夜と霧の使者

 津ヶ谷理恵が暗がりの影に消えるのを確認すると、右尺骨を家屋の柱にあてがって簡易的に固定させる。……静かに狙撃。
 白色のドットポイントが合わさった瞬間の2連発。
 9mmの発砲音は水平線の向こうと夜空に吸い上げられ、スチールの空き缶を踏み潰した程度の音量に留まる。銃声がいつもよりちいさく聞こえるのは、緊張で聴覚が狭窄を起こしているだけだ。視覚が狭くなるを感じる。
 2発の9mmは違わず標的を仕留める。
 30mの開いた距離を一気に走る。砂浜に放り出された男の救出に向かう。
――――やっぱり、ね。
 顔色こそ悪いものの、数時間前にカフェの襲撃を境に別れた男、梶本だ。
 頚部の大動脈で脈を測る。
 マグライトで瞳孔の拡散具合を調べる。目蓋、唇、舌と銜えたマグライトを当てながら確認。細部の動脈が鬱血気味。
――――脈は比較頻脈。
――――目蓋、唇、舌が鬱血。
――――腕の注射器の跡も斑点状。
――――クスリか……投薬されて2時間以上経過ってところ?
――――アルカロイド系……アトロピン?
――――比較頻脈だから『何か』の自白剤ね。
――――どの道……助からない……。
 梶本には、すぐに命の見切りをつけ、脇に倒れている2人の懐を探ってみる。
 腹部に9mmの貫通創。手当が適切なら命に別状はない。手当をしてやる気はない。
 サマージャンパーの内側や麻のジャケットの懐からベレッタM92FSと予備弾倉が2本ずつでてくる。それらをズボンのベルトに差し込んで他にも漁る。
 財布、免許証、携帯電話、ナイフ、麻薬のパケ程度しか出てこない。携帯電話を操作してアドレスや着信とメールの履歴を探ってみる。
――――こいつらは下っ端か……。
――――上位組織とか『私の知っている名前』が並んでいない。
 視界の右端――水平線とは反対側――で小さなオレンジの輪が咲いた。
「!」
 咄嗟に仰向けに倒れる。咄嗟に離し、中空を舞う携帯電話に被弾。
 そして銃声。
――――1秒! 340m以下の距離!
――――近くに伏兵!
 マズルフラッシュと伝わる銃声から距離を算出する。少々強装の拳銃弾だと分かる。
――――敵戦力1……いや、4!
 遮蔽効果の高い第四匍匐で移動。
 スピードは遅いが今の状況で一番適した匍匐前進だ。
 その匍匐前進の最中に視界の端で吠える銃火を数える。
 闘争と抗争を忘れた暴力団にあるまじき練度。
 この薄暗い空間で的確に効果をあげる射撃を繰り返す。今し方も靴の踵のラバーが削られた。
 銃火の散らばり方からして横隊15m間隔を維持しながら前進している。
 射線は重なっていない。フルオートではない。牽制射撃ではない。何より、『得物を前に舌舐めずり』という三下の好きな戦法ではない。
 這う這うの体で後退し、津ヶ谷理恵が潜む遮蔽物に逃げ込むと銃撃が止む。
 肩で息をしながら混乱気味の脳内をまとめるために深呼吸する。
「おかしい!」
「え?」
 妹理の言葉に、みえぬ物陰から思わず声を発する津ヶ谷理恵。
「あいつら……あいつらは『二つの勢力が入れ違いに迫っているのかも』」
「……」
「おかしいと思ってた。本来のクライアントはあなたの身柄と身辺情報の捕捉と引渡し。なのに、今襲ってきている奴は『手段を選んでいない』。あなたが生きていようと何だろうと関係なし。銃撃してきた奴らは『あなたのマイクロフィルム』を知っている連中」
「それは詰まり……え?……」
「具体的な名前はいえないけど、あなたのお父さんの『会社』から私は依頼されているのに、同じ時期に同じターゲット……あなたを他の勢力が強引に狙っているわけね」
「どうしてそう解るの?」
「前者と後者でのドクトリンが違うの。私の本来のクライアントはあなたを『無事』なまま欲しがっていたのに、あいつらはあなたの生死は関係なさそうだもの。梶本って『護り屋』に自白剤を使っていたり、カフェでの襲撃、今し方の銃撃からしてその辺の三下じゃないわ。プロを投入してまで、あなたが欲しいらしいの」
「じゃ……」
 津ヶ谷理恵も話の流れから何となく理解し始めた。
「じゃ、お父さんの『会社』と『会社と取引の有った会社』が同時に私を狙っている?!」
「残念だけど、状況はそのようね。タイミングが同じなのは偶然なのかは解らないけど、その2つの勢力は少なくとも連携していないわ……詰まり、双方が『自分が優位に立ちたいから』あなたの持つ『秘密』を競うように狙っている、と」
 そこまで一気に喋ると突然妹理は黙って立ち上がり、津ヶ谷理恵の潜むそばまで近寄り、彼女の上に覆い被さった。
 一拍の間を置いて目前のプレハブ倉庫の窓ガラスが爆発音と共に飛び散る。
 屋根に開いたであろう孔から白煙が小さなキノコ雲を作っている。
――――グレネードランチャー!
――――遮蔽物の意味がない!
 3秒間隔で間の抜けた40mm擲弾が秒速87mで飛来し、家屋や放棄された山積する木材を吹き飛ばす。
――――セオリーなら砲撃の後、侵攻……。
 世界中の戦場で戦ってきた妹理には連中が戦い慣れしているだけに次々と打つ手が解った。その上で、残念だが対抗する火力は心許ない。
 燻る小さな炎が辺りの足元を照らす。
「伏せて! ここでじっとしていて!」
 津ヶ谷理恵の返事を聞かず、彼女の頭からボロ雑巾同然のキャンパスシートを被せる。
――――あー。もう!
――――つまり、私は双方からの敵ってわけか!
――――あいつらからすれば『護り屋』が交代した程度の認識なんだろうなぁ。
――――手打ちも取り入りも望めない、か……。
 考えを巡らせながら匍匐前進で千切れ飛んだ針金や細いロープを集める。
 襲撃している連中は止めを刺すために必ずこの場に近寄る。
 動くもの全てに銃弾を叩き込み、僅かな空間にも手榴弾を放り込むだろう。『背景が潤沢なら、プロならそうする』。
 カフェでの襲撃でみせた手際のよさから戦場での戦闘経験がある要員に違いない。
 手際良く情報を引きだすために自白剤を用いることからそれは確信している。
 稚拙なワイヤートラップでは太刀打ち出来ない。9mmが届く範囲で確実な打撃を与えるのが理想だ。
 考えれば考えるほど、視野狭窄が始まる。聴覚が狭くなる。胎の底が熱い。鳩尾が冷える感触。反対に冴えてくる頭脳。過去の経験や勘に恃む戦略が構築されていく。
 ……戦闘悦楽症にスイッチが入った瞬間だ。
 H&K P9Sのスライド部分を大顎で噛み締め、赤いハンドルのアーミーナイフから跳ね上げたプライヤーで針金や紐を結び付けていく。
 いつか昔に煮え湯を飲まされたルーブ・ゴールドバーグ・マシンをたったこれだけの残骸で再現させるべく、指先が働く。
 勝機は一瞬。
 その一瞬が完全勝利で収まるイメージしか彼女の頭にはない。……それを強くイメージする。自分ならできる! と。
 思考の狭窄。
 H&K P9Sを銜える唇の端に笑みすら浮かぶ。
 スリルしか感じたくない。
 ドラム缶、キャンパスシート、鉄パイプ、予備のナイフ、拾ったベレッタM92FS、イムコライターのオイルタンク等が複雑怪奇に針金と紐で連結されていく。
 こちらが優位な点は、小さな火力しか持っていないと充分に印象付けることに成功している点。


「……」
 先頭を行く都市迷彩の戦闘服に身を包んだ男は左手を上げて前進中の仲間に停止を命令する。
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