一刃結鎖
深い腹式呼吸から湯気でも見えそうな覇気だ。
「ご名答。ここで32勝を挙げているあんたを倒せば私は32勝『挙げたも同然』だ……まぁ、逃げずに付き合ってくれよ」
女剣客の言葉の最中に刀をベルトフック――着物が主流の封建時代ではないので結び紐は役に立たない。それの代用品のフックが製造販売されている――から外すとスラリと抜く。
無銘。
束打なれど業物。
束内とは安価な刀を指すが、ごく稀に試製の材質を用いて鍛えられた物も存在する。その殆どは脆く朽ちるが、剣右が携える刀のように「万が一」「間違えて」生まれた業物がある。
一流の業物と比肩しても遜色がない。
この刀は剣右が場末の質屋で二足三文で購入したものだが、研ぎ直しに出す度に薄っすらと結露しているかのような輝きを放つのでただの銘刀だとは思っていない。
必ず何かしらの謂れが有るに違いないと踏んでいる。
刀装を解いた際に確認した、目釘付近に刻まれた『鷹』の一文字も気になる。
――――ごちゃごちゃ言ってもどこにも転ばない状況だな。
先に抜いたのは……否、抜いていたのは目の前の鎖鎌遣いだ。
得物を抜いたからにはそれに命を賭ける覚悟ができている証拠だろう。
勝負の世界に差別はない……それが剣右の哲学。
女だろうと流派が何だろうと得物を抜いたからには、始まるのは殺し合いだ。
飯の種の賭博試合でもかなりの確率で死人が出る。
斬った張ったの空間に論理的な行動は不要。
戦が終わってまともに立っている最後の一人が勝者で正義で理屈なのだ。
剣右の双眸に暗い精気が滾る。
「……さて、やるか」
鎖鎌の女はそう呟くと、鎌を握る右手首を素早く振る。まるでリボンを解くよいうに肩に通した鎖を地面に落とした。
鎖の長さは目測で約1.3m。分銅の直径は約4cm。断面が楕円の柄の長さは約35cm。刃の先端から柄に向かって3分の1ほどが切先両刃造りの特徴的な鎌の刃渡りは約18cm。
これだけで流派を特定するのは難しい。
昔観た、時代劇の忍者が使う柄尻から長い鎖が伸びている鎖鎌は流派としては少数派だ。
現存する殆どの流派はこのように鎌の柄先から鎖が伸びている。
鎖、鎌、柄のそれぞれの寸法や形状、構え方に流派毎の違いはあっても、操りやすいように短い鎖が取り付けられている。
――――短期決戦しかないか。
剣右は左足を半歩以上退き、刀を右手に、鉄拵えの鞘を左手に構えた。
剣右が遣う久礼派一刀流は名前の通り、一刀流を始祖とする分派の一つだ。
伊東一刀斎景久と呼ばれる傑物が開いたために「一刀流」と名付けられた。
刀一振りで戦う流派だから一刀流ではない。付け加えるのなら二刀流という流派も同じく存在していた。今では失伝してしまったが、大小二剣術は言わば上級者だけに伝授されるステータスだった。
返して。一刀流だから常に刀一振りで戦うことが全てとはいえない。
一刀流は北辰一刀流、甲現一刀流、小野派一刀流等の多数の分派を生み出しているが、剣右の遣う久礼派一刀流は名前のイメージに反して左右の手に得物を構えて仕合うことを伝授している。
剣右自身が打撃を想定した鉄鞘拵えの刀装を気に入ったので、二本差しにしていないだけだ。
「……」
「……」
彼我の距離10m。
鎖鎌遣いに動きは無い。
鎖の先の分銅は、女の足元……前方より僅かに右斜めの位置に転がっている。
一合を交わす前に、矢鱈と鎖分銅を振り回さない鎖鎌遣いは少なくとも免許皆伝かそれに相当する実戦を積んでいる遣い手だ。
何故なら、鎖の回転――右回転か、左回転か――や、体のどの位置で回転させるか、回転の速度で防御か攻撃か、牽制か絡め取りかを見切られやすくなる。
「!」
不意に跳躍したのは鎖鎌遣いの方だった。
分銅を後方に残して体だけが疾駆する。
「『脳味噌、ブチ撒けろ!』」
女は白い歯を剥き、凄惨な笑みを浮かべながら、充分に力を蓄えた右腕を一閃させた。
中空を鈍く裂き、分銅が大振りで剣右を襲撃する。
――――脳味噌?
――――馬鹿だろコイツ!
分銅の着弾点を、鬼のような笑い顔で口走る鎖鎌遣いに体勢を向き直し、躊躇わず、左手の鉄鞘で左側頭部を庇う。
「!」
「甘いな! 鎖鎌!」
鉄鞘の先端に鎖分銅が絡み付く。
女の渾身の一撃はこれで不発に終わった。
次の突きで呆気なくこの鎖鎌遣いは心臓を貫かれる……と思っていたのは剣右だけだった。
「『乗っかったな。馬鹿め』」
女の胸元に襲い掛かる切先はいとも簡単に鎌の太刀もぎに捉えられ、突きの方向がみるみる内に女の左肩上の虚空に過ぎていく。
太刀もぎと刀の凌ぎが触れ合ってカチンと涼しい音がする。
――――! 鉄鞘を返さないと!
剣右の額に汗が吹き出る。
「!」
右手首を返し、鎌の太刀もぎが180度回転すると、枝を折るように剣右の右手から刀が零れ落ちた。
左手の鉄鞘を振り下ろそうとして、体感だけで女の顔面を打突するが……。
「そうだ。間合いが違い過ぎるんだ!」
女は口走りながら、遊んでいるだけと思われた左手で左小脇に向けられた鎌の柄先――鎌の付け根付近――を逆手に握る。
右半身だけの女の構えがターンテーブルに乗せられたように左半身にスイッチして、その遠心力が乗った鎌の柄尻を剣右の鳩尾に叩き込む。逞しく鍛えられた腹部の僅かな隙間に鋭い打突がめり込む。
「……がはっ」
苦悶の呼吸を搾り出すだけで、内臓まで吐き出しそうな苦痛が剣右を襲う。
左手から鉄鞘が落ちる。
数えるまでも無く意識が遠のく。
完全に意識が落ちる寸前にようやく吐き出した言葉が一つ。
「お前……名と流派を……」
黄水の混じる液体を吐き出しながら剣右が膝からゆっくり崩れ落ちる。
女鎖鎌遣いの顔に表情はない。
意識をなくした剣右の問いには律儀に答えた。
「止星位取(やみほし みどり)……一加(いっか)流鎖鎌術……また、どこかで遭えたらいいね」
右手を振るい鎖分銅をしならせると、蛇がのたうつように分銅が跳ね上がり、止星位取と名乗る女の左肩から右脇に掛けて緩く、たすき掛け状に巻き付く。
右小脇に鎌がぶら下がる。その刃に革製の鞘を被せる。
位取は大した感慨も受けずに目標の一つだった追い剥ぎ行為に出た。
剣右が背負っていた少量の貴金属とそれなりの食料と雑貨が詰まったザックを回収するときびすを返して夜陰に消える。
尚、人気のない通りの真ん中で意識を失っていた剣右は刀も衣服も浮浪者に奪われ、意識無く動けない体は生きたまま、臓器売買組織に回収された。
以後、剣右の姿を見た者は居ない。
剣右を見かけたとしても、それは『身体に重度の傷病や欠損を抱えた傷痍軍人や民間人の体の一部』として機能しているはずだ。血液、髪の毛、爪、皮膚……全て換金できる。
※ ※ ※
政令主要都市から僅かに外れたこの街は自由と自分勝手の区別が付かない人間で溢れ返っている。
「ご名答。ここで32勝を挙げているあんたを倒せば私は32勝『挙げたも同然』だ……まぁ、逃げずに付き合ってくれよ」
女剣客の言葉の最中に刀をベルトフック――着物が主流の封建時代ではないので結び紐は役に立たない。それの代用品のフックが製造販売されている――から外すとスラリと抜く。
無銘。
束打なれど業物。
束内とは安価な刀を指すが、ごく稀に試製の材質を用いて鍛えられた物も存在する。その殆どは脆く朽ちるが、剣右が携える刀のように「万が一」「間違えて」生まれた業物がある。
一流の業物と比肩しても遜色がない。
この刀は剣右が場末の質屋で二足三文で購入したものだが、研ぎ直しに出す度に薄っすらと結露しているかのような輝きを放つのでただの銘刀だとは思っていない。
必ず何かしらの謂れが有るに違いないと踏んでいる。
刀装を解いた際に確認した、目釘付近に刻まれた『鷹』の一文字も気になる。
――――ごちゃごちゃ言ってもどこにも転ばない状況だな。
先に抜いたのは……否、抜いていたのは目の前の鎖鎌遣いだ。
得物を抜いたからにはそれに命を賭ける覚悟ができている証拠だろう。
勝負の世界に差別はない……それが剣右の哲学。
女だろうと流派が何だろうと得物を抜いたからには、始まるのは殺し合いだ。
飯の種の賭博試合でもかなりの確率で死人が出る。
斬った張ったの空間に論理的な行動は不要。
戦が終わってまともに立っている最後の一人が勝者で正義で理屈なのだ。
剣右の双眸に暗い精気が滾る。
「……さて、やるか」
鎖鎌の女はそう呟くと、鎌を握る右手首を素早く振る。まるでリボンを解くよいうに肩に通した鎖を地面に落とした。
鎖の長さは目測で約1.3m。分銅の直径は約4cm。断面が楕円の柄の長さは約35cm。刃の先端から柄に向かって3分の1ほどが切先両刃造りの特徴的な鎌の刃渡りは約18cm。
これだけで流派を特定するのは難しい。
昔観た、時代劇の忍者が使う柄尻から長い鎖が伸びている鎖鎌は流派としては少数派だ。
現存する殆どの流派はこのように鎌の柄先から鎖が伸びている。
鎖、鎌、柄のそれぞれの寸法や形状、構え方に流派毎の違いはあっても、操りやすいように短い鎖が取り付けられている。
――――短期決戦しかないか。
剣右は左足を半歩以上退き、刀を右手に、鉄拵えの鞘を左手に構えた。
剣右が遣う久礼派一刀流は名前の通り、一刀流を始祖とする分派の一つだ。
伊東一刀斎景久と呼ばれる傑物が開いたために「一刀流」と名付けられた。
刀一振りで戦う流派だから一刀流ではない。付け加えるのなら二刀流という流派も同じく存在していた。今では失伝してしまったが、大小二剣術は言わば上級者だけに伝授されるステータスだった。
返して。一刀流だから常に刀一振りで戦うことが全てとはいえない。
一刀流は北辰一刀流、甲現一刀流、小野派一刀流等の多数の分派を生み出しているが、剣右の遣う久礼派一刀流は名前のイメージに反して左右の手に得物を構えて仕合うことを伝授している。
剣右自身が打撃を想定した鉄鞘拵えの刀装を気に入ったので、二本差しにしていないだけだ。
「……」
「……」
彼我の距離10m。
鎖鎌遣いに動きは無い。
鎖の先の分銅は、女の足元……前方より僅かに右斜めの位置に転がっている。
一合を交わす前に、矢鱈と鎖分銅を振り回さない鎖鎌遣いは少なくとも免許皆伝かそれに相当する実戦を積んでいる遣い手だ。
何故なら、鎖の回転――右回転か、左回転か――や、体のどの位置で回転させるか、回転の速度で防御か攻撃か、牽制か絡め取りかを見切られやすくなる。
「!」
不意に跳躍したのは鎖鎌遣いの方だった。
分銅を後方に残して体だけが疾駆する。
「『脳味噌、ブチ撒けろ!』」
女は白い歯を剥き、凄惨な笑みを浮かべながら、充分に力を蓄えた右腕を一閃させた。
中空を鈍く裂き、分銅が大振りで剣右を襲撃する。
――――脳味噌?
――――馬鹿だろコイツ!
分銅の着弾点を、鬼のような笑い顔で口走る鎖鎌遣いに体勢を向き直し、躊躇わず、左手の鉄鞘で左側頭部を庇う。
「!」
「甘いな! 鎖鎌!」
鉄鞘の先端に鎖分銅が絡み付く。
女の渾身の一撃はこれで不発に終わった。
次の突きで呆気なくこの鎖鎌遣いは心臓を貫かれる……と思っていたのは剣右だけだった。
「『乗っかったな。馬鹿め』」
女の胸元に襲い掛かる切先はいとも簡単に鎌の太刀もぎに捉えられ、突きの方向がみるみる内に女の左肩上の虚空に過ぎていく。
太刀もぎと刀の凌ぎが触れ合ってカチンと涼しい音がする。
――――! 鉄鞘を返さないと!
剣右の額に汗が吹き出る。
「!」
右手首を返し、鎌の太刀もぎが180度回転すると、枝を折るように剣右の右手から刀が零れ落ちた。
左手の鉄鞘を振り下ろそうとして、体感だけで女の顔面を打突するが……。
「そうだ。間合いが違い過ぎるんだ!」
女は口走りながら、遊んでいるだけと思われた左手で左小脇に向けられた鎌の柄先――鎌の付け根付近――を逆手に握る。
右半身だけの女の構えがターンテーブルに乗せられたように左半身にスイッチして、その遠心力が乗った鎌の柄尻を剣右の鳩尾に叩き込む。逞しく鍛えられた腹部の僅かな隙間に鋭い打突がめり込む。
「……がはっ」
苦悶の呼吸を搾り出すだけで、内臓まで吐き出しそうな苦痛が剣右を襲う。
左手から鉄鞘が落ちる。
数えるまでも無く意識が遠のく。
完全に意識が落ちる寸前にようやく吐き出した言葉が一つ。
「お前……名と流派を……」
黄水の混じる液体を吐き出しながら剣右が膝からゆっくり崩れ落ちる。
女鎖鎌遣いの顔に表情はない。
意識をなくした剣右の問いには律儀に答えた。
「止星位取(やみほし みどり)……一加(いっか)流鎖鎌術……また、どこかで遭えたらいいね」
右手を振るい鎖分銅をしならせると、蛇がのたうつように分銅が跳ね上がり、止星位取と名乗る女の左肩から右脇に掛けて緩く、たすき掛け状に巻き付く。
右小脇に鎌がぶら下がる。その刃に革製の鞘を被せる。
位取は大した感慨も受けずに目標の一つだった追い剥ぎ行為に出た。
剣右が背負っていた少量の貴金属とそれなりの食料と雑貨が詰まったザックを回収するときびすを返して夜陰に消える。
尚、人気のない通りの真ん中で意識を失っていた剣右は刀も衣服も浮浪者に奪われ、意識無く動けない体は生きたまま、臓器売買組織に回収された。
以後、剣右の姿を見た者は居ない。
剣右を見かけたとしても、それは『身体に重度の傷病や欠損を抱えた傷痍軍人や民間人の体の一部』として機能しているはずだ。血液、髪の毛、爪、皮膚……全て換金できる。
※ ※ ※
政令主要都市から僅かに外れたこの街は自由と自分勝手の区別が付かない人間で溢れ返っている。