ワイルドピース
百飛木は光江から体を離した。
「愛してる、の一言も言えないの?」
「慣れないことをすると嫌な運を呼び込む」
百飛木は再び、光江を右腕一本で抱き寄せると、雰囲気も色気も無く唇を押し付ける。
「ん……ほんっと、こう言うのは苦手ねえ」
「ある日突然、オンナの扱い方が上手くなったら嫌だろ?」
「ああ。本当に馬鹿……」
「馬鹿で結構……この続きは『潜った後』だ」
「……行ける」
マンションの地下駐車場にきて、ポケットから車の鍵を取り出す素振りを見せてあらかじめ、ポケットに流し込んでおいた小銭を愛車の前でわざと零す。
散乱する小銭を慌てて集める振りをし、百飛木と光江は車体の裏側やタイヤの陰をチェックした。爆弾や発信機などの仕掛けを怪しまれずに発見するための欺瞞だ。
「……」
「……」
車体の下部で二人の目が合う。二人供、無言で頷く。何も取り付けられていないようだ。
愛車――型落ちのサーブの黒いステーションワゴン――に乗り込み、光江がハンドルを握る。
百飛木はトランクルームを開けて、荷物を積んでいないように見せるブランケットを捲り、そこに並べられていたH&K MP5Kと予備弾倉10本を掻き集める。
路上で追撃された場合に実力で排除するために常に備えている予備兵装だ。
それらを抱えると助手席に座り、弾倉を足元に無造作に置く。弾倉を挿さないで、ボルトや引き金の作動状況を調べる。
サマージャケットの左脇にフォスベリー・オートマチック・リボルバーを忍ばせ、できるだけの予備弾薬をポケットに突っ込む。
「交通規制を守るんだ」
「……うん」
愛車のサーブは静かに唸りを上げて走り出した。
夜の街中。午後11時。
スピードメーターの右隣に埋め込まれたデジタル時計がそのように告げている。
高速には乗らずに一般道を選んで走る。高速道路は出入り口を挟まれれば、即席の密室が出来上がる。退路は無い。一般道なら車を捨てれば脱出ルートを確保するのが割りと簡単だ。
視線をリップミラーに走らせて追跡する不審車が無いか何度も確認する。不審な動きを匂わせないためにルームミラーを覗き込みたくなかった。
平日の夜中ということもあってか、スムーズに走ることができる。
途中何度か白バイが横を通過したが停車を求められることもなく、その度に胸を撫で下ろした。
車内は無言が制圧する。言語の概念が喪失したようだ。
ドアのサイドポケットからナイロンザックを取り出して弾倉を挿していないH&K MP5Kと予備弾倉を押し込む。光江と一旦、別れるときがきた。
「必ず合流しよう。それまで何があっても潜っているんだ。必ず、こちらから迎えに行く」
百飛木はできるだけいつもの調子で言い放つ。悪い運は呼び込みたくないので平静を心掛けている。
それに対し、首筋の大きな汗の玉を拭う光江。正直な所、車をまともに運転しているのがやっとだろう。
視線はフロントガラスの向こうを見ているが、心はここには無い。
百飛木の台詞も耳に届いてるかどうか。まともな鉄火場に立った事がない光江には厳しい状況だ。
せめてのお守りに短機関銃を持たせたかったが、38口径のスナブノーズもまともに撃てるかどうか怪しい光江に短機関銃は逆に危険だ。
幾ら小型高性能なH&K MP5Kといえど、それはある程度の訓練を受けた人間が扱ってこその性能だ。素人が高速回転の短機関銃を撃てばセレクターの使いどころも解らないまま、弾が尽きてしまうだろう。
「此処で一旦、お別れだ」
その言葉に光江が小さく震える。
路肩に静かに停車すると、ナイロンザックを背負った百飛木は自然な振る舞いを忘れずにサーブから降りる。
「光江。お前にはお前の仕事がある。それは俺にはできないことだ。それを果たしてくれ」
「……百飛木」
「囮なんてイヤな響きだが、ハジキの使い方を知らない人間には務まらない仕事だ……いいか? ホンの少しの我慢だ。全てが巧くいけば、離れているのは少しの時間だけだ……忘れるな。永遠のお別れじゃない」
「……」
極度の緊張と、愛する百飛木との一時の別れがもたらす壮絶な寂しさが、絶妙なバランスで光江の心に入り込む。
光江という人物は闇社会で生きるには少し、腹の座り方が足りないらしい。
降りる際に百飛木が光江に放った言葉はそれだけ。
光江は何も喋りかけることができずに、サーブのドアを閉めた百飛木の背中を、夜陰に紛れるまで、無事を祈る目で見守っていた。
「……」
百飛木は時折、立ち止まらずにリップミラーで背後を観察したが、尾行されている感触を読み取る。
「……」
百飛木も光江も既に尾行されていることを前提に行動している。
ゆえに驚きはしなかった。寧ろ、ここからが百飛木の仕事の領分だ。今は光江のことは忘れる。追撃する戦力を撃破できれば百飛木の勝ちだ。
そして、光江は伝から伝へ、より強い庇護を渡り歩き、百飛木も匿える大きな権力の傘下に収まればそれで勝ちだ。
その僅かな時間稼ぎに百飛木は尾行する敵勢力と『戦力的に均衡を保っている戦い』を演じなければならない。
勝とうが負けようが簡単に勝負がつくと都合が悪い。釘付けにするのが囮の仕事だ。その間に――たった1時間でも――少しでも光江が伝を頼ることができれば勝利への足掛りとなる。
敵の殲滅が目的じゃない。
撤退と見せ掛けた消極的な戦闘も織り交ぜなければならない。
囮と言っても、アクション映画のように弾をばら撒いているだけでは意味が無い。弾数無制限の銃火器など、手元に無い。
H&K MP5Kとフォスベリー・オートマチック・リボルバーでいつまで粘れるのかが鍵だ。
見えない敵勢力がどれだけの戦力を百飛木と光江に割いているのか解らないのが不気味だ。自分達の組織に訊ねてみてもまともな答えは返ってこないだろう。末端の各個撃破に大した人数を割いていないことを祈るばかりだ。
どんなに追尾者の前で敵対意思が無いことを全身でアピールしても意味がない。
飼い犬同然の末端構成員が一つの命令を受ければ、『考えもせずにそれを実行するからだ。百飛木の仕事同然に』。
「……」
見知った界隈の路地裏を歩く。
違法建築が繰り返されて建造物の境界線が曖昧な区域が広がる。
咳き込むようにチラつく街灯。目の前を走るドブネズミ。雨樋から垂れる溜まった雨水。腐乱死体でも転がっているような咽返る悪臭。
サナアの旧市街地も真っ青に入り込んだ裏路地を歩きながらH&K MP5Kを取り出し、30連発弾倉を挿し込む。
ボルトを引き、初弾を薬室に送り込む。軽快な作動音。限られた狭い空間でのあらゆる戦闘には小型で制御し易い短機関銃が一番頼りになる。
今は自分のこだわりを優先してフォスベリー・オートマチック・リボルバーに固執してリスクを高めるより、セレクターを3バーストに合わせたH&K MP5Kを主軸に展開した方が生存率が高い。
時折、目前で人影が蹲っているのを見るが、薬物患者か浮浪者を装った路上の情報屋なので、無視する。
幅1mから3mの路地は20mも直進しない内に辻や角に当たる。この界隈に慣れていなければ、午前中でも太陽の明かりが拝めない行き止まりに出くわすこともある。
百飛木は仕事柄、追尾者を巻くための簡易的な迷路としてこの裏路地を良く利用する。
「愛してる、の一言も言えないの?」
「慣れないことをすると嫌な運を呼び込む」
百飛木は再び、光江を右腕一本で抱き寄せると、雰囲気も色気も無く唇を押し付ける。
「ん……ほんっと、こう言うのは苦手ねえ」
「ある日突然、オンナの扱い方が上手くなったら嫌だろ?」
「ああ。本当に馬鹿……」
「馬鹿で結構……この続きは『潜った後』だ」
「……行ける」
マンションの地下駐車場にきて、ポケットから車の鍵を取り出す素振りを見せてあらかじめ、ポケットに流し込んでおいた小銭を愛車の前でわざと零す。
散乱する小銭を慌てて集める振りをし、百飛木と光江は車体の裏側やタイヤの陰をチェックした。爆弾や発信機などの仕掛けを怪しまれずに発見するための欺瞞だ。
「……」
「……」
車体の下部で二人の目が合う。二人供、無言で頷く。何も取り付けられていないようだ。
愛車――型落ちのサーブの黒いステーションワゴン――に乗り込み、光江がハンドルを握る。
百飛木はトランクルームを開けて、荷物を積んでいないように見せるブランケットを捲り、そこに並べられていたH&K MP5Kと予備弾倉10本を掻き集める。
路上で追撃された場合に実力で排除するために常に備えている予備兵装だ。
それらを抱えると助手席に座り、弾倉を足元に無造作に置く。弾倉を挿さないで、ボルトや引き金の作動状況を調べる。
サマージャケットの左脇にフォスベリー・オートマチック・リボルバーを忍ばせ、できるだけの予備弾薬をポケットに突っ込む。
「交通規制を守るんだ」
「……うん」
愛車のサーブは静かに唸りを上げて走り出した。
夜の街中。午後11時。
スピードメーターの右隣に埋め込まれたデジタル時計がそのように告げている。
高速には乗らずに一般道を選んで走る。高速道路は出入り口を挟まれれば、即席の密室が出来上がる。退路は無い。一般道なら車を捨てれば脱出ルートを確保するのが割りと簡単だ。
視線をリップミラーに走らせて追跡する不審車が無いか何度も確認する。不審な動きを匂わせないためにルームミラーを覗き込みたくなかった。
平日の夜中ということもあってか、スムーズに走ることができる。
途中何度か白バイが横を通過したが停車を求められることもなく、その度に胸を撫で下ろした。
車内は無言が制圧する。言語の概念が喪失したようだ。
ドアのサイドポケットからナイロンザックを取り出して弾倉を挿していないH&K MP5Kと予備弾倉を押し込む。光江と一旦、別れるときがきた。
「必ず合流しよう。それまで何があっても潜っているんだ。必ず、こちらから迎えに行く」
百飛木はできるだけいつもの調子で言い放つ。悪い運は呼び込みたくないので平静を心掛けている。
それに対し、首筋の大きな汗の玉を拭う光江。正直な所、車をまともに運転しているのがやっとだろう。
視線はフロントガラスの向こうを見ているが、心はここには無い。
百飛木の台詞も耳に届いてるかどうか。まともな鉄火場に立った事がない光江には厳しい状況だ。
せめてのお守りに短機関銃を持たせたかったが、38口径のスナブノーズもまともに撃てるかどうか怪しい光江に短機関銃は逆に危険だ。
幾ら小型高性能なH&K MP5Kといえど、それはある程度の訓練を受けた人間が扱ってこその性能だ。素人が高速回転の短機関銃を撃てばセレクターの使いどころも解らないまま、弾が尽きてしまうだろう。
「此処で一旦、お別れだ」
その言葉に光江が小さく震える。
路肩に静かに停車すると、ナイロンザックを背負った百飛木は自然な振る舞いを忘れずにサーブから降りる。
「光江。お前にはお前の仕事がある。それは俺にはできないことだ。それを果たしてくれ」
「……百飛木」
「囮なんてイヤな響きだが、ハジキの使い方を知らない人間には務まらない仕事だ……いいか? ホンの少しの我慢だ。全てが巧くいけば、離れているのは少しの時間だけだ……忘れるな。永遠のお別れじゃない」
「……」
極度の緊張と、愛する百飛木との一時の別れがもたらす壮絶な寂しさが、絶妙なバランスで光江の心に入り込む。
光江という人物は闇社会で生きるには少し、腹の座り方が足りないらしい。
降りる際に百飛木が光江に放った言葉はそれだけ。
光江は何も喋りかけることができずに、サーブのドアを閉めた百飛木の背中を、夜陰に紛れるまで、無事を祈る目で見守っていた。
「……」
百飛木は時折、立ち止まらずにリップミラーで背後を観察したが、尾行されている感触を読み取る。
「……」
百飛木も光江も既に尾行されていることを前提に行動している。
ゆえに驚きはしなかった。寧ろ、ここからが百飛木の仕事の領分だ。今は光江のことは忘れる。追撃する戦力を撃破できれば百飛木の勝ちだ。
そして、光江は伝から伝へ、より強い庇護を渡り歩き、百飛木も匿える大きな権力の傘下に収まればそれで勝ちだ。
その僅かな時間稼ぎに百飛木は尾行する敵勢力と『戦力的に均衡を保っている戦い』を演じなければならない。
勝とうが負けようが簡単に勝負がつくと都合が悪い。釘付けにするのが囮の仕事だ。その間に――たった1時間でも――少しでも光江が伝を頼ることができれば勝利への足掛りとなる。
敵の殲滅が目的じゃない。
撤退と見せ掛けた消極的な戦闘も織り交ぜなければならない。
囮と言っても、アクション映画のように弾をばら撒いているだけでは意味が無い。弾数無制限の銃火器など、手元に無い。
H&K MP5Kとフォスベリー・オートマチック・リボルバーでいつまで粘れるのかが鍵だ。
見えない敵勢力がどれだけの戦力を百飛木と光江に割いているのか解らないのが不気味だ。自分達の組織に訊ねてみてもまともな答えは返ってこないだろう。末端の各個撃破に大した人数を割いていないことを祈るばかりだ。
どんなに追尾者の前で敵対意思が無いことを全身でアピールしても意味がない。
飼い犬同然の末端構成員が一つの命令を受ければ、『考えもせずにそれを実行するからだ。百飛木の仕事同然に』。
「……」
見知った界隈の路地裏を歩く。
違法建築が繰り返されて建造物の境界線が曖昧な区域が広がる。
咳き込むようにチラつく街灯。目の前を走るドブネズミ。雨樋から垂れる溜まった雨水。腐乱死体でも転がっているような咽返る悪臭。
サナアの旧市街地も真っ青に入り込んだ裏路地を歩きながらH&K MP5Kを取り出し、30連発弾倉を挿し込む。
ボルトを引き、初弾を薬室に送り込む。軽快な作動音。限られた狭い空間でのあらゆる戦闘には小型で制御し易い短機関銃が一番頼りになる。
今は自分のこだわりを優先してフォスベリー・オートマチック・リボルバーに固執してリスクを高めるより、セレクターを3バーストに合わせたH&K MP5Kを主軸に展開した方が生存率が高い。
時折、目前で人影が蹲っているのを見るが、薬物患者か浮浪者を装った路上の情報屋なので、無視する。
幅1mから3mの路地は20mも直進しない内に辻や角に当たる。この界隈に慣れていなければ、午前中でも太陽の明かりが拝めない行き止まりに出くわすこともある。
百飛木は仕事柄、追尾者を巻くための簡易的な迷路としてこの裏路地を良く利用する。