EVICTORS

 眼前2mの位置にいるイオリに何ごとかが起きたと悟った小紅は素早くイオリより深く玄関奥に踏み込んで咄嗟に鉈鎌の先端――イオリの右手首から先に在る、何もない中空――を山菜掘りナイフで斬る。
「!」
 『斬れた』感触が刃の先から伝わる。人肉を断ち骨を切る否な感触。
 おぞましさのあまり、小紅は背中に氷を這わされた気分になる。
 血液が飛び散り、切断したかもしれない部位が転がっていても納得する斬撃を与えたのに、何も目視できない。山菜掘りナイフの刃には血痕も刃毀れも確認できない。
「きゃっ」
 イオリが鉈鎌を引く力を制御できずにバランスを崩してその場に尻餅を搗く。
「イタっ」
 尻餅を搗いて後ろの玄関外に転がり落ちそうになったイオリの背中が突風で煽られたように勢いよく閉じたドアと衝突して、今度は前のめりに倒れ込む。
「もうっ! 何なのよ!」
 ホームセンターで売っているような安っぽい鉈鎌――これでも霊験灼たかな術式が施されている――を拾って構え直すと、先行しだした小紅の背中合わせに歩きだすイオリ。
「閉じ込められたねぇ」
「え? 誘いに乗ったんじゃないの?」
 狐雨の昼間だというのに薄暗い屋内を前進する。
 電灯を点けているほど明るくはないが、場慣れした2人には全く問題無い光量。
「どうしたの? 美縁?」
 小紅の尻ポケットでバイブ機能を起動させる美縁。
「小紅さん! 気をつけてください! 『敵意を持たないタイプ』の人外です!」
「具体的には? 対策は?」
 普段の任務では指示された働きしかしない美縁が、小紅に訴えるときは決まって、『美縁と同類の人外』を感知したときだ。同類同士の疎通というものが存在するのだろうが、生憎と人間が大好きな学術で解明できる分野ではない。
「ふーん……美縁と同じか」
 『美縁と同類の人外』。即ち、呪いや祟りを『根源』とする実体を持たない人外だ。
 概念上の存在と区別がつかない場合が殆どだ。
 何しろ、人間と違って祟る呪うというのは手段ではなく、その行為がズバリ正体なのだ。
 言うなれば形をなさない思念が融合して物理的存在である人間社会に介入することを可能とした存在。
 その昔、呪縛系都市伝説型人外として最強屈指を誇った美縁が警笛を鳴らす人外がこの洋館の中で渦巻いている。
 イオリの顔の緊張が一層強くなる。
 小紅は「ふーん」と鼻で相槌を打ったきり、大して驚いていない。小紅の頭の中で、実に簡素な問題解決――『交渉』次第で無駄に終わる策――の方法が浮かんだ。
 今、こうして吸っている空気の中にも人外の能力がふんだんに含まれた塵が混じっているかもしれない。
 かといって憶測を重ねているといつの間にか負のベクトルに考えが落ち込むように『仕向けられて』しまい、敵の術中に嵌ってしまう。
 こんなときこそ肩の力を全力で抜いて余裕と楽観を心掛ける。
 普通の人間でもこれを心掛けることにより、ある種の人外の能力を防げる。緊張もリラックスも程々に行えば精神的な防御力を発揮する。
「美縁、私の言葉を『変換』して伝えて。できる?」
「多分、通じます」
「じゃ……」
 小紅が山菜掘りナイフを右腰に吊るしたシースに収納したのを見て、イオリも構えを解いた。
「こちらの主の方? 居ますよね? 聞いていますよね? 一応我々は日本国の安全を……」
 通訳に徹している筈の美縁が突然激しいバイブ機能で小紅に警告する。
「!」
 小紅の目前で火花が散る。
 高速で飛来する「何か」を空かさず翳したイオリの鉈鎌が打ち落としたのだ。
 床を回転しながら滑っていく五寸釘。
「ああ。そう……交渉の余地なし。解りやすいわね」
 小紅が眼鏡を右手の指先で正して心底残念な溜息を吐いた。
 人外同士のよしみで穏便に済ませようと試みた話し合いの余地が脆く崩れた。
「美縁。ここの主の名前は解る?」
「いえ。名前は解りませんが、範囲型で『絵の具』タイプだと思われます」
 人外をカテゴライズする上でいくつかの分類があるが、その中で範囲型とは、閉鎖された屋内や自身が縄張りだと主張する範囲内でのみ最大限の能力を発揮するタイプの人外で、『絵の具』とは特殊警務二課の隠語で「分裂可能な大きな塊」を意味する。
 分裂は無限に可能だが、分裂を繰り返せば人外としての能力や性質が低下する。
 しかも先ほど美縁が言った通り、『敵意を持たないタイプ』ときた。
 早い話が河童の相撲と同じだ。河童が男の通行人と相撲を取りたがるのは意味や競争心や敵意や主義や性分とは、意味も関係も無く、「ただ、相撲を取らなければ」という強迫観念に似た性質が働いている。
 今回はそれと同じで、そこに犠牲者に足る対象が居るから攻撃を仕掛けるというだけだ。
 ともすれば、元から話し合いの余地などないのだが、後の報告書の作成上、役所仕事的手順を踏まないと面倒臭い展開になる。
 小紅の算段は実に簡単だ。
「イオリ。壁でも床でも良いから大きく瑕をつけて」
 イオリは疑問を抱かずに鉈鎌を奮い、窓ガラスを割り、床板を叩き、漆喰の壁を掻き毟った。
「……」
 小紅の口元はへの字に曲がった。
 『敵意を持たない存在』が『敵意を持ったときどうなるか』。
 不意に小紅は叫んだ。
「イオリ! 全周警戒! くるよ!」
 【ヘルガ】を抜き放ち、コッキングピースを引く。出番を焦がれていた【ヘルガ】が歌うように金属音を奏でた。
 94年式拳銃は引き金が重いことで有名だが、どういうわけか【ヘルガ】の引き金は軽い。嘗ての持ち主が引き金と連動する撃鉄周りを弄ったのか、引き金が軽いというのも【ヘルガ】の能力なのか。
 【ヘルガ】とて人外に分類される存在だ。人間の定義で理由を求めるのは難しいだろう。
 装填されている実包は米国ミッドウェイ社が、かつてリバイバル生産していた8mm南部の『逆輸入コピー』。【ヘルガ】の実力を引き出すためにミッドウェイ社のリバイバル8mm南部弾を輸入して分解し、特徴的なケースを英国のH&H社で拵えさせ、雷管と炸薬はデュポンと日本化薬に作らせた代用品でフルメタルジャケットの弾頭はミネベアのとある部門で作らせている。
 リバイバルの8mm南部は現在では廃盤ゆえに再製造しなければ入手が困難なのだ。
 それらを法律に抵触しないように海外へ送り出し、レミントン社の手詰め装弾を引き受ける一部門で作らせている。そして『米国から日本へ、公的機関への正規の輸入ルート』を通じて送り込ませている……という仕組みなのだが、発砲専門の小紅はそんな背景は全くしらない。それどころか、ニューナンブやSIG P230 JPすら発砲したことがない。
 本弾倉を含めて9本の弾倉。合計54発。弾薬サックは持ち歩いているが、悠長に実包を補弾している暇など与えてはくれないと考えるのが常套。
 アーリア人の暗黒歴史に名を残す人物が愛用した凶銃は鈍色を耀かせながら必殺の……否、屈辱と蹂躙を与える弾丸を発砲する命令を待ち望んでいる。
 【ヘルガ】のバランス良いグリップから、握りやすいデザインのグリップから、「今すぐに撃て」という脈動すら感じる。
 途端。濁る、澱む、気流。
 喉の奥から這い出る不快感。
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