そういうことね?」
津ヶ谷理恵が苦笑いしながら頷く。
「はあ。一部、端折ってますけどそんな所です」
「……ふぅ。まあ、良いわ。その一部というのは私が詳しく聞くと拙いことね?」
「はい。ごめんなさい……」
妹理の心に残っていた謎……何故、殺し屋の殺し屋でしかない自分が本来のクライアントからも、正体の知れない殺し屋からも狙われたのか。
2つの、目的を同じとする組織が共闘せず機会だけを伺っていたのか?
……謎は解けた。
本来のクライアントは津ヶ谷理恵の右肩に埋められたマイクロフィルムを引き継いで取引を続行し、更に収益を増やしたかった。
『護り屋』に自白剤を打ち、津ヶ谷理恵を持ち帰りたかった連中のクライアントは、化学兵器製造と取引の全貌を記したマイクロフィルムを奪い、交渉を優位に進めて全てのシノギを狙っていた。
想像していた展開が想像通りに広がると逆に驚きを隠せない。妹理を混乱させていたのは、2つの勢力がタイミングを計ったように接触をしてきたので情報に齟齬を発生させただけだった。
「ふぅ……」
肩から重い何かが落ちた気分。
チラリと床に散らばった新聞が目に入る。
「……もしかして……最近の暴力団の連続したガサ入れって……」
「はい。お父さんの『会社』……あ、あなたのクライアントがこの一件で一応勝ったようです。それで見せしめに取引相手で反抗的な暴力団の情報を警察にばらしているとか……それで! お父さん、無事でした!!」
――――あ、駄目だ。こんなところまで聞いたら私が消される。
冷や汗が流れる妹理。
「それからなんですけど、私は本当にいらないそうです。殺し屋と清掃人と処理業者を雇ってまで、私一人を殺して死体を処理していたらお金がかかるから、海外へ留学扱いで国外で『消えます』」
津ヶ谷理恵は笑顔でしれっという。
「え? 『消える』って?」
「あ、えと……殺されるために外国へ行くんじゃなくて、『会社』の上の組織が外国にあって、そこでならお父さんと一緒に面倒をみてくれるそうなので」
「で、日本大使館には『消息不明で届け出て』御仕舞い、ね?」
「そうです。その国でお父さんと生活できるなら……」
「へえ。事情は探らないけどよかったわね」
恐らく津ヶ谷理恵は私のわだかまりだけでも解消させたくて今日、1人でここにきたのだろう。
律儀が固くて損をするタイプだな、と妹理は僅かに眉を落とす。
「もしもどこかの国で『右肩に2針の縫い傷が有る日本人女性』を見
かけたら私だと思って下さいね」
おどけた顔で悪戯っぽく津ヶ谷理恵はいう。言葉に悲壮感は感じられない。
そして佇まいを正すと妹理を真っ直ぐ見つめて、深く頭を下げた。
「有難う御座いました。何とか命を繋ぐことができました。この恩は一生忘れません。こんな救われない世間でもあなたのような人がいたことは凄く驚きました。助けられました。本当に有難う御座いました」
「……」
妹理もその誠意に負けない真摯な気持ちで彼女をみる。
「……でも、ごめんなさいはいいませんね。きっとあなたの世界ではこんなことはいつものことでしょうから、ごめんなさいは無礼でしょう?」
しばし見つめ合う2人。
「……いつまでも元気でね」
「……有難う。『妹理さん』」
初めて津ヶ谷理恵の口から名前で呼ばれた気がする。
それに軽い衝撃を覚えていると、不意に津ヶ谷理恵は立ち上がり、一礼して妹理の部屋を出た。
妹理は何も声を掛けなかった。
視線で追うこともしなかった。
莨屋妹理という殺し屋を殺す事を生業にする女の、1つのドラマ……とも呼べない、単なる日常。
暗社会でホンの少しばかり血が通った出来事でしかない。
それでも妹理の心には救済が完了した達成感が舞い降りる。
しばし、2つ並んだコーヒーが入ったマグカップを眺めていたが、ポケットに押し込んだ携帯電話が着信を報せるとすぐに手に取る。
『依頼有り。委細下記URL』
いつもの依頼フォームに現実に戻され、本日も殺し屋の殺し屋としての彼女が蠢動する。
《夜と霧の使者・了》
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