風よりも速く討て

 確かに、メモに書かれた所在地と一致するが、近所の人間にしか直ぐに思い付かない位置に有る。直線距離で煙草屋から近いから道順も簡単とは限らない。
「……行くか」
 紫煙を吐き散らしながら咥え煙草で、今にも板を踏み抜きそうな階段を上り、外晒しの2階廊下へ進む。床は見た目はコンクリで拵えられているはずなのに、何処を踏んでも薄氷を踏むような軋みが靴の裏から伝わる。
「……」
 目的の部屋にくると軽くノックして中の住人を窺う。しかし、返答は無い。何度かノックを繰り返しても同じだ。
 埒が明かないと思ったので思い切ってドアノブを回してみる。
「?」
 鍵が掛かっていない。
 部屋の中から漂う異臭。煙草のせいかと、咥えている煙草をポケット灰皿で揉み消すが、矢張り、異臭の元は部屋の中からだった。
「……辺里(へんり)?」
 住人の苗字を呼んでみるが、薄暗い室内からは応答は無い。益々異臭が酷くなる。
 意を決して部屋に踏み込む。最低限の日用電化製品が配置されている、台所付き4畳半の部屋で先桐が発見したものは布団で朽ちている変死体だった。
 部屋に争ったり荒らされた形跡は無い。普通に『布団で眠るように死んでいたであろう亡骸』。
 様々な死体に慣れている先桐にとって、布団に収まる、白骨化寸前の変死体など、驚きのネタにもならない。
 小さな箪笥や押入れを開放して事の真相を自分で確かめる……と、いう真似はしない。素直に警察に通報する。
 この場合は大人しく第一発見者として協力した方が何も話は拗れない。
 それに、こんなときのために所轄警察の内部に金をバラ撒いているのだ。巧くいけば、捜査状況を筒抜け状態で報せてくれる捜査員が何か有用な手掛りを教えてくれるかもしれない。
「……とは言え……面倒には変わりないな」
 その場で警察に通報を終えた携帯電話をポケットに仕舞い、部屋の外に出た。
「辺里が死んでいる……飼い犬3匹はどうした? ……『誰も、自慢の犬を引き取ったとは聞いていない』……辺里は殺されたか病死か……」
 かつて、先桐が背任で破門宣告をさせた男である辺里が『死んでいた』。
 興味が沸々と沸くが、下手に手掛りを知ろうとして現場を荒らさない方が得策だ。
 これは飼い犬たちにとっては由々しき事態だ。
 従う対象を失えば暴走するか、自分の頭を撃ち抜くかしか思い浮かばない忠誠心を持っている者が『飼い犬』と呼ばれる始末人の『条件』だ。
 薬物や洗脳や脅迫という手法で服従を余儀なくされる人間は始末に負えぬ上に思わぬ落とし穴を拵えるので、基本的にカチコミ専門の使い捨てとしか扱わない。洗脳が緩んでいたり薬切れになると、土壇場で裏切るか寝返るからだ。
 和穂のように、結果的に成り行きで恩義を感じたり、義理人情な恩義を着せられたり負わされたりする人間は盲目的な忠誠心を発揮する。それこそが『飼い犬』と呼ばれる所以だが……。
「……まさかな」
 ふと、先桐の脳裏に嫌な可能性が浮かぶ。
 辺里が死を悟って、自分の死後に『飼い犬たち』に絶対に遂行させる命令を下していたとしたら。
 それの最終目標が全てを破滅させた先桐の命を盗ることで、今現在、様々な工作を遂行中だとしたら……。『行き場を失ったと思われている飼い犬3匹は間違いなく和穂を強襲する』。『辺里が先桐を丸裸にした状態で破滅に陥れることを主とした命令を下したのなら、外堀を埋める工作を必ず実行させる』。
 先桐の命を奪うことだけが絶望の定義だとは思わない。死ぬよりも辛い目に遭わせるのが目的だ。辺見はそうする。自分が辺見だったらそうする。
「……『あの男は、やる。あの性分はそう言う命令を下す』」
 安普請のアパートの入り口で煙草を吹かしながら憶測を走らせていると、おっとり刀のパトカーが到着した。
  ※ ※ ※
 先桐が警察署に連行された、と聞いたときは頭に血が上ったものだが、組織の情報筋から詳しい話を聞いている内に、『事件解決協力のために自主的に第一発見者の義務を果たしている』事実を知ってようやく落ち着いた。
 和穂は先桐が自宅に帰るまでの半日間が異常に長く感じられて、珍しく、半日で1箱の煙草を空にした。
 組織からあてがわれている中流家庭向けマンションのリビングで動物園の熊さながらに歩き回り、何本もの煙草を灰にしていた。
 先桐からの帰宅の報告で何とか心が一段落付いた。
 先桐が別件で要らぬ嫌疑を掛けられるのではないかと気が気ではなかったのだ。
 帰宅の連絡のついでに「充分に気を付けろ」と付け加えられたときは何を言いたいのか解らなかった。「どうして? いつ? 何から? 何を? 何に?」と訊ねても、「危険が迫るとしたら先ず、お前だ」と要点が掴めない返事があるだけで電話が切られた。
 和穂には難しいことや詳しい事情は解らない。
 命令を遂行する事だけ……厳密には先桐に「良くやった」と褒めて貰えることが嬉しくて、与えられた命令を機械的に処理しているだけだ。
 その和穂が、知恵を絞って考えた結果は『先桐にも解らない何事』かが、もうすぐそこまで迫っているらしい、と、答えが出た。
 この答えの正答率には自信は無い。
 精々、H&K HK4を磨いて咄嗟に大量の弾薬を持ち出せる準備と心の用意をしておくことだと、鏡を見ながら軽い暗示を掛けた。


「チッ……」
 細いロッドケースを背負い、ルアーボックスを肩掛けにした青年は、思わず舌打ちした。
 右手に提げたクーラーボックスの中身は空だったが、それ以上に彼の心は空だった。
 彼が舌打ちしたのは、「早く片付けてくる。辺里さんと巾木が待っている」と達筆な字が硬筆習字用の鉛筆で書かれている紙切れが、自宅のアパートに投函されていたのを確認したからだ。
 巾木が討ち取られて3週間が経過していた。
 親同然に慕っていた辺里の亡骸が警察に『荒らされて』1週間が経過していた。
 噂では第一発見者は最終標的たる先桐豪らしい。
 きっと、『病で弱まった辺里さん』を始末するために訪れたのだろう。
 残念だが、辺里は『6ヶ月程前』からこの世には居ない。居るとすれば『飼い犬』である3人の心の中にだけ生きている。
 彼ら3人はホンの遊び心で、掌の上で弄ぶように先桐を始末するつもりだった。
 そのために、脅しとして先桐の私兵の代表である和穂を標的にしただけだ。
 破滅し、惨めに路頭で物乞う先桐を3人仲良く一斉に蜂の巣にして、『3人仲良く自分の頭を自分で吹き飛ばす積りだった』。
 その第一段階で、緒戦でしかない軽いジャブで作戦と願望は頓挫した。
「血を血で贖え」……とは、病の床で辺里が3人に語った戦訓だ。
 3人供好き勝手な生き方をしているようでも、実の家族より濃い契りで結ばれた家族だ。家族の仇を生き残った者が討ち果たすのは当たり前だ。
「好き勝手にして好き勝手に死にやがれ!」
 釣り道具一式を乱雑に部屋に放り出すと、引きっ放しの煎餅布団に大の字に寝転がる青年。
「……」
 無造作に寝転がった視線の先には以前、この部屋を訪れた『あの馬鹿』が忘れていったウイスキーの瓶が転がっていた。
 中身は底から3分の1程残っている。既に酸化が進んで、普通は呑めない。アルコールが入っていればガソリンでも呑みかねない『あの馬鹿』の事だ。事も無げに飲み干すに違いない。
「……」
 暫し、ギュッと目蓋を閉じるが……。
「あーっ! もうっ!」
 唐突に跳ね起きるとこれまた、片付いていない押入れから50cm四方のガンケースを取り出す。
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