一刃結鎖

 荒廃した世情。

 狂気と絶望の渦中でも、この世にひり出されたからには死ぬまで生き続けなければならない。
 最悪と自由と無法が攪拌されている世界。
 そこで繰り広げられるのは、本能に従い悦楽に浸る脆く短い人生か、ドブネズミのごとく細々と生き長らえる人生か。
 情勢が世に問う不確定な人心は、世界そのものが崩壊したのではない事にある。

 経済が破綻直前でも産業が沈黙したわけでもない。寧ろ、『現在』では金銭財貨よりモノが優先される場合が多い。先の大戦直後に見られた闇市に似る風景はどこでも見受けられるが、交わされるのは原始的な物々交換。
 この日本に於いては戦勝国の端に加えられるスタンスであるために、地球規模で見れば恵まれた待遇だった。
 先の大戦でいくつもの国家が滅び、解体され、吸収された。
 
 国内では違法な路上販売が跋扈している反面、政令主要都市ではコンビニの棚が商品で溢れ返るというグロテスクに満ちた混乱を描いている。
 普通の戦後国家では有り得ない、普通でない現象が、尋常ならざる『世間』を築いている。

 極東に端を発する世界大戦が終結して20年。
 人々の心には暗澹と翳りと無情が常に住み着いている。
  ※ ※ ※
 所謂、打ち刀。

 彼が左腰に佩いているのは二尺三寸五分の日本刀だった。
 鞘は鋲を打ち込んだ鉄拵えで打撃武器として使用する事を想定した堅牢な拵えだった。
 175cmの長身に、スマートながらも優れた筋骨を蓄えた体躯は、ボロに近い、元は何の色なのか判別が付かないトレーナーに膝が薄破れしたジーンズパンツで覆い隠されている。
 空腹の狼を連想させる鋭い眼光。
 筋の通った眉から鼻先までの流麗なライン……やはり、狼の貌が近過ぎるような見事な八重歯が時折、唇の端から覗える。
 彼の名は番村剣右(つがむら けんすけ)。彼自身の記憶が正しければ今年で24歳になるはずだ。
 物心ついたときから棒切れを刀に見立てて、祖父が開いた剣術道場の端で黙々と業を吸収していた。
 先の大戦では徴兵制は復活せずに従来の『有事の際の国防力』だけで戦い抜いたゆえに、彼のような若者でも国策的束縛もなく自由に思春期を迎えることができた。
 形だけは高校卒業の証書を貰ったが、実際は喧嘩だけに明け暮れた生活が3年間続いた。
 高校入学初日に彼を標的にした不良グループを、彼自身が厳しく禁を課せていた剣術で撃退したことが直接的原因だ。
 剣右は、自身が持つ能力は実戦の中でこそ磨かれると傾倒し、他校の不良グループとのイザコザには必ず先陣を切って木刀を奮った。
 高校を卒業してからは進学も定職も考えずに、ひたすら、実戦の場を求めて放浪した。
 その結果、路上での賭博試合に身を投じ、稼いだファイトマネーで今の無銘の束打と出会った。
 敢えて言うなら彼の職業は『バンガー』。
 違法行為に分類される、賭博路上格闘技で糊口を凌ぐ人種をバンガーと呼ぶ。
 バンガーとは無法者を語源に持つ米国語スラングだ。

「……出て来い」
 唐突に剣右は鋭く言い放つ。
 言葉の覇気自体が素晴らしい秋水を返す刀のごとく鋭い。
 剣右の腹時計からして夕方6時。夏が終わろうとしている時期だが、心地良い涼風は感じない。
 街灯の直下で彼は、かの気配を窺った。
 幸いなことに大戦中でも一切、核エネルギーに打撃を蒙ることがなかった日本では余程の過疎地域にでも足を運ばない限り電力に困ることはない。
 また、どんな生活を営む市民もライフラインがなければ搾取することも生き延びることもできない事実を知り尽くしているために、公共事業で設置された器物を破損させる真似はしない。
 酔っ払いや薬物で幻覚を見ている不逞の輩が跡形もなく叩き壊しても、数日後には短機関銃で武装した警察官に守られながら役場の然るべき部署が修理や設置のために訪れる。
 ゆえに、街灯が煌々と夜道を照らしている風景は珍しくない。流石にガスと原油、埋蔵資源は高価な資源なので格落ちする代替製品が不足分を補っている。
「出て来いっつってるだろ!」
 語尾荒く、剣右は背後を振り向く。
 左肩に掛けた一抱えのズタ袋がアスファルトの地面に落ちる。中身はファイトマネー……純度の高い貴金属が少量と多数の缶詰や日用雑貨だ。
「安心しろ。闇討ちは趣味じゃない」
 目前10mの辻の角からソイツは現れた。
 剣右より5cmほど身長が低いその人物は、容貌こそ抽象的な美貌を湛え、ジーンズジャケットの袖を自前で切り落としたようなベストとカーゴパンツで身を包んでいたが……女だった。
 ベストの下の赤いTシャツが豊かに膨らんでいる。ボーイッシュな印象を強くする無造作なショートの髪型だけに、女性たるシンボルが無ければ遠目にはすぐに性別は判断できないだろう。
 それにこの口調だ。抑揚の付け方が男と遜色ない。
 年の頃は剣右と同じだろうか?
 環を作った鎖に右肩を通し、右手に鎌をダラリと提げている。鎌の柄先から鎖が伸びているらしい。
 鎌の柄、中ほどの右側面に細長い太刀もぎ――十手・サイなどに見られる、刃を受け止める鉤状の部位――が取り付けられている。
――――鎖鎌か……。
 剣右は即座に見抜いた。
――――厄介だな。
 鎖鎌が厄介だと心中で呟いた理由は、その遣い手の習熟度である。
 鎖鎌は白兵戦武器としては異色で、遠近共に優れた戦闘力を発揮する武器だが、問題は『遣い手そのものの腕前』にある。
 熟練者とそうでない遣い手の修得の差がはっきりと分かれてしまう武器なのだ。
 入門者は返る分銅で、振り下ろした鎌で、自身を傷付けないように扱うだけで精一杯の武器だ。とても業を放つどころではない。
 その習熟が難しい武器を携えた、敵対する態度を取る人間が剣右の目前で立っている。
 はっきり言えば、剣右はこの女剣客が『出来る者』なのか『出来ない者』なのか判断できないでいた。
 女という体躯を鑑みてもそれなりに膂力が備わった筋骨を持っているらしいが、この腐った時代に腕に覚えもなく鎖鎌で生き延びようとするだけに、甘く見るこことができない。
「《斬り潰し》の剣右……32戦32勝。全ての試合で対戦相手を3分以内で『黙らせる』腕前……悪くは無いな」
「……」
 僅かにハスキーで艶の有る声色。
「さっきの試合も観ていたよ。種川流槍術も『右の刀と左の鉄鞘』には勝てなかったな……流石、二刀術に定評が有る久礼派一刀流を修めただけはあるね。『その辺の遣い手』では勝てないな」
――――!
 剣右の背中に冷たいものが走る。
――――流派を見切られた!
 自身が使う流派と太刀筋を相手に知られていいことなど、何一つない。
 余程、格式の高い試合や演舞でもなければ自ら流派を名乗ることは自殺行為だ。
 ましてやこのような野良試合で相手に名前を知られるのは持ち業を知られるのと同じだ。
 奥義にしてもどのような理論が働いて繰り出すことができるのかが相手に知られては半分以上、業が破られたのと同じだ。
「先に言っておく。私はただの追い剥ぎだ……高価な食餌を持ってうろついていたのが、たまたま、勝利したバンガーだっただけのこと」
「随分と堂々とした追い剥ぎだな。獲物を奪うついでに俺を倒して箔でも付けたいか?」
 剣右は丹田で呼吸を練りながらゆっくり左腰に手を伸ばした。
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