夜と霧の使者

 弾倉が空になることを恐れず、疎らな発砲で応戦。左右に展開する4人ほどの待ち伏せを黙らせる。
 被弾したようではなさそうだ。怯んだだけだ。その間に一番手薄な右側通路を走る。
 慌てて角の遮蔽から顔を出す襲撃者の顔も確認せず1発ずつ9mmを胸部に叩き込む。即座に死にはしないが反撃や追撃は不可能な負傷だ。
 鉄火場は慣れていないのか、及び腰で悲鳴を挙げながら両手で妹理の左手にしがみつく津ヶ谷理恵。
 肝の座っていない彼女はみるからに素人で、間違えても闇社会の人間ではないし闇社会でいてはいけない人間だ。
 好奇心が場所柄を弁えずに現れる。
 この津ヶ谷理恵という女が何者でどのような『価値』があるのか興味が出る。上昇した体温と茹でられ始めたアドレナリンが妹理を蝕み始める。
――――ダメ!
――――『ここじゃダメ!』
 戦闘悦楽症にスイッチが入るのを危惧した彼女は急いで、津ヶ谷理恵の手を引いて大通りに出た。
 襲撃現場のカフェから150mほど離れていた。
 雑踏の向こうで銃声が聞こえる。『護り屋』の男が未だ残存して敵を引き付けているのだろう。H&K P9Sをホルスターに戻し、早歩きに切り替えて呼吸を整える。
 幸い、妹理が下駄履き代わりに使っている中古のカローラを駐車してある立体駐車場に近かったので、充分に警戒しながら歩みを進める。
――――敵性戦力は確認されず、か。
――――監視している割には穴だらけね。
――――そもそも大きな集団ではないの?
――――兎に角逃げなきゃ。
 愛車の運転席側に廻ると、キーをさり気なくポケットから落として身を屈めてキーを拾う。その時に車体下部やタイヤ周辺の死角も確認するが、不審物は見当たらない。
「津ヶ谷さん、乗って!」
「でも梶本さんがまだ……」
「? ……あの『護り屋』さんのこと? 今は逃げなきゃ『護り屋』さんが作ってくれた逃げるチャンスを失うわ! 早く乗って!」
 渋々、顔で津ヶ谷理恵も助手席に乗り込む。
 恐怖か残心か、津ヶ谷理恵はポロポロと涙を零して泣き出した。
 発車したカローラは津ヶ谷理恵の自宅には向かわず、妹理の自宅やセーフハウスにも向かわず、法定速度のまま、この街を離れた。
 行くあてはない。
 尾行車の有無をひたすら確認しながらの神経の擦り減る運転だった。
 無意味に1時間ほど、一般道を縦横に走っていると突然、津ヶ谷理恵は喋りだした。
「あ、あの……」
「何?」
「今からいう場所に行ってもらえますか?」
  ※ ※ ※
 津ヶ谷理恵の指定した場所へとハンドルを切って3時間。
 勿論、尾行を考慮している。彼女のいう場所は、本来なら道なりに進めば30分程度で到着する。
 人口の砂浜が続く海岸線が臨める高台。
 植林が行き届いており、夏には大量のマイナスイオンが期待できそうな林道を模したプロムナード。
 津ヶ谷理恵に案内されてやって来たのは模擬林道から道のない斜面を降りて海岸の磯辺を越えた場所にある……何とも、人間の生活跡が生々しい過疎部落跡だった。
 廃村なのは見ただけで解る。人の気配がしない。
 暗い世界に潮騒。光源は天上の満月と僅かな街灯。
「……」
「……」
 2人の顔は冷たく引き締まっている。
 津ヶ谷理恵の言葉を信じるのなら、梶本という『護り屋』とはぐれた場合はこの寂れた部落跡で落ち合う手筈になっている。
 以前に訪れたときはまだ人が住んでいて、梶本の身内だという住人の家屋に潜伏するはずだったが……。
「誰も居ないね……」
「こんなはずじゃ……」
「うーん。電気ガス水道も止められているわね。住民が全員立ち退きを強制された感じがするわ。敵が先の先を回って瞬間的に住人を退去させたなんて考えられない。それに」
 妹理はドアノブや窓ガラスを指で撫で、その先に付着する埃をマグライトで照らす。
 昨日今日に住人が居なくなったのではない。
 8棟ある家屋と3棟のプレハブ倉庫を見て回る。『引越しをした形跡』しか確認できない。どの家屋にも家具類は一切ない。完全に放棄された廃村だ。
「ふむ……津ヶ谷さん。あなたの知らない内に状況は変わったようね」
 妹理は何気なく郵便受けを覗き、役所の住民退去の報せを記した封筒を取り出した。
「あるいは……こうなるのを、住民がまとめて引越しするのを梶本という人は見越して空家をセーフハウスにするつもりだったと考える方が自然かな?」
 泣き出しそうな瞳を堪える津ヶ谷理恵だったが何かを観念したように、とつとつと語りだした。
「私ね、化学兵器の取引と帳簿を撮影したマイクロフィルムがここに埋められているの」
 津ヶ谷理恵はジャージ下の開襟シャツの右肩を開いてみせた。3cmほどの縫合跡がある。
――――強ちVXガスとは無関係でもなかったのね。
――――『自分』を隠すためにわざと闇社会で毒使いだと吹聴していたか。
――――有象無象で玉石混交のこの業界なら眉唾がいてもおかしくないしね。隠れるなら表の世界より安全かも。
「お父さんが暴力団に武器を提供する『会社』の経理で、いつか自分が『殺されるのを知っていた』の。それで保険のつもりで私に『会社の秘密』が詰まったこれを埋めて何とか生きてる。きっと、自分に何かあったらお前達の秘密をばらすぞって脅していたんだと思う……これがバレたら困るのは顧客よりも取引元の暴力団。私達を襲ってきたのは多分、その暴力団の内の一つ……ってことはお父さんはもう殺されたんだ……それで証拠になるような……マイクロフィルムを持っていないから身内の私を……」
 そこまで話して自分の涙を誤魔化すように硬い笑顔を作る。
「でね、お父さんに世話になっていたっていう『護り屋』の梶本さんが私のために専属のボディガードになってくれて……」
――――!
「しっ!」
 妹理は身を屈めて津ヶ谷理恵の左手を引く。
 家屋の外で潮風に晒されて数十秒。
 砂浜を噛む足音が複数、聞こえる。重い何かを引き摺るような耳障りな音も聞こえる。
 家屋の角から覗く。
 3人の人影……その内、歩いている者は2人。その2人に挟まれて引き摺られている脱力した人影。
「本当にここかよ!」
 月光で男達の姿が浮かび上がる。男の1人が歩く気力のない脱力した男の脇腹を蹴り上げる。蹴り上げられた男は呻き声を上げる気力もないのか、反応がない。
「……っ!」
――――……梶本さん、か。
 妹理の横で顔を青くしている津ヶ谷理恵の顔色をみれば、あの脱力した男が誰なのか解る。
――――先回り?
――――ここが事前に解っていた?
――――違う、かな?
 妹理の右手が自然なモーションでH&K P9Sを抜く。
 コッキングレバーを親指で押し下げる。カチンと乾いた音を立てたが潮騒に紛れて30mほど向こうの男達には聞こえない。左手は後ろ腰に廻り、予備弾倉を抜く。
 先制を仕掛けるには今が好機だが敢えて無視した。
 何もこちらから居場所を教えてやる理由はない。
 連中は津ヶ谷理恵を探しているのだ。
 ……だが。
「!」
 不意に袖を引っ張られて妹理は津ヶ谷理恵の方をみる。
 津ヶ谷理恵は涙を零す瞳で、悲壮な視線で妹理に訴える。
「……」
「……」
 数秒間、視線同士で押し問答をするが結局、妹理は折れた。
――――梶本さんの救出、か。
――――あー。もう!
「……あー。もう……」
 妹理は津ヶ谷理恵に、足音を静かにしながら後ろへさがるようにハンドシグナルを送る。
 最早、誰がクライアントで誰がターゲットなのか解らない状況が訪れている。
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