EVICTORS

 世界はおかしいと違和感を覚えた場所で自分は立っている。
 目前でにへらと笑う眠そうな美女は現実だ。
 彼女は足元のサバイバルナイフを拾うと刃にフッと吹き掛けて塵を払う。
――――え?
 サバイバルナイフ。
 確かに一見のデザインはそれに近い。映画でみるそれを髣髴とさせた。だが、少女の知識は別のものを照合した。
――――山菜掘りナイフ?
――――おばあちゃんがガーデニングで使ってるのと同じだ……。
 正にその通り。ホームセンターで1980円ほどで売られている中国製の山菜掘りナイフだ。
 スコップのようにブレードの断面が湾曲し、サイドのエッジは片方がナイフで片方が鋸。先端は剣呑に尖っている。……何か残念。何か締まらない恰好の悪さ。
 全長30cmばかりの山菜掘りナイフを前ボタン全開のシャツの右脇に滑り込ませると手品のように消えた。
 チェック柄のシャツとその下のTシャツの間に何があるのか疑問を抱いたが、もっと大きな疑問であっと言う間に掻き消された。
「た、助けてくれて有難う御座います! あ、あの! 誰ですか?」
 少女は自分でも不躾で場にそぐわない発言をしていると実感していたが、目前の女はしれっとこう言った。
「あ、警察です。ちょっと変わった部署の」
 台詞と同時に右手で展開した、立て開きの警察手帳。本人の顔写真も貼ってある。本物なのだろうと納得しなければならないところだが、腑に落ちない疑問が矢継ぎ早にでてしまった。
「何ですか? アレ? アレは何ですか? 何がどうなってたんですか? 私がどうして……。どうして!」
 言っている端から意味を掴み難い言語を形成していることに気付かず、直感で疑問をぶつける。
「どうしてですか! た、『高野さん』!」
 高野。
 自称警察官を名乗り一応の身分証明を見せた高野小紅(たかの こべに)は苦笑いで少女を「まあまあ」と宥めた。
「歩きながら話そっか?」
 高野小紅なる人物。警察手帳を所持し、それなりに拳銃も所持し、人命を救った女。
 小紅は少女に背中を流麗なスピンを見せてくるりと廻り、歩き出す。
 しばし、小紅の背中を見ていた少女。
――――?
 何か違和感。
 懐かしい、木が擦れる心地良い音。
 自然と少女の視点が下がり、小紅の足元に吸い寄せられる。
「……あ」
 眉をひそめる少女。
 小紅は今では入手が困難な木製の便所サンダルを普通に履きこなしていた。下駄とは違う温かい擦過音。
 少女の高野小紅に対する印象が段々と残念なものに修正されていく。
 美人だけどファッションを意識していない衣服。絶滅危惧種の木製便所サンダル。美貌を活かしていない締まりの無い表情。恰好良くキメたはずの武器が山菜掘りナイフ。……何かと残念。優れた素材が惜しげもなく捨てられている。いたずらに性的魅力が高い雰囲気。
「?」
 少女は足元の小さな金属片を蹴り飛ばした。
 映画で見るマシンガンの薬莢を親指の第一関節位の大きさに縮めた空薬莢。
 何となく、映画やドラマでみる拳銃の空薬莢と違う。だが、ここで高野小紅が発砲して自分を窮地から救ったのを裏付ける証拠だった。
「あ、あの刑事さん!」
「危なかったねー」
 少女の台詞を遮る様に自分の言葉を被せる小紅。
「ねえ。貴女、呑まれてたのよ」
「?」
 眉を歪めて小紅の背中を見る。
「まだ名前もない、生まれたばかりの妖怪よ」
「……は?」
「妖怪」
 小紅の言葉に浮かべるべき表情を失う。「何を言っているの?」と「そう、そうだったんだ」と否定と肯定が入り混じる。先程の灰色の世界より灰色な頭の中。
「あの類は人間の負の感情を食べたがる。負の感情なら何でも。怖がるとか、逃げたいとか、負けてしまうとか……そんなの。食べられたら死ぬかも? それとも死にたいのに死ねないくらいに辛いことに遭うかも? ああいう形をなさない悪害的思念体は色んな形に変わって都市伝説の元になるの」
「あ……」
 小紅が振り向いて後ろ歩きで少女の顔を見ながら話を続ける。
「ん? 思い当たる節があるのね? ……ま、気を付けなさいな。明るくて強い心を持たないと灰色一色の世界に呑み込まれるよ」
 小紅は歩みを止め、驚いてピタッと止まった少女の頬に右の掌をそっと添えた。
「そうだね。明るくて強い心が一朝一夕で手に入るならこんな怖い目に遭わなかったよね……。いつでも貴女の傍で色んなものから守ってあげたいけどそうはいかない。だから、ね? 強くなって! ね?」
 小紅の掌が頬を滑り、指先が少女の顎先をなでる。
 全く何も解決していないし何も答えてもらっていない少女ではあったが、小紅がみせた儚げな微笑が深く心に刺さる。
 夕陽を背に小紅は白い歯をみせる。
「一応、民事不介入なんでさぁ、これ以上の力を貸せないのよ」
「……『あなたは何なんですか?』」
 しばし黙っていた小紅だが、覇気のない公僕らしくない、篭り気味な発音で喋り出した。
「私は警察官。法を遵守する存在だけど、法の枠外の『色んなモノ』を退治するのが仕事。『逮捕じゃなくて退治よ』。部署は……『市民に知られては困る色んなモノを処理する専門の部署』。調書は必要ないの。『私達には解ってるから』。市民が助けて欲しいときにはそこに存在しているのも『私達の仕事』」
 少女は困惑した。小紅の言葉を足りない情報から分析すると、『まるで自分たちの存在も否定的な何か』のような表現だ。
 「私たちは事件のためだけに存在しています」……小紅はこう言いたいのでは? と、少女は『法の番人』らしくない発言を遠回しに表現しているかも知れない小紅の顔を直視しながら歩みをゆっくり止める。
「……」
 少女も気付いていない。
 自分が家族も含めて他者の顔を直視するのが実に数年振りであるということに。
 何故だか、いつまでも小紅の指先の感触が残る顎先に触れる。
 他人に思いを持って優しく触れられたのも数年振りだ。それも、隙だらけとはいえ、顔を。
――――ああ。
――――『駄目だ』
 少女は悟った。小紅からは『何も聞き出せない』。
「また……逢えますか? どうすれば会えますか?」
「んー。あなたがねー。『強い心を持ちました。会って下さい!』って強く念じたときかな?」
――――嘘だ。
――――嘘に決まってる。
――――きっと『嘘を言うしかないんだ』。
「でね……」
 小紅が何かいわんとして口を開いたときにその動作と被るように一陣の風が吹く。
 不自然な風。季節柄を考えても不自然なつむじ風。
 不意に巻き起こったつむじ風に視界を一瞬奪われた彼女が再び、砂埃で涙の浮く瞳を無理に開いたときには小紅はいなかった。
 敢えて、消えたと表現する。
 本当に消えたのだ。目前から。跡形も無く。便所サンダルが駆ける音もなく。
 灰燼が吹き飛ばされるよりも素早く消え去っていた。
 残ったのは少女の心に植え付けられた高野小紅という不思議な存在のみ。
 今の様々な現象や邂逅をどのように誰に説明すれば良いのか?
 そもそも自他に説明や認識の必要があるのか?
 自分は命を狙われていて、殺される瞬間に警察官を名乗る女性に助けてもらった。
 突飛だがそれくらいしか手短に説明する文章が頭に浮かばない。
 どこの部分からでも説明を求められそうな『子供の夢のような話』。
 佇んでいた少女だったが、やがて誰にも何も話さないことを決めると普通の歩幅で歩き出した。
 夕陽がそろそろ暮れる。
2/13ページ
スキ