御旗を基に
「命だけは喪うな!」……これを標語として胸に刻み、鉄英は中央突破に成功した。
成功の要因の半分は残念ながら実力ではない。……日が完全に暮れて連中が鉄英の姿を見失ったのだ。
※ ※ ※
「1人……か。ま、取るに足りんな」
弦屋正秋は翌日も定食屋【たつみ屋】でたむろしていた。
「取るには足りんが……」
「何か?」
樋川晃が少し怪訝な面持ちで首を傾げる。
「『様子を見られている』のかもな」
「え?」
「反攻に必要な数が揃っていないのに、いかにも遭遇戦を装ったドンパチ。敵はこちらと同じ5、6人。……この5、6人という数が気に掛るんだ。大集団の末端の集団と同じ数でぶつかるときは大概、後ろに大きな組織があるか、少数で波状攻撃を仕掛けるときに用いる手段だ」
「それは……」
思い当たる節があるのか樋川晃は何かに気付く。
「そう。俺達が旗を揚げたときに使った作戦だ。俺達が少数だった頃、敵のチームが疲れ切るまでしつこく『色んな方向』からちょっかいを出した」
樋川晃はそれを聞くと少し顎を引いて表情を締めた。
「では、確実に敵対勢力が増幅していると?」
「言い切れんな。だが、このシマで暴れようとしているのは……前に……なんだっけ?」
「【紺兵党】」
「そう、【紺兵党】。その残党くらいしか心当りがないな」
「矢張り、残党狩りを始めますか?」
弦屋正秋は考える素振りの代わりに、テーブルの上の温くなった瓶ビールをコップに注ぐと一気に飲む。
「敵の頭を押さえろ。……あのときの下っ端が今では頭かも知れないし、相変わらず頭は健在かも知れん。判断が難しいがこの案件も『多数決』で決める。各地区の代表に連絡を廻せ」
「了解です。『将軍』」
※ ※ ※
鉄英は脆い造りの狭いアパートで右脛の包帯を巻き直していた。
スポーツブラにホットパンツ姿で顔をしかめながら、酷い擦過傷に消毒液を施した後だ。
昨日の武力偵察を兼ねた銃撃戦で負傷した。骨に異常はないが表皮を少々深く持っていかれた。
鈍足の45口径が深く掠った痕なのでいまだに焼けるような痛みが走る。
闇医者にもらった解熱鎮痛剤と抗生物質をミネラルウォーターで嚥下する。傷口から侵入した雑菌が廻り始めて、早ければ半日もしない内に発熱がピークを迎える。雑菌の排出を促すために大量の水を飲んで頻繁に小用を足す。
利尿剤と抗生物質を併用すると腎臓機能に障害が出るので、水分の過剰摂取でカバーする。
昼の1時を経過。
冷蔵庫から取り出した人参と胡瓜をスライスして適当な幅にスライスしたスパムを4枚切りのパンに挟んだ軽食を食べ終えたくらいに軽い火照りを覚える。
発熱気味だった雑菌による炎症がエスカレートしたのだ。
少しでも体力のあるうちに栄養価とカロリーの高いものを摂取しておきたかったのだ。
布団に潜り込んだ時に、コンビーフと白飯と葱をブチ込んだだけの脂分がコッテリした腹持ちのよいものを食べるべきだったと後悔していると、急激に高くなった熱に頭を茹でられてうなされながら眠りに落ちる。
「……んぅ」
寝言なのか寝息なのか解らない、言語にならない呻きが可憐な唇から漏れる。
様々な夢が交錯する。
夢。
現実感が高い夢と夢想空想が混じった夢は激しく攪拌されて悪夢を形成する。
決まって悪夢の舞台は【首狩瀑布】絡みだ。
20人も居た仲間は抗争の中で次々と脱落。
皮肉にも命を落とした仲間は夢の中では皆、喋らずに笑顔でこちらをみている。生き残っているはずの仲間は悲哀に暮れた表情で謝罪を繰り返して鉄英のもとを去っていく。
非業の死を遂げたイイ奴は皆、綺麗な笑顔だ。
生き残ったイイ奴は皆、自分自身を呪っている。
ドイツもコイツも悪くない。皆を救えなかった、皆の居場所を守れなかった自分が悪い。
馬鹿正直な仲間たちだった。
馬鹿正直に【紺兵党】の最期まで付き合ってくれたかけがえのない存在。
【首狩瀑布】のリーダーに銃弾を叩き込んでやる爽快な夢を見る回数よりも、無限の悪夢に飲み込まれる回数の方が多かった。
夢は常に理不尽。
良い夢は短く感じるし、悪い夢は長く感じる。
長い。
永い、夢。
鉄英自身が満身創痍で、息絶えた仲間を左手に抱えて右手のベレッタM84を何度も【首狩瀑布】リーダーの背中に向けて引き金を引くが弾薬を撃ち尽くしたように空引きするだけで愛銃は発砲する気配が無い。
そうしている間にもゴリラを連想させる面構えの大男はこちらを一瞥しただけでどんどん離れていく。
終いにはベレッタM84が砂で拵えた造形物のように、スライドからバレルからスプリングから……何故かどんどんと分解して行き、拳銃の形を保てずに地面にパーツがボトボトと落ちる。
「!」
そして決まって、鉄英の表情は冷たい絶望に変化する。
「!」
目が覚める。
悪夢の終焉は唐突。
夢の中での苦痛が最高潮に達したときに、突き落とされた感覚と同時に突如として現世に引き戻される。
「……」
荒い息。
虚脱感。
濡れ鼠になるほどの脂汗。
思い出したように溢れ返る、寂寥に流れる一筋の涙。
「……」
状況を理解する。
悪夢でうなされていた。
原因は炎症による発熱。
布団のシーツに形が付くほどの大量の汗。
激しい尿意。
激しい喉の渇き。
激しい空腹。
一挙動の度に鈍く響く右脛の擦過傷。
「……」
少しは下がった熱だが、倦怠感が全身を引き摺る。
重く、反応の遅い体に鞭をくれて立ち上がり、トイレに向かう。今は、生理的欲求を一つずつ解決することにした。
トイレから出ると緩慢な動作で全裸になる。覚束ない足取りで進みながらバスルームに向かう。
右脛にビニール袋をあてがい、防水サージカルテープを巻きつけてバスルームに転がり込んでからゆっくりとシャワーを浴びる。
焦点が定まらない瞳にようやく生気が点る。
血流が良くなる事で痛みが疼きだし、頭が醒める。
バスルームから出ると体を拭いてパンツを穿いただけの恰好で冷蔵庫を漁り、すぐに胃袋に収められそうな食べ物を探す。
生憎、腹の膨れるものは見つからず、仕方無しにツナ缶にマヨネーズを垂らしたものを胡坐を書いてスプーンで頬張る。食卓の虎の子である食パンにマヨネーズが混じったツナ缶の脂を擦り付け、ミネラルウォーターで胃袋に押し込む。
食餌というよりエサの食べ方だ。
テーブルで食べればよいものを、体が重くて面倒臭いので、冷蔵庫の前で胡坐だ。
腹拵えが終わってからやっと時間を確認する余裕がでてくる。時計を見る。午後7時半を経過しようとしている。
ゆっくりと丹念に脛の傷を消毒し、闇医者から買った解熱剤と抗生物質を飲む。
銃創を負った人間が堅気の医者に転がり込むと、医療機関は通報の義務が有るので、犯罪行為の中で負傷した場合は気軽に病院に駆け込めないし、救急車を呼ぶのも危険だ。
命と引き換えに助かったとしても最終的に収監されて、貴重な人生の期間を奪われる。笑い話でも洒落でもなく、『脛に傷の有る人間』は免許を取り消された医者や薬剤師に頼んで治療してもらい、薬剤を調達するしかない。
顔をしかめて傷口の包帯を止める。
成功の要因の半分は残念ながら実力ではない。……日が完全に暮れて連中が鉄英の姿を見失ったのだ。
※ ※ ※
「1人……か。ま、取るに足りんな」
弦屋正秋は翌日も定食屋【たつみ屋】でたむろしていた。
「取るには足りんが……」
「何か?」
樋川晃が少し怪訝な面持ちで首を傾げる。
「『様子を見られている』のかもな」
「え?」
「反攻に必要な数が揃っていないのに、いかにも遭遇戦を装ったドンパチ。敵はこちらと同じ5、6人。……この5、6人という数が気に掛るんだ。大集団の末端の集団と同じ数でぶつかるときは大概、後ろに大きな組織があるか、少数で波状攻撃を仕掛けるときに用いる手段だ」
「それは……」
思い当たる節があるのか樋川晃は何かに気付く。
「そう。俺達が旗を揚げたときに使った作戦だ。俺達が少数だった頃、敵のチームが疲れ切るまでしつこく『色んな方向』からちょっかいを出した」
樋川晃はそれを聞くと少し顎を引いて表情を締めた。
「では、確実に敵対勢力が増幅していると?」
「言い切れんな。だが、このシマで暴れようとしているのは……前に……なんだっけ?」
「【紺兵党】」
「そう、【紺兵党】。その残党くらいしか心当りがないな」
「矢張り、残党狩りを始めますか?」
弦屋正秋は考える素振りの代わりに、テーブルの上の温くなった瓶ビールをコップに注ぐと一気に飲む。
「敵の頭を押さえろ。……あのときの下っ端が今では頭かも知れないし、相変わらず頭は健在かも知れん。判断が難しいがこの案件も『多数決』で決める。各地区の代表に連絡を廻せ」
「了解です。『将軍』」
※ ※ ※
鉄英は脆い造りの狭いアパートで右脛の包帯を巻き直していた。
スポーツブラにホットパンツ姿で顔をしかめながら、酷い擦過傷に消毒液を施した後だ。
昨日の武力偵察を兼ねた銃撃戦で負傷した。骨に異常はないが表皮を少々深く持っていかれた。
鈍足の45口径が深く掠った痕なのでいまだに焼けるような痛みが走る。
闇医者にもらった解熱鎮痛剤と抗生物質をミネラルウォーターで嚥下する。傷口から侵入した雑菌が廻り始めて、早ければ半日もしない内に発熱がピークを迎える。雑菌の排出を促すために大量の水を飲んで頻繁に小用を足す。
利尿剤と抗生物質を併用すると腎臓機能に障害が出るので、水分の過剰摂取でカバーする。
昼の1時を経過。
冷蔵庫から取り出した人参と胡瓜をスライスして適当な幅にスライスしたスパムを4枚切りのパンに挟んだ軽食を食べ終えたくらいに軽い火照りを覚える。
発熱気味だった雑菌による炎症がエスカレートしたのだ。
少しでも体力のあるうちに栄養価とカロリーの高いものを摂取しておきたかったのだ。
布団に潜り込んだ時に、コンビーフと白飯と葱をブチ込んだだけの脂分がコッテリした腹持ちのよいものを食べるべきだったと後悔していると、急激に高くなった熱に頭を茹でられてうなされながら眠りに落ちる。
「……んぅ」
寝言なのか寝息なのか解らない、言語にならない呻きが可憐な唇から漏れる。
様々な夢が交錯する。
夢。
現実感が高い夢と夢想空想が混じった夢は激しく攪拌されて悪夢を形成する。
決まって悪夢の舞台は【首狩瀑布】絡みだ。
20人も居た仲間は抗争の中で次々と脱落。
皮肉にも命を落とした仲間は夢の中では皆、喋らずに笑顔でこちらをみている。生き残っているはずの仲間は悲哀に暮れた表情で謝罪を繰り返して鉄英のもとを去っていく。
非業の死を遂げたイイ奴は皆、綺麗な笑顔だ。
生き残ったイイ奴は皆、自分自身を呪っている。
ドイツもコイツも悪くない。皆を救えなかった、皆の居場所を守れなかった自分が悪い。
馬鹿正直な仲間たちだった。
馬鹿正直に【紺兵党】の最期まで付き合ってくれたかけがえのない存在。
【首狩瀑布】のリーダーに銃弾を叩き込んでやる爽快な夢を見る回数よりも、無限の悪夢に飲み込まれる回数の方が多かった。
夢は常に理不尽。
良い夢は短く感じるし、悪い夢は長く感じる。
長い。
永い、夢。
鉄英自身が満身創痍で、息絶えた仲間を左手に抱えて右手のベレッタM84を何度も【首狩瀑布】リーダーの背中に向けて引き金を引くが弾薬を撃ち尽くしたように空引きするだけで愛銃は発砲する気配が無い。
そうしている間にもゴリラを連想させる面構えの大男はこちらを一瞥しただけでどんどん離れていく。
終いにはベレッタM84が砂で拵えた造形物のように、スライドからバレルからスプリングから……何故かどんどんと分解して行き、拳銃の形を保てずに地面にパーツがボトボトと落ちる。
「!」
そして決まって、鉄英の表情は冷たい絶望に変化する。
「!」
目が覚める。
悪夢の終焉は唐突。
夢の中での苦痛が最高潮に達したときに、突き落とされた感覚と同時に突如として現世に引き戻される。
「……」
荒い息。
虚脱感。
濡れ鼠になるほどの脂汗。
思い出したように溢れ返る、寂寥に流れる一筋の涙。
「……」
状況を理解する。
悪夢でうなされていた。
原因は炎症による発熱。
布団のシーツに形が付くほどの大量の汗。
激しい尿意。
激しい喉の渇き。
激しい空腹。
一挙動の度に鈍く響く右脛の擦過傷。
「……」
少しは下がった熱だが、倦怠感が全身を引き摺る。
重く、反応の遅い体に鞭をくれて立ち上がり、トイレに向かう。今は、生理的欲求を一つずつ解決することにした。
トイレから出ると緩慢な動作で全裸になる。覚束ない足取りで進みながらバスルームに向かう。
右脛にビニール袋をあてがい、防水サージカルテープを巻きつけてバスルームに転がり込んでからゆっくりとシャワーを浴びる。
焦点が定まらない瞳にようやく生気が点る。
血流が良くなる事で痛みが疼きだし、頭が醒める。
バスルームから出ると体を拭いてパンツを穿いただけの恰好で冷蔵庫を漁り、すぐに胃袋に収められそうな食べ物を探す。
生憎、腹の膨れるものは見つからず、仕方無しにツナ缶にマヨネーズを垂らしたものを胡坐を書いてスプーンで頬張る。食卓の虎の子である食パンにマヨネーズが混じったツナ缶の脂を擦り付け、ミネラルウォーターで胃袋に押し込む。
食餌というよりエサの食べ方だ。
テーブルで食べればよいものを、体が重くて面倒臭いので、冷蔵庫の前で胡坐だ。
腹拵えが終わってからやっと時間を確認する余裕がでてくる。時計を見る。午後7時半を経過しようとしている。
ゆっくりと丹念に脛の傷を消毒し、闇医者から買った解熱剤と抗生物質を飲む。
銃創を負った人間が堅気の医者に転がり込むと、医療機関は通報の義務が有るので、犯罪行為の中で負傷した場合は気軽に病院に駆け込めないし、救急車を呼ぶのも危険だ。
命と引き換えに助かったとしても最終的に収監されて、貴重な人生の期間を奪われる。笑い話でも洒落でもなく、『脛に傷の有る人間』は免許を取り消された医者や薬剤師に頼んで治療してもらい、薬剤を調達するしかない。
顔をしかめて傷口の包帯を止める。
