夜と霧の使者

 急転直下を迎えたのは行動パターンを読み終えて、ターゲットの周辺の情報を纏めてタブレット端末に入力し終えた頃だった。
 身辺調査から10日が経過していた。
「……え?」
 スマートフォンに送られてきたメールを読んで目を疑う。
――――な……何?
 クライアントからのメールだ。
「捕獲? 身柄と情報の引渡し?」
 苦労して集めたターゲットの情報を身柄と共に引き渡せとの内容だった。
 呆気に取られているのも束の間、すぐに妹理の脳内で計算機が起動する。
――――私を雇ったのは安上がりだから?
――――1人分の経費で情報屋のネットワークを集めるため?
――――身柄と情報の引渡し……。
――――殺し屋の殺し屋を雇ったのは口実か!?
――――クライアントはターゲットを元から『ターゲット』だと思っていなかった!
――――欲しいのはターゲットの技術と製品か!
 巧く殺し屋の殺し屋を焦らせて……毒、否、『化学兵器を使う殺し屋』と先に妹理に吹き込んでおけば警戒して慎重策を取りながら、綿密に下拵えをして殺害の段階に入る。
 この業界では殺し屋やそれに類する人種ほど、ターゲットを調べる連中はいない。
 警察の捜査網以上の能力を持ち合わせる能力を持つ者も少なくない。
 自ずとこの業界の仁義を守らない手口から、第三国の勢力だと察しがついた。
 足元をみた経費の絞り方をするより、依頼のキャンセル料を払う方が安上がりだと判断したのだろう。
 先に提示された高額な報酬も釣るための餌だ。
――――身柄の引渡し……。
 これも自分たちに危険が及ばないための策だ。
 替えがいくらでも利くアングラ社会の人間がいくら死のうが構わないという表れと同時に、迅速をモットーにする信用商売の人間を雇ったのだろう。
 それにしても不可解な点が一つ。
 『何故、こんな【小娘】を取り押さえるのに妹理のような畑違いの人間を雇ったのか?』
 妹理はタブレット端末の画像を拡大して二十歳になったかならないかの、童顔の女を見た。
 烏の濡れ羽色の髪に赤いメッシュが一房だけ前髪に混じったセミロングが印象的。
 顔の造りも中々な『美少女』で、大きな瞳に小さくまとまった唇。手元に置いて頭を撫でてやりたいという愛玩犬か家猫のイメージ。
 この女の名前は津ヶ谷理恵(つがや りえ)。生年月日不詳なので調書の上の22歳という年齢も疑わしい。
 そもそもこの津ヶ谷理恵という人物。就学の記録が一切無い。化学兵器どころか中学生レベルの化学の実験も未経験ではないだろうか?
 勿論、外見を裏切る人間はいくらでもいる。
 両親の有無から出生のプロフィールは不明。
 妹理のハイツから1時間ほど離れた場所に広がる、古い住宅街の一角の借家に住んでいる。
 たった10日間の調査では大きな商談を交わす現場に立ち会えなかったが、食料品の買い出し以外では外出はなし。
 いつも決まった店にいつも決まったコースで自転車で買いに行く。
 殺し屋らしい行動は確認されず。仕草や物腰も素人同然。とてもじゃないが殺し屋……闇社会の人間とは思えない。殺し屋の殺し屋として津ヶ谷理恵を見た場合、暗がりからナイフで一刺しするだけでこと足りるスペック。
 調査の最中に不審な点が多くてクライアントのメールを読み間違えたかと思った。
 依頼のメールには津ヶ谷理恵の画像数枚と表向きの住所と殺しの手口が記載されていた。間違いではないはずだ。
――――コロシに入る前にタイミング良く、このメール……。
――――私も監視されていた?
――――身柄と情報の引渡し……ねぇ……。
――――全く読めないわねぇ。
 妹理はタブレット端末を持ち上げて自室の中を動物園の熊のようにノソノソと歩き回る。時折、頭を掻く。
 商売としての依頼者と被依頼者の関係としては、おとなしくクライアントのいうことを聞いてキャンセル料をもらって、必要経費を払ってもらって御仕舞いなのだが……。
 何かが妹理の心に小さく刺さる。
 気になるのだ。
 この若いだけの、出生が不明なだけの女に何の謎がある? 背後に潜んでいる謎が『謎』だ。
――――私はこの女を深く調べるための道具でしかなかった、としかオチが見当たらない……けど……。
「うーん。なんだろうなぁ……」
 信頼する情報屋が揃って津ヶ谷理恵という人物はVXガスを使うと口を揃えている。
――――化学兵器を使う出生不明の若い女……ねぇ。
――――って事は、何かの『鍵』かな?
 タブレット端末をソファに投げ出し、テーブルの上に散乱した自分で撮影した紙焼き写真を眺める。
 タブレット端末に収まっているクライアントから添付された津ヶ谷理恵の画像。何枚かテーブルから落ちているデジカメで撮影した写真。
 スマートフォンのメールを見て、画像や写真を比較する。
「……」
 いずれの画像や写真も街角での津ヶ谷理恵を捉えたものだ。遠影のものもあれば近影もある。様々な角度。様々な顔。
――――カワイイなぁ……。
――――じゃなくて!
 何を思い立ったのか写真を掻き集めて数枚毎に分別する。
――――これ!
――――これも!
――――これもだ!
 交互にタブレット端末の画像を見る。
――――『手が綺麗だ』
――――『誰だ? これは……』
 津ヶ谷理恵の手首から先を凝視する。
 毒物使いにしては有り得ない、否、薬物使いとしても殺し屋としても、くすみや薬焼けのない綺麗な指先で爪が荒れている様子もない。
 絆創膏1枚も貼っていない。
 薬物を使う人間は手首から先をみれば解る。
 特に致死たらしめる薬物を扱うのなら多少の差はあれ、肌や指先が荒れているものだ。手袋を通して侵食する微量の成分に皮膚が侵されるのだ。
 VXガスともなればさらに厄介だ。大掛かりな施設で大掛かりな設備で大袈裟な防護装備を装着して製造しなければ若くして『顔にも変化が出る』……なのに、津ヶ谷理恵は『度が過ぎるほどに綺麗だ』。
 そして津ヶ谷理恵の何枚かの画像と写真の隅に写っている人物。
 これが最も引っかかる。何気なくファインダーの隅に位置する男。
 歳の頃は40代前半か。写真の中の電柱やポストから対比して身長170cm前後の中肉中背。鷲鼻で彫りの深い眼窩なのに悪い人相という先入観を与えない。どこにでもいる中年だ。
 他人の振りをしているが、明らかに津ヶ谷理恵の近辺を警護している。
 画像や写真によって様々だが、後ろ腰や左脇が膨らんでいる。
 上着はいつもジャケット類を中心にしたラフな服装で動きやすそうなスラックス。革靴にみえる黒い靴もよくみればラバーソールで少々の運動に適している。
 この男……津ヶ谷理恵の生活の動線に存在する近所の他人かとノーマークだったが、横顔に覚えがある。
 『護り屋』だ。
 名前は知らない。闇社会でボディガード専門として顔だけが知れ渡っている男だ。
 この男の顔に覚えがあったのは、『護り屋』なのに万年開店休業だからだ。そもそも『護り屋』としての実績も聞かない。
 ゆえに、特徴ある存在だったために顔だけは知っている。注意すべき応戦対象として毎回リストには上がるが結局、調べるまでもなく、この男はどこの現場にも現れない。
 だから深く調べる必要のない、似非『護り屋』として認識していた。
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