風よりも速く討て

 その隙を見逃さず、和穂は弾倉に残った最後の1発をフラスコを咥えた男に向かって発砲する。
「チッ」
――――外れた!
 渾身の9mmは男の頭部を捉えることができなかった。男の左腕……肘の内側を破壊した。
 力無く、男の左腕は垂れ下がる。
 ランヤードリングに連結されたキャリコが膝の辺りまで、ぶら下がる。『太腿に鉛弾を受けても反応しないほど、薬物が回り始めた人間はそろそろ、五感が失われて来るはず』だと和穂は博打に出たのだ。
 グリップ底部のコンチネンタル型マガジンキャッチを押して左手の指に挟んだ弾倉を叩き込む。
 結果から言えば和穂の博打は当たりだ。
 男は、普通なら使い物にならなくなった左腕に構わず、残った右腕だけで1挺のキャリコを振り回す。
 強い意志や暗示や薬物で精神が強化、あるいは閉鎖されて居なければ使えなくなった四肢を確認するだけで普通の人間はパニックを起こすだろう。
 新陳代謝が瞬間的に遮断されるので、撃たれた直後に痛みを感じない場合は往々にしてあるが、自分が不具になった現実を、スイッチを切り替えたように受け入れられずに混乱するのが普通の人間だ。
 結果的に、敵の火力は半分に落ちた。
 キャリコの弾倉が空になったときが男の命の切れ目だ。
 片手ではキャリコの弾倉交換はかなり難しい。ましてや不具者の初心者である、あの男には無理な相談だろう。
「……不感症め」
 リップミラーに映るキャリコの男は顔を空に向けて咥えたままのフラスコの中身を一滴も零さず、呷る。銃口だけは此方を向いているので不用意に顔を出せない。
 2発の発砲音。
 9mmショートでも22口径でもない。38口径の回転式だ。
――――時間切れか。
 警察が到着したらしい。
 防弾チョッキを着た警察官が男の背後から半円を描くように距離を縮める。
「武器を捨てろ!」
 この場の指揮を任された警官がスピーカーで怒鳴るが、威嚇射撃に怖じ気る気配も見せないキャリコの男に、駆け付けた十数人の警官は一斉にジェラルミンの盾を立てて右腰に手を当てる。
――――チャンスかも?
 和穂はそっとH&K HK4をホルスターに戻し、突然、脱力してその場にうつ伏せに寝転がった。
 これで巻き添えを受けた被害者の出来上がり。和穂の近くに22口径の流れ弾を受けて絶命した通行人が2人居たので、その被害者面を利用させて貰ったのだ。
 全ての警察官の興味や注意がキャリコの男にしか注がれていないのを脱出するチャンスだと感じた。
 伏せながら和穂は心で吐き捨てた。
――――さあ、根性見せろ。地元警察!
 ほどなくして、キャリコが火を噴くが悪夢の様な22口径の弾幕は和穂にではなく、警官隊を襲った。その殆どはジェラルミンの盾に貼り付き、誰も被害を受けない。
「……」
 冷たいアスファルトに伏せたまま、22口径と38口径の応酬が繰り広げられる銃撃戦を聞いていた。
 何発もの38口径が質量のある肉に命中し、吹き出る血飛沫が地面に撒き散らされる非情な効果音が席巻する世界だった。
 大きな肉塊が崩れ落ち、フラスコだと思われる軽薄な金属音がヤケに大きく聞こえた。
 名前も知らぬキャリコの男はこうして、闖入者の手により始末された。
 和穂は改めて周りを見る。伏せたままで、頭髪の間から血を流す小柄で自分と同世代と思われる女に這いずって近寄り、脈を取る。生きている。意識を失っているだけだ。
 その女を出来るだけ難儀して肩に手を回した状態で千鳥足気味に、後方で待機していた警官隊や救急隊に向かって必死の形相を造って歩き出す。演技での泣き顔を忘れなかった。
 肩に手を回して担いだ、見知らぬ女が気を失っているのを利用して、この混乱する現場から脱出を試みた。
 このような場合は嵩張らない、複列弾倉の中型自動拳銃は隠蔽に向くので欺瞞工作が楽だった。
 野戦病院さながらの、テントを張っただけの急造応急処置施設に女を運び込むと、救命士にこの女性を助けて欲しいと懇願して、混雑する中、現場から離脱した。
 涙を流して啜り無く泣き顔の和穂を呼び止めようとする警官は居なかった。

 できるだけ裏路地伝いに普通の歩幅を維持し、この界隈で一番大きな通りに出る。そのまま、冬の雑踏に紛れ込み、人の波に飲み込まれた。

 寒い季節の、『肝が冷やされる10分間だった』。
  ※ ※ ※
「かずちゃん!」
「だから、落ち着いて!」
 先桐の長女で和穂より5歳年上の先桐貴澄(きすみ)との唐突な会話は早朝4時半から始まった。
 携帯電話での遣り取りだが、貴澄の声や口調が尋常でないので、ベッドから跳ね起きると、携帯電話をスピーカーホンにしたまま、着替えを始めた。
「父さんが帰らないの!」
「もっと状況を詳しく! 私も先桐さんの全てのスケジュールを把握しているわけじゃないの!」
 パジャマを脱ぎ捨て、寝室のクローゼットを漁る。
「『事務所』の人も解らないって……」
「いつから? いつから帰っていないの?」
 和穂とは対照的な道を歩いている貴澄だが、実際の所、先桐は和穂を『飼い犬』という範疇で扱うと言いながら、自分の娘の遊び相手に和穂と幼少の頃より面識を許していた。
 引っ込み思案で内気な性格の貴澄の遊び相手として相性が良かったのか、今でも電話や手紙で交流が有る。
 和穂が正式に組織に所属した時期に、表向きは先桐に「和穂と逢うな」と言い聞かされていたが、その禁を破って和穂と連絡を取り合っている貴澄だった。
 先桐もこの事実を認識していながら何も言わない。
 『外部』に交友を持たない和穂の唯一の『癒し所』である貴澄がこんな早朝に電話を寄越すとは相当な非常事態だ。
 先桐は今までにも、家族には内緒で和穂も引き連れずに独りで行動する事が有ったが、その時は、和穂は連れていないが和穂に連絡していることが常だった。それが今回は違う。
 恐慌に近い喋り方で、貴澄は先桐が『出社』した日の状況から現在までを事細かに説明する。パニックが近いのか、所々が、重複する文法だ。
「解った。解ったから落ち着いて! 私も今から組織の連中に当たってみるから」
「かずちゃん……大丈夫だよね?」
「うん。先桐さんは大丈夫よ!」
 言葉に根拠は無い。
 今は貴澄を少しでも落ち着かせる事が、今できることの中で最優先だ。
「先桐さんの手掛りが掴めたら『事務所』の方に連絡する。『事務所』もこの事は?」
「うん。知ってる……『事務所』の人も『色々としてくれている』みたい……」
「じゃあ、後で連絡する……それと、貴澄」
「……ん? 何?」
 一呼吸、吸い込んでから話題を切り替えるつもりで和穂は優しく言う。
「この間の……誕生日ケーキ、ありがとね」
「もうっ! こんな時に!」
 誕生日というものが無いと貴澄に話したのはいつのことだろう? 戸籍として登録する上での誕生日なら確認出来るが、出生した年月日その物は曖昧で定かではない。
 もしかしたら、和穂は未だ、煙草も吸えない年齢なのかも知れない。気にもしていない、何でもないことを軽く口にしたのを切っ掛けに、毎年、戸籍上の誕生日を祝ってくれているのは貴澄と……先桐だけだ。
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