風よりも速く討て
柳の枝……風に吹かれて緩やかに枝を靡かせるのに、どれだけ刀を横に薙いでもスルリと刃の横身を滑って切ることができない。
転じて、先が読めるゆったりとした動作なのに先手を打つことができない。
道を往く人間は自分たちの日常のすぐ隣に、非日常な危険が小石のように転がっているのに誰も気が付かない。
誰も皆、個人のストレスと戦う一般市民の顔で普通に道を歩く。
その中にあって、全くの『異物』が対峙する。
寒い季節の寒い昼下がりの出来事だ。
風下に立つ和穂の鼻をウイスキーのアルコール臭が擽る。男の匂い。男の呑む、酒の匂い。
……そして、硝煙の匂い。
マグネシウム粉と花火で用いる燐化火薬が混合したものに似る匂い。間違いなく、炸薬が燃焼して発する臭いだ。
和穂はこのときの数秒間、後悔することになる。
『なぜ引き金を引かなかったのか? それとも引けなかったのか?』
男がいつ、フラスコから拳銃に持ち替えるか、空いている左手がいつ、銃を抜き放つか……それを見届けなければならない義務は無いのに、『男がアクションを起こす寸前まで、睨み付ける以外に何も策を練らなかった』。
ゆっくりと、男はフラスコの飲み口を前歯で噛んで、固定すると、左右の手をそれぞれ、フィールドコートの左右の裾を目で追える速度で跳ねのけた。
「!」
そこまでは動体視力でカバー出来た。
だが、次の瞬間。
前に突き出した男の両手首が破裂したかのように見えた。
咄嗟に後頭部を地面に叩き付ける勢いで仰向けに寝転がり、側転しながら近くに駐車していた軽四自動車の陰に隠れる。
両手首が破裂したのではない。両手に銃を携えていたのだ。それも……この独特の発砲音。電気鋸が低速で唸るような銃声。
――――フルオート!
――――キャリコの22口径!
軽四自動車が万遍無く22口径の猛襲に晒される。フロントガラスが飴細工を砕くように叩き割られる。
排莢口から空薬莢が流れ落ちる軽い金属音が耳に届く。
男が両手で両脇からキャリコを抜いたとすれば、スイベルランヤードリング式のベルトに連結させている可能性が高い。
男の持つ得物であるキャリコM100の強みは100連発のヘリカルマガジンだが、同時に、弾倉が空になったときが狙い目でも有る。
両手でなければ弾倉交換は出来ないからだ。有効に弾幕を張ったとしても200発を撃ち終えた瞬間を狙えば勝機が有る……それまで、和穂が蜂の巣になっていなければの話だ。
SF映画の小道具を思わせるスタイルをしたデザインのキャリコM1000だが、近距離での有象無象を薙ぎ倒す火器としては実に有効だ。反動が軽く回転速度が速く、弾倉の位置の関係上、取り回しが簡単だ。
勿論、反面的な弱点も多い。1発辺りの停止力に劣り、弾倉の位置がグリップ上部に有るので直感で弾倉交換が出来ない。
それに撃てば撃つほど、弾倉の重心バランスが崩れて、指切り連射を心掛けなければ、途端に銃口が明後日の方向を向く。
ゆえに、セミオートモデルやボアアップモデルが開発されたが、それでも機構的弱点に泣かされるために人気のほどは芳しくない。
それは特徴的なヘリカルマガジンの給弾機構が洗練されておらず、しばしば、給弾不良を起こすのだ。
斬新な設計とデザインだから必ずしも商業成績も優秀だとは限らない。
そのお陰で、今ではキャリコと言えばコレクターアイテムの域を出ない珍品扱いだ。
新しい発想の設計。一時は公務機関に着目される。現在はマニア向け製品。
形は違えど和穂のH&K HK4と同じ道を歩いている銃だ。
「馬鹿っ! 私の馬鹿!」
和穂は寝そべりながらH&K HK4の安全装置を解除して撃鉄を起こした。
――――もっと早く撃てば!
――――『撃つ機会』なら幾らでも有ったのに!
左手の小指と薬指と中指の間に予備弾倉を挟む。その左手でリップミラーを突き出してキャリコの男を窺う。
「……」
――――チッ!
――――撃て! 撃て! もっと撃て!
今となってはキャリコの弾薬切れを待つしかない。
いくつの予備弾倉を持っているか予想も付かないが、100発の22ロングライフルを飲み込んだヘリカルマガジンは2kg近い重量がある。
そんな嵩張る弾倉を何本も携行しているとは考えられない。
「……」
今頃、和穂の耳に五月蝿い声が聞こえて来た。
往来を往く通行人が突然の銃火にパニックを起こして右往左往だ。通報されて警察に十重二十重に囲まれるのは時間の問題だ。
ここで死ぬ覚悟ができている『主を失った飼い犬』ではない和穂は、何が何でも生き延びなければならない。
自分がここで細切れにされるのは構わない。
自分の死骸から先桐が捜査線上に浮かび上がり、先桐が逮捕されることになるのは、どのような危険を冒してでも避けなければならない。
「……」
男は口に咥えたままのフラスコを顔を上げる事で、不精に中身を呷っていた。
男の位置は変わらず。逃げも隠れもしていない。和穂からの反撃を計算していない素振りで両手にキャリコM100をだらしなく提げている。
通報を受けた警察が駆け付けるまでにカタをつけなければ状況は限りなく『赤』だ。
――――膠着は拙い!
――――打って出るか!
深く考える暇もなく、軽四自動車の陰から転がり出ると、盲撃ちで牽制する。軽快な作動音と心地良い衝撃が掌に伝わる。空薬莢が1回、転ぶ度に1個のペースで排出される。
「!」
福音。
9mmが肉にめり込む鈍い音を聞いた。男の左太腿部に1発命中。それと同時に和穂は、道路の反対側に駐車してある自転車の大群の陰に隠れる。
――――やった! やった!
――――ザマー見ろだ!
リップミラーを突き出して確認する。
「!」
小さな鏡の中で男は顔色を変えずに、こちらに振り向き、発砲を開始した。
――――何で?
彼の放つ全ての22口径は、分厚い層を形成する自転車の不法駐車のお陰で全て遮られる。
リップミラーを唇の端に咥えながら、空になった弾倉を交換する。
――――何だ? 血糊パックを仕込んだ防具か?
引き金を引いてスライドをリリースする。
再びリップミラーで窺うも、緩慢な動作でこちらを向いて再び銃撃。相変わらずのふざけたフラスコの呷り方だ。
「?」
頭を素早く引っ込めてしばし逡巡。
――――血……だよね?
――――血糊パックじゃないよね?
――――どうして平気でいられるの?
男は足に根が生えたように動こうとしない。自分自身が固定銃座になり切っているような徹底振りだ。
「……拙い」
――――何か、ヤクをキメてるな。
動作が緩慢。痛覚を無視出来る。しっかりした自我を保てる。
確実に薬物で自身を麻痺させている。
DOXでは? と、脳裏に浮かぶが、DOXが完全にキマれば思考や選択から導いた優先度が曖昧になり、和穂よりも目障りな通行人を銃撃する。
それに立ち食い蕎麦屋からここに移動する間は、意識と思考能力と運動神経を完全に維持しなければならない。ライトな薬物で一時的に痛覚だけを麻痺させていると判断するのが妥当だ。
「……」
――――乗って来い!
和穂は突然、虚空、左右の雑居ビルの窓に向かって合計6発、撃つ。普通では意味の無い、発砲音だけの脅しだ。
だが。
「……」
男は突如として割れた雑居ビルの窓ガラスに向かって左右を碌に確認せずに両手大きく広げて、乱射する。
転じて、先が読めるゆったりとした動作なのに先手を打つことができない。
道を往く人間は自分たちの日常のすぐ隣に、非日常な危険が小石のように転がっているのに誰も気が付かない。
誰も皆、個人のストレスと戦う一般市民の顔で普通に道を歩く。
その中にあって、全くの『異物』が対峙する。
寒い季節の寒い昼下がりの出来事だ。
風下に立つ和穂の鼻をウイスキーのアルコール臭が擽る。男の匂い。男の呑む、酒の匂い。
……そして、硝煙の匂い。
マグネシウム粉と花火で用いる燐化火薬が混合したものに似る匂い。間違いなく、炸薬が燃焼して発する臭いだ。
和穂はこのときの数秒間、後悔することになる。
『なぜ引き金を引かなかったのか? それとも引けなかったのか?』
男がいつ、フラスコから拳銃に持ち替えるか、空いている左手がいつ、銃を抜き放つか……それを見届けなければならない義務は無いのに、『男がアクションを起こす寸前まで、睨み付ける以外に何も策を練らなかった』。
ゆっくりと、男はフラスコの飲み口を前歯で噛んで、固定すると、左右の手をそれぞれ、フィールドコートの左右の裾を目で追える速度で跳ねのけた。
「!」
そこまでは動体視力でカバー出来た。
だが、次の瞬間。
前に突き出した男の両手首が破裂したかのように見えた。
咄嗟に後頭部を地面に叩き付ける勢いで仰向けに寝転がり、側転しながら近くに駐車していた軽四自動車の陰に隠れる。
両手首が破裂したのではない。両手に銃を携えていたのだ。それも……この独特の発砲音。電気鋸が低速で唸るような銃声。
――――フルオート!
――――キャリコの22口径!
軽四自動車が万遍無く22口径の猛襲に晒される。フロントガラスが飴細工を砕くように叩き割られる。
排莢口から空薬莢が流れ落ちる軽い金属音が耳に届く。
男が両手で両脇からキャリコを抜いたとすれば、スイベルランヤードリング式のベルトに連結させている可能性が高い。
男の持つ得物であるキャリコM100の強みは100連発のヘリカルマガジンだが、同時に、弾倉が空になったときが狙い目でも有る。
両手でなければ弾倉交換は出来ないからだ。有効に弾幕を張ったとしても200発を撃ち終えた瞬間を狙えば勝機が有る……それまで、和穂が蜂の巣になっていなければの話だ。
SF映画の小道具を思わせるスタイルをしたデザインのキャリコM1000だが、近距離での有象無象を薙ぎ倒す火器としては実に有効だ。反動が軽く回転速度が速く、弾倉の位置の関係上、取り回しが簡単だ。
勿論、反面的な弱点も多い。1発辺りの停止力に劣り、弾倉の位置がグリップ上部に有るので直感で弾倉交換が出来ない。
それに撃てば撃つほど、弾倉の重心バランスが崩れて、指切り連射を心掛けなければ、途端に銃口が明後日の方向を向く。
ゆえに、セミオートモデルやボアアップモデルが開発されたが、それでも機構的弱点に泣かされるために人気のほどは芳しくない。
それは特徴的なヘリカルマガジンの給弾機構が洗練されておらず、しばしば、給弾不良を起こすのだ。
斬新な設計とデザインだから必ずしも商業成績も優秀だとは限らない。
そのお陰で、今ではキャリコと言えばコレクターアイテムの域を出ない珍品扱いだ。
新しい発想の設計。一時は公務機関に着目される。現在はマニア向け製品。
形は違えど和穂のH&K HK4と同じ道を歩いている銃だ。
「馬鹿っ! 私の馬鹿!」
和穂は寝そべりながらH&K HK4の安全装置を解除して撃鉄を起こした。
――――もっと早く撃てば!
――――『撃つ機会』なら幾らでも有ったのに!
左手の小指と薬指と中指の間に予備弾倉を挟む。その左手でリップミラーを突き出してキャリコの男を窺う。
「……」
――――チッ!
――――撃て! 撃て! もっと撃て!
今となってはキャリコの弾薬切れを待つしかない。
いくつの予備弾倉を持っているか予想も付かないが、100発の22ロングライフルを飲み込んだヘリカルマガジンは2kg近い重量がある。
そんな嵩張る弾倉を何本も携行しているとは考えられない。
「……」
今頃、和穂の耳に五月蝿い声が聞こえて来た。
往来を往く通行人が突然の銃火にパニックを起こして右往左往だ。通報されて警察に十重二十重に囲まれるのは時間の問題だ。
ここで死ぬ覚悟ができている『主を失った飼い犬』ではない和穂は、何が何でも生き延びなければならない。
自分がここで細切れにされるのは構わない。
自分の死骸から先桐が捜査線上に浮かび上がり、先桐が逮捕されることになるのは、どのような危険を冒してでも避けなければならない。
「……」
男は口に咥えたままのフラスコを顔を上げる事で、不精に中身を呷っていた。
男の位置は変わらず。逃げも隠れもしていない。和穂からの反撃を計算していない素振りで両手にキャリコM100をだらしなく提げている。
通報を受けた警察が駆け付けるまでにカタをつけなければ状況は限りなく『赤』だ。
――――膠着は拙い!
――――打って出るか!
深く考える暇もなく、軽四自動車の陰から転がり出ると、盲撃ちで牽制する。軽快な作動音と心地良い衝撃が掌に伝わる。空薬莢が1回、転ぶ度に1個のペースで排出される。
「!」
福音。
9mmが肉にめり込む鈍い音を聞いた。男の左太腿部に1発命中。それと同時に和穂は、道路の反対側に駐車してある自転車の大群の陰に隠れる。
――――やった! やった!
――――ザマー見ろだ!
リップミラーを突き出して確認する。
「!」
小さな鏡の中で男は顔色を変えずに、こちらに振り向き、発砲を開始した。
――――何で?
彼の放つ全ての22口径は、分厚い層を形成する自転車の不法駐車のお陰で全て遮られる。
リップミラーを唇の端に咥えながら、空になった弾倉を交換する。
――――何だ? 血糊パックを仕込んだ防具か?
引き金を引いてスライドをリリースする。
再びリップミラーで窺うも、緩慢な動作でこちらを向いて再び銃撃。相変わらずのふざけたフラスコの呷り方だ。
「?」
頭を素早く引っ込めてしばし逡巡。
――――血……だよね?
――――血糊パックじゃないよね?
――――どうして平気でいられるの?
男は足に根が生えたように動こうとしない。自分自身が固定銃座になり切っているような徹底振りだ。
「……拙い」
――――何か、ヤクをキメてるな。
動作が緩慢。痛覚を無視出来る。しっかりした自我を保てる。
確実に薬物で自身を麻痺させている。
DOXでは? と、脳裏に浮かぶが、DOXが完全にキマれば思考や選択から導いた優先度が曖昧になり、和穂よりも目障りな通行人を銃撃する。
それに立ち食い蕎麦屋からここに移動する間は、意識と思考能力と運動神経を完全に維持しなければならない。ライトな薬物で一時的に痛覚だけを麻痺させていると判断するのが妥当だ。
「……」
――――乗って来い!
和穂は突然、虚空、左右の雑居ビルの窓に向かって合計6発、撃つ。普通では意味の無い、発砲音だけの脅しだ。
だが。
「……」
男は突如として割れた雑居ビルの窓ガラスに向かって左右を碌に確認せずに両手大きく広げて、乱射する。
