夜と霧の使者
――――『護り屋』が護っている?
――――この子はやっぱり何か重大な『モノ』を持っている?
――――いや、『モノ』を使う?
しばし考える妹理。
考えあぐねるより信頼できる筋を頼ろうとタブレット端末を手に取る。
ブックマークはしているが決して使いたくないURLから幾つかアクセスしてとあるメールフォームに辿り着く。
「はぁ……」
苦しそうに眉を下げ、深い溜め息を吐いて画面上のキーボードを叩く。
※ ※ ※
クライアントは身柄の引渡しと同時に、収集した情報をまとめて渡すという新しい条件を付加してきたので、追加料金の発生と遂行日数の加算を提示し、思考を重ねる時間を設ける。
――――色々とキナ臭いわね。
――――もう、『切り駒』に使われているのかも?
切り駒とは任務遂行と同時に口封じのために暗殺される作戦要員を指す。……妹理は自身の危険を感じ取っている。
キナ臭い。闇社会の嗅覚が嫌な臭いを感知する。次第に妹理は焦燥に駆られる。
「動いてみようかしら、ね」
午後6時。
津ヶ谷理恵。ファインダーを通さずにみると中々の粒。磨けばもっと魅力的に輝く原石。ジャージを羽織りスエットパンツを穿いている姿でさえわざと野暮ったい姿を演出しているようにみえる。
いつもの津ヶ谷理恵の買い物コースで待ち伏せ。
コンビニやスーパーを梯子している道すがら、雑踏の切れ目でピタリと津ヶ谷理恵の背後につく。
例の『護り屋』も警戒する。人混みの波間の向こうにその姿を確認する。サングラスにハンチング帽のその男はどのように顔色が変貌したのか、この距離では詳しく解らない。
「初めまして。津ヶ谷さん」
「……」
津ヶ谷理恵も尾行されているのを悟っていたのか歩みを止めた。
「私がその気になればガスを撒くこともできるのよ?」
二十歳前後のうら若い年齢に反して落ち着いた物腰の喋り方。
二人は歩みを止めずに小声で話す。
二人共、背後の『護り屋』を意識している。
妹理は排撃を警戒して。
津ヶ谷理恵は速やかな救出を期待して。
「怖いわね。でね、この人混みの中でソマンやタブンみたいな毒でも撒かれたら厄介だからちょっと付き合わない? ……後ろの『護り屋』さんも一緒にさ」
「! ……知ってたんだ。良いわ。どこまで何を知っているのか知りたいし」
「あらあら。プロから何か訊きたいんだ。お手柔らかにね」
津ヶ谷理恵は『護り屋』の方に視線で合図すると大人しく妹理の後ろについて歩いた。
※ ※ ※
「あなたに何もかもを話す義理はありません」
開口一番、津ヶ谷理恵は鋭い口調で先制する。
テーブルやカウンターが4割ほど埋まったカフェの一角。やや離れた位置に他人の素振りで『護り屋』の男が座席に着く。
「津ヶ谷さん。あなたは『化学兵器は使えない。知識も薄い』」
「怒らせないで、VXガスでもサリンでも今直ぐ撒き散らすことができるって」
その静かな怒気を孕んだ言葉を制して妹理はいう。
「私はさっき、『ソマンやタブン』といいました。サリンと並んで酷い兵器ではありますが、私が『毒』だといったときに否定しなかった。『毒物』や『化学兵器』に一家言ある人はこの定義を混同されることを嫌います。ソマン、タブン、サリン、VXガスは性質が似ている化学兵器です。一般的なイメージの『猛毒』とは定義が違います。あなたはそれを否定しなかった」
眉間に皺が寄る津ヶ谷理恵だったが、観念したような小さな溜め息を吐く。物憂げな視線を手元のコーヒーカップに落とす。
「私に何を訊きたいの? 何をさせたいの? 『また利用する気?』」
「……津ヶ谷さん。あなたは恐らく理由があって『鍵』としてみなされている。VXガスを使うというのも、ガスを使う殺し屋として活躍中だというのも、大金を払って流布したブラフでしょ? 明るい世界じゃ生きていけないから嘘でも何かの箔をつけて『こっちの世界』に沈むしかなかった」
「……『私の全てを知って』どうする気ですか?」
津ヶ谷理恵が物分りの良い人物で助かった。様々な説明が省ける。
「正直にいうと、自己保身のため。私はあなたに関わったために殺される可能性が高いの。何も知らずに死ぬのは嫌。逃げられることだったり解決できることなら何でもしたい。命は惜しいものね」
「それはそれはご愁傷様。私には何も」
「真面目に聴いて欲しいのよ。……あの『護り屋』さんは本物でしょ? どういう契約なのかは知らない。でも殺気がしないのは『私が今のところ、安全な人物だと判断しているからだと思わない?』」
しばし、呆気に取られていた顔の津ヶ谷理恵。
「殺し屋……なの?」
「殺し屋の殺し屋。あなたはVXガスを使う殺し屋だから殺してくれと依頼された。でも調べれば調べるほど、あなたは殺し屋じゃない。寧ろ『護り屋』と契約しないといけない身分」
津ヶ谷理恵は逃げるようにコーヒーを一口啜る。そして喋る。
「と、すれば……んー、あなたは殺し屋の殺し屋でしょ? クライアントを匂わせる発言は信用に瑕が付くんじゃない?」
その津ヶ谷理恵の質問に答えるのを制して突然立ち上がる妹理。離れた席では『護り屋』の男も立ち上がっていたが二人共窓の外をみている。
「!」
弾かれたように妹理はテーブルを挟んで向こうに居る津ヶ谷理恵の首根に抱きつく。飛び掛るとそのまま、床に倒れ込む。
割れる窓ガラス。くぐもった発砲音。擦れる金属音の後に続く、バネの弾く音。
――――これは!
――――『殺す気』のない襲撃!
停止力の高い弾頭を用いた短機関銃で強化ガラスを叩き割り、室内に制圧用のグレネードを放り込む手法。
かつての戦場で、市街戦を展開するに当たって、先陣を切る部隊が虱潰しに商店を破壊する際に用いたセオリー通りの戦法。
ただ違ったのは、放り込まれたのが手榴弾では無く、大音響と発光で行動を麻痺させるスタングレネードだったことだ。
咄嗟に耳を塞いで体を丸めて横たわる。
津ヶ谷理恵の頭部を自分の腹部に体を丸めて抱き込むので精一杯だった。
――――あー! もうっ!
――――やっぱり監視されてたか!
爆発音に酷似した大音響。
店内の悲鳴が掻き消されて数秒間だけ静寂が訪れる。
自分の鼓膜を心配するのも忘れ、津ヶ谷理恵の腕を引っ張って立たせる。朦朧として目の焦点が定まっていない彼女の手を取りスタッフ専用通路へ向かう。
店内の客の数人は倒れたまま動かない。店員ですら朦朧として座り込んでいる者が殆どだ。
背後で銃声。
『護り屋』の男が大型自動拳銃で店外から入り込んでくる襲撃者に対して応戦している。
『護り屋』は一瞬だけ妹理をみる。明確な意図は解らないが、『護り屋』は殿を務めるらしい。
妹理はアイコンタクトに返信せず、津ヶ谷理恵の手を引く。
右手はジャケットの左脇に突っ込んだままで走る。
スタッフ専用通路を抜ける手前で銃撃される。散発的な銃撃。足止めと牽制を兼ねた攻撃だ。裏路地を抜ければ大通りに出て人混みに紛れることができるのに……。
右手がすらりとH&K P9Sを抜く。
相変わらずシルバーチップホローポイントが詰まっている。セフティを解除。薬室には既に装填済み。コッキングレバーを押し下げる。滑らかに作動したそれは確実に撃芯を引き絞った。
――――路地は左右に伸びている。
――――どちらでも大通りに出られる。
――――長居はできない!
――――この子はやっぱり何か重大な『モノ』を持っている?
――――いや、『モノ』を使う?
しばし考える妹理。
考えあぐねるより信頼できる筋を頼ろうとタブレット端末を手に取る。
ブックマークはしているが決して使いたくないURLから幾つかアクセスしてとあるメールフォームに辿り着く。
「はぁ……」
苦しそうに眉を下げ、深い溜め息を吐いて画面上のキーボードを叩く。
※ ※ ※
クライアントは身柄の引渡しと同時に、収集した情報をまとめて渡すという新しい条件を付加してきたので、追加料金の発生と遂行日数の加算を提示し、思考を重ねる時間を設ける。
――――色々とキナ臭いわね。
――――もう、『切り駒』に使われているのかも?
切り駒とは任務遂行と同時に口封じのために暗殺される作戦要員を指す。……妹理は自身の危険を感じ取っている。
キナ臭い。闇社会の嗅覚が嫌な臭いを感知する。次第に妹理は焦燥に駆られる。
「動いてみようかしら、ね」
午後6時。
津ヶ谷理恵。ファインダーを通さずにみると中々の粒。磨けばもっと魅力的に輝く原石。ジャージを羽織りスエットパンツを穿いている姿でさえわざと野暮ったい姿を演出しているようにみえる。
いつもの津ヶ谷理恵の買い物コースで待ち伏せ。
コンビニやスーパーを梯子している道すがら、雑踏の切れ目でピタリと津ヶ谷理恵の背後につく。
例の『護り屋』も警戒する。人混みの波間の向こうにその姿を確認する。サングラスにハンチング帽のその男はどのように顔色が変貌したのか、この距離では詳しく解らない。
「初めまして。津ヶ谷さん」
「……」
津ヶ谷理恵も尾行されているのを悟っていたのか歩みを止めた。
「私がその気になればガスを撒くこともできるのよ?」
二十歳前後のうら若い年齢に反して落ち着いた物腰の喋り方。
二人は歩みを止めずに小声で話す。
二人共、背後の『護り屋』を意識している。
妹理は排撃を警戒して。
津ヶ谷理恵は速やかな救出を期待して。
「怖いわね。でね、この人混みの中でソマンやタブンみたいな毒でも撒かれたら厄介だからちょっと付き合わない? ……後ろの『護り屋』さんも一緒にさ」
「! ……知ってたんだ。良いわ。どこまで何を知っているのか知りたいし」
「あらあら。プロから何か訊きたいんだ。お手柔らかにね」
津ヶ谷理恵は『護り屋』の方に視線で合図すると大人しく妹理の後ろについて歩いた。
※ ※ ※
「あなたに何もかもを話す義理はありません」
開口一番、津ヶ谷理恵は鋭い口調で先制する。
テーブルやカウンターが4割ほど埋まったカフェの一角。やや離れた位置に他人の素振りで『護り屋』の男が座席に着く。
「津ヶ谷さん。あなたは『化学兵器は使えない。知識も薄い』」
「怒らせないで、VXガスでもサリンでも今直ぐ撒き散らすことができるって」
その静かな怒気を孕んだ言葉を制して妹理はいう。
「私はさっき、『ソマンやタブン』といいました。サリンと並んで酷い兵器ではありますが、私が『毒』だといったときに否定しなかった。『毒物』や『化学兵器』に一家言ある人はこの定義を混同されることを嫌います。ソマン、タブン、サリン、VXガスは性質が似ている化学兵器です。一般的なイメージの『猛毒』とは定義が違います。あなたはそれを否定しなかった」
眉間に皺が寄る津ヶ谷理恵だったが、観念したような小さな溜め息を吐く。物憂げな視線を手元のコーヒーカップに落とす。
「私に何を訊きたいの? 何をさせたいの? 『また利用する気?』」
「……津ヶ谷さん。あなたは恐らく理由があって『鍵』としてみなされている。VXガスを使うというのも、ガスを使う殺し屋として活躍中だというのも、大金を払って流布したブラフでしょ? 明るい世界じゃ生きていけないから嘘でも何かの箔をつけて『こっちの世界』に沈むしかなかった」
「……『私の全てを知って』どうする気ですか?」
津ヶ谷理恵が物分りの良い人物で助かった。様々な説明が省ける。
「正直にいうと、自己保身のため。私はあなたに関わったために殺される可能性が高いの。何も知らずに死ぬのは嫌。逃げられることだったり解決できることなら何でもしたい。命は惜しいものね」
「それはそれはご愁傷様。私には何も」
「真面目に聴いて欲しいのよ。……あの『護り屋』さんは本物でしょ? どういう契約なのかは知らない。でも殺気がしないのは『私が今のところ、安全な人物だと判断しているからだと思わない?』」
しばし、呆気に取られていた顔の津ヶ谷理恵。
「殺し屋……なの?」
「殺し屋の殺し屋。あなたはVXガスを使う殺し屋だから殺してくれと依頼された。でも調べれば調べるほど、あなたは殺し屋じゃない。寧ろ『護り屋』と契約しないといけない身分」
津ヶ谷理恵は逃げるようにコーヒーを一口啜る。そして喋る。
「と、すれば……んー、あなたは殺し屋の殺し屋でしょ? クライアントを匂わせる発言は信用に瑕が付くんじゃない?」
その津ヶ谷理恵の質問に答えるのを制して突然立ち上がる妹理。離れた席では『護り屋』の男も立ち上がっていたが二人共窓の外をみている。
「!」
弾かれたように妹理はテーブルを挟んで向こうに居る津ヶ谷理恵の首根に抱きつく。飛び掛るとそのまま、床に倒れ込む。
割れる窓ガラス。くぐもった発砲音。擦れる金属音の後に続く、バネの弾く音。
――――これは!
――――『殺す気』のない襲撃!
停止力の高い弾頭を用いた短機関銃で強化ガラスを叩き割り、室内に制圧用のグレネードを放り込む手法。
かつての戦場で、市街戦を展開するに当たって、先陣を切る部隊が虱潰しに商店を破壊する際に用いたセオリー通りの戦法。
ただ違ったのは、放り込まれたのが手榴弾では無く、大音響と発光で行動を麻痺させるスタングレネードだったことだ。
咄嗟に耳を塞いで体を丸めて横たわる。
津ヶ谷理恵の頭部を自分の腹部に体を丸めて抱き込むので精一杯だった。
――――あー! もうっ!
――――やっぱり監視されてたか!
爆発音に酷似した大音響。
店内の悲鳴が掻き消されて数秒間だけ静寂が訪れる。
自分の鼓膜を心配するのも忘れ、津ヶ谷理恵の腕を引っ張って立たせる。朦朧として目の焦点が定まっていない彼女の手を取りスタッフ専用通路へ向かう。
店内の客の数人は倒れたまま動かない。店員ですら朦朧として座り込んでいる者が殆どだ。
背後で銃声。
『護り屋』の男が大型自動拳銃で店外から入り込んでくる襲撃者に対して応戦している。
『護り屋』は一瞬だけ妹理をみる。明確な意図は解らないが、『護り屋』は殿を務めるらしい。
妹理はアイコンタクトに返信せず、津ヶ谷理恵の手を引く。
右手はジャケットの左脇に突っ込んだままで走る。
スタッフ専用通路を抜ける手前で銃撃される。散発的な銃撃。足止めと牽制を兼ねた攻撃だ。裏路地を抜ければ大通りに出て人混みに紛れることができるのに……。
右手がすらりとH&K P9Sを抜く。
相変わらずシルバーチップホローポイントが詰まっている。セフティを解除。薬室には既に装填済み。コッキングレバーを押し下げる。滑らかに作動したそれは確実に撃芯を引き絞った。
――――路地は左右に伸びている。
――――どちらでも大通りに出られる。
――――長居はできない!