EVICTORS

 灰色の世界。
 いつの間に世界は灰色になったのだろう? ……そんな余裕はない。
 そんなことを冷静に考えられる余裕はない。
 世界が灰色になった。……それを事実として受け入れるか否かを考える余裕はない。
 何しろ、デジタルカメラの画像を処理してモノクロに映し出したように世界は灰色だ。太陽も雲も道路も道も建造物もそれらの陰影も。
 自分の肌ですら、灰色。
 少しばかり俯いていつもの帰り道を歩いていたら視界の端から徐々に灰色に侵食され、辺りを見回せば――――自分独りだった。
 友人と呼べる人間がいない彼女は元から1人で下校していた。夕陽が美しいはずの一級河川の川縁が灰色。
 灰色。
 灰色。
 灰色。
 先ほどまで考え込んでいた自殺願望とその具体的な実行方法が雲散霧消。
 いかに命を捨てるかと問答していた自分はもう、居ない。
 パニックが、恐怖が、焦燥が、彼女の心を掴んだまま離さないでいた。
 家屋も商店も開いているのに人が居ない。
 車が時間を停止したように止まっている。誰も乗っていない。
 道端にはポイ捨ての煙草……煙が昇っているのに火気を感じない。
――――夕陽!
――――太陽!
 日差しも空も灰色。
 何が彼女に起きたのか。……そんな余裕はない。
 考える余裕がない。
 彼女はただの高校生だ。
 どこにでもいる、クラスで孤立して苛められているだけの、自殺を考えるほどに悩んでいるだけの、ただのどこにでもいる高校生でしかない。
 動転している彼女に何を言い聞かせても、まともに聞き入れてくれるかどうかか。
……彼女がこの度、めでたく辻を徘徊する人外の狂気に食餌として選ばれたことを。
 人の形をなさない不定形な狂気は彼女の深い自殺願望が甘露な果実に見えた。
 だから。
 毎日毎日毎日毎日毎日毎日監視して彼女の心が熟れて朽ち落ちる寸前まで待った。
 そして、今日このとき、喰らうに到った。
 名前もない、『生まれたばかりの狂気』は彼女の心の変動が堪らなく芳醇な香りに思えた。
 何しろ、今の今まで暗い心で死について考えあぐねていたのに、『生まれたばかりの狂気』が自分の住んでいる世界に彼女を招待した途端、逃げる、帰りたい、死にたくないと掌を返したように思考を切り替えて顔を恐怖に引き攣らせて路地や角を走り廻っている。
 見慣れた、見知った、土地鑑が有るはずの街で迷子になる、焦りの表情。
 今まさに『生まれたばかりの狂気』が彼女の背後に忍び寄り、爪とも牙とも思えぬ鋭い何かをうなじに突き立てるべく……刃を立てる。
 刃を立てる。
 そう。『刃』である。
「あ、ごめーん。痛かった?」
 間の抜けた、気概の欠片も感じられない腑抜けな声。
 意味不明な空間に恐れ慄く彼女自身の声ではない。
 もう1人の声。
 はっ、と彼女は振り向いた。
 その間の抜けた声にさえ心臓を鷲掴みにされた気分で青い顔に珠の汗が吹き出る。
 ……が。
 しかし、だ。
 裾の長いシェファードチェックの長袖シャツにジーンズの女性がそこに立っていた。
 表情はどこか眠そう。歳は20代後半か30代前半。 
アップに纏めた髪に黒縁眼鏡が似合う精悍な美女。
 残念なことに精悍極まりない顔の輪郭や端正なパーツで整った目鼻であるが、何しろ眠そうな双眸が美女の雰囲気を半減させている。
 顔を青褪めさせていた彼女の顔は眼鏡の美女の胸に吸い込まれるように落ちると途端に紅潮して視線を背ける。
 顔が青くなったり赤くなったりと豊かな変貌を見せてくれるので眼鏡の美女は、クーパー靭帯の保持にさぞかし苦労しているであろう自らの豊かなバストを見て、同性ながら目の遣り場に困った女子高生を愛しい目で見て微笑んだ。
 ……『刃』を突き立てた『それ』を横目に。
「あ!」
 彼女は慌てて周りを見回した。目前の美女以外に驚く事象が顕れた。
「……ふーん」
 眼鏡の巨乳美女は切れ長の瞳を少しばかり左右に振って『それら』を確認した。
「仲間か……」
「え?」
「仲間よ」
「え? え?」
 眼鏡の女性は何を口走っているのか? 彼女の心に次々と理解の範疇を超える問題が放り込まれてショート寸前だ。
「我輩たちは『生まれたばかりの狂気』である……名は未だない。か」
 白の人魂。幽鬼のように空間に白い塊が浮かんでいるだけの『何か』。
 灰色の世界でまるで、そこだけ水滴が落ちて色が滲んでしまったかのような白い空間。……否。眼鏡の美女の口振りからすると、この白い定形を保つのに苦労しているらしい球状の物体――2人の周りに複数、浮遊――が敵意を持って睨んでいるらしい。
 眼鏡の美女は右手を前ボタンを全開にしたシャツの後ろ腰に手を滑り込ませ、携帯電話でも取り出すかのようなモーションで、法治国家の住民に許されるべくもないアイテムの代名詞・拳銃を取り出した。
 拳銃。そう、拳銃である。
 本物は見たことがない彼女ではあったが、その外見から窺える質感は灰色の世界でも……否、灰色の世界だからこそ異常に引き立って無骨に見えた。
 16年の人生の中で、銃の玩具でさえまともに見たことがなかったが、その拳銃は異常で異様だった。
 例えるなら肉食の昆虫。黒い鉄の肌。灰色の世界だからこそ映える禍々しい鈍色。
 彼女の目前で彼女より身長が10cmほど高い眼鏡の美女は右手にそれを構えて銃口を下にしたまま後部の何か――コッキングピース――を勢い良く引く。
 金属の冷たい擦過音。
 話しに聞く自動拳銃というものならこれで薬室とやらに実弾が送り込まれて発砲できる状態になったわけだが……。
――――え?
 二人を取り巻く白い幽鬼の球状の『何か』に向けて発砲。
 耳を劈く轟音。……ではなく、意外に拍子抜けな発砲音。
 初めて聞く爆発音にびっくりしたが、何より全てが止まった灰色の世界にあって銃口から発生した火球――マズルフラッシュ――は明らかに鮮やかな、夕陽より鮮やかなオレンジ色だった。
 化学の実験で燃やしたマグネシウム粉末よりも鼻腔を刺激する硝煙。真上に弾き出される空薬莢。
 本物の拳銃だ。
 正体不明の『何か』は銃弾より早く移動できないのか、命中し、抵抗もなく飛び散る。
 水で膨らんだ風船が爆ぜるように白い靄状の欠片を撒き散らして弾ける。次々と、弾ける。
 弾倉交換。
 マガジンキャッチを押し、弾倉を自重で落下させると後退して停止したままのコッキングピースが前進する。
 予備弾倉を叩き込んで再びコッキングピースを引いて弾薬を薬室に送り、発砲。
 豊満なバストというセックスシンボルをTシャツで覆った彼女は表情に変化らしいものをみせずに射的感覚で『浮遊する、白い何か』を銃弾で蹴散らしていく。
 発砲の度に耳を塞ぎ目を閉じる少女はたった数個の空薬莢が、灰色の世界を幻想的にブチ壊していく様子を見届けられるはずもなかった。
「ハイ。大丈夫?」
「……」
 少女は不意に肩を叩かれた。
「終わったよ」
 裾で隠れる後ろ腰から手を抜きながら眼鏡の女は言う。拳銃を仕舞ったのだろう。
 瓦解する灰色の世界。
 亀裂が走った空間の向こうに日常が見える。
 そして、日常の風景が、夕陽が差すいつもの街路が視界に広がる。訪れた総天然色の世界。あるいは帰ってきた総天然色の世界。
 一級河川の川縁で立ち尽くす。あれだけ走り回ったというのにどこへも移動していない。
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