ワイルドピース

 百飛木が文字通り思い出したように、その場から立ち去ったのは、忘れずに、放り投げたイングラムを回収してからだった。
 曲りなりにも光江が気を利かせてレンタルしてくれた銃なので簡単に使い捨てできない。
 所々で発砲音が聞こえた。負傷して動けないカチコミ組を始末したか、自決したのだろう。
 目的のフロアは完全制圧。撤収経路は確保済み。
 問題なく履行した仕事。空薬きょう以外は残さず、引き上げた。幌付き軽四トラックに分散して乗り込む。全身の各所が火箸を当てられたように痛むので指先を当てる。
「……!」
 指先を当てた身体の各所を負傷している。皮膚を銃弾に浅く持っていかれて、流血している。深刻な負傷は一つもなかったが、軽い銃創を認識した途端、痛みが小癪に疼く。
 軽四トラックが動き出す。しばらくして、遅れて恐怖感が湧き出し、全身が震えだす。今頃、歯がガチガチと鳴って血の気が引く。恐らく、今の百飛木の顔は蒼白を通り越して土気色だろう。
 パニックを起こし掛けの百飛木の目前にシルバーのフラスコが差し出される。
「呑め。気付け代わりだ」
 トラックの荷台に同席していたM468の男が、無愛想にそれを手に持っていた。
 縋る思いで、震える手でフラスコを取り、中身を呷る。
 典型的アメリカンバーボンの癖の有る臭みが口腔から胃袋までを消毒するかのように流れ落ち、堪らず咽返る。鼻腔をアルコールが抜ける。
 腹の底が温まり、負傷箇所が熱を持つ。
 アルコールは、直後の負傷には悪影響だが、正気を保つのが何よりも先決だった。ヘビーな飲酒嗜好のない百飛木には少々、キツイ気付けだ。
 再び呷る。今度は少量を口腔でゆっくり転がしながら嚥下する。
「少しは落ち着いたか?」
「お蔭さんで……」
 フラスコをM468の男に返す。
 面構えは訓練を受けた軍用犬を連想させる。獰猛且つ精悍な雰囲気。『その筋の人間』の雰囲気を体臭のようにまとっていた。
「帰投したら充分に消毒して抗生物質を飲め。今ここで怪我に酒を吹き付けてやりたいが、それじゃ、俺が呑む分が無くなる」
 M468の男は相好を崩した。芯は悪い人間ではなさそうだ……尤も、この世界では表に見せる顔の変化というものは処世術のツールでしかない。それの慣習に倣い、百飛木もやや硬い微笑を浮かべる。
 表情すらも生存のツールとは何とも殺伐とした世界。
 現実にはこの男のように、表情の変化をカタギの人間のように表すことができる人間の方が多い。仕事中はツールとしての笑い。オフのときは個人の個性を滲ませる、心理変化のバロメーターだ。
 漫画やドラマのように冷酷で非情な殺し屋は表情も知らない、という人間は滅多に見かけない。
 本当に冷酷で非情な殺し屋ほど、自分自身を偽装し、他人を雰囲気だけで欺瞞するので見た目には一般人と判断が付かない。
 百飛木の目の前にいるM468の男も仕事から離れると、カタギの海で泳ぐために人畜無害な人間に早変わりするのだろう。
 もしかしたら、寸鉄一つ帯びずに外出するほど、豪胆且つ繊細な人間なのかも知れない。
 人間の世間に溶け込めず人間の表情を読み取れない孤独な一匹狼は、結局、人間を観察する能力に劣る。
 他人とのコミュニケーションが苦手で人間の心理が読める殺し屋など、所詮、空想の産物だ。
 薬殺、自殺偽装、刃物であれ銃火器であれ、「殺す」という動作にも人間関係の構築から得られた情報を元にして行うアクションが多数、内包されている。
 裏返せば、世の中はこのような――殺し屋は孤独でコミュニケーションが苦手で閉鎖的――イメージが先行しているお陰で何かと、表を大手を振って歩きやすいのかもしれない。
 例えるなら、明るくて人付き合いが広く、いつも買い物袋を提げている面倒見がいい下町のオバチャンが『冷酷で非情な殺し屋。しかも、裏の世界で№1の実力者』などとは普通の人間では想像もしないだろう。
 闇社会で巧く渡り歩く反社会性因子ほど、『普通の顔』を持っている。部屋に閉じ篭る過激派や客人を求めて裏路地しか歩かない薬物の売人の方が余程、簡単に見分けが付く。
 百飛木もそういった意味で、『カタギと交わるための普通の顔』を持っている。
 男勝りで少々喧嘩腰な喋り口調は生来の特徴だが、だからこそ操りやすい言語でもある。
 仕事になれば口数を減らせば良いだけだからだ。
 その点、パートナーの光江は完璧だった。表裏が無く、仕事とオフを『切り替えるのではなく、絡むように交わる線』として扱っているために柔軟に思考を介入させることができる。
 プロとしての視野狭窄な見解に素人視点の感情論を持ち込むことで、より多角的な方向から依頼を検分することができる。
「……」
 銃弾に浅く削られた皮膚が、アルコールのお陰で脈打つ度に熱が上がる感じがする。
 暫くして、猛烈にニコチンを欲し、いつものコイーバ・コロナスエスペシャルを保湿機能付きシガーセーフから抜き取り、ヘッドを前歯で乱暴に噛み千切る。フットを使い捨てライターで炙りながらセカセカと紫煙を撒き散らした。
 狭い幌の中にハバナの濃厚な香りが充満する。他の2人――何れもカチコミ組――は誰も文句を言わなかった。既に皆、一様に煙草を咥えていた。
   ※ ※ ※
 命辛々な雰囲気で帰宅し、予想通り、光江に怒り顔と困り顔を作らせたカチコミの仕事から10日が経過した。
 傷も癒えた。
 抗生物質が配合された軟膏を毎日数回塗り付けているだけで3日くらいで痛みが引き、6日目には薄く皮が再生していた。
 今では大きなかさぶた程度の負傷痕しか見当たらない。悪化した場合の化膿止めや鉛毒から来る高熱に備えた解熱剤も用意していたが、無用に終わる。
 そろそろ梅雨前の鬱陶しい季節。
 この季節は一部の組織者にとって天敵だった。
 季節柄、気温が暑くなればそれだけ長物の上着で歩く理由が減るからだ。
 街中を出歩くのに夏物であっても長袖を着ていると不審だ。
 殊に、百飛木のように長身で、なだらかなボディラインで顔付きが抽象的な男性に近い、活発型ボーイッシュは兎角、街中でカタギに顔やファッションを比較されて記憶されやすい。
 こんな時ばかりは流石に全ての外出する用件は光江に任せて引き篭もりたい気分に成る。
 ライフサイクルを崩す行動はそれだけでリスキーなので毎年頭を使う。
 
「で、さぁ。思ったんだけど」
「碌でもあることならいくらでも思って」
 自宅のリビングで昼下がりに光江の淹れてくれた紅茶でコイーバ・コロナエスペシャルを吹かしながら百飛木は唐突に言い放つ。
「思い切って、今年の暑い時期は浴衣か作務衣でいようかと思った」
「……悪くは無いけど……その心は?」
「ぶっちゃけ、拳銃を仕舞う懐の大きさが足りない」
 暑くて上着が着れないと……即ち、拳銃の携行性を低くするというのと同義だ。
 二昔前の婦人警官のように小型のショルダーバッグにブローニングM1910を忍ばせて歩くのとはわけが違う。
 公僕供の豆鉄砲では仕事にならない。万が一の予備弾薬も必要だ。
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