風よりも速く討て

「馬鹿野郎! 馬鹿野郎! どいつもこいつも馬鹿ばっかだ!」
 青年は大粒の涙をポロポロと落としながら、クローゼットを開けて服を着替え始めた。
   ※ ※ ※
「辺里?」
「ああ。辺里だ」
 相変わらずのスリーピースに革コート姿の先桐がカウンターで月見蕎麦を啜りながら答える。
 和穂はダウンジャケットにジーンズパンツ姿で天ぷら蕎麦を食べる手を止めた。
 駅前区画から外れにある立ち食い蕎麦屋でのこと。
 狭苦しく小汚い店で、火加減を小まめに窺う、60代後半と思われる店主は右半面に縦一文字の大きな刀傷の痕がある。
 店内の時計は午後1時を5分ほど経過した辺りを指していた。
「俺が発見した変死体はDNA鑑定で辺里だと判明した。いつか話した……俺が結果的に、密告して蹴落とした元組織者だ」
「辺里……ですか……」
「『飼い犬』が何かしらの命令を受けているのは確実だ。それの最終標的は俺だろう。だが、辺里の性格からすれば『俺を同じ目に遭わせることで復讐を終えるつもり』だ」
「あー。詰まり……『犬』は無闇に暴走していない、と?」
「そうだ。馬鹿正直に真正面から向かってくるかも知れないと見せかけて……背後でハジキの先をこちらに向けているかも知れない。家のドアノブを捻った瞬間に『仕込み』が弾けるかも知れない……歯痒いが、組織の立場上、お前に警護を付けてやることができない。『飼い犬に警護を付けるとあっては本末転倒だ』」
「……『それで良いです。先桐さんの弾避けになるために戦えるのなら幸せです』」
 迷いも無く、先桐のために命を捨てられる若者を育ててしまったことに対して、「盲目な信仰しか教えてこなかった自分が怨めしい」と何度、呟いたか知れない。
 呟けば呟くほど、考えれば考えるほど、和穂は不憫だ。
 和穂にとってはそれこそが唯一の存在理由なのだ。
 今の和穂から必要とされる理由自体を強く否定してしまう言動は……特に、この大きな鉄火場を控えた今では和穂の心を揺り動かす、影響の強い言動は慎むべきだ。
 ただでさえ和穂が標的になっている可能性が高いのに、彼女のツキを落とす真似は『親として慎むべきだ』。
「!」
「……」
 二人は同時に箸をカウンターに叩き付けるように置いた。
「……」
「……」
 無言。
 二人供、顔に緊張の色が走っている。互いに顔を和さずに言う。
「先桐さん。『コレ』……」
「ああ。やべぇな……」
 立ち食い蕎麦屋の店主はガス栓を締めて裏口へ通じるベニヤ板のドアを開け放った。店主の顎先が無言で、このドアから逃げろと命令している。
「和穂。必ず付いて来い」
「『それまで、引き付けておきます』」
 先桐はカウンターに月見蕎麦と天ぷら蕎麦の代金を置くと店主が指示する裏口へ向かう。
 その間に和穂はH&K HK4を抜き、スライドを引く。先桐を警護する事態に陥った場合に備えて、多少の銃撃戦が延びても踏み止まれるようにいつもより多量の弾薬を携行している。
――――この殺気……只者じゃないね。
 裸の背中に直接、銃口を押し付けられる感触。
 気配という曖昧な物質が質量を得たかのように和穂の全身にまとわりつく。
 立ち食い蕎麦屋の店主は別段慌てる様子も無く、閉店時間でも迎えたように、煤汚れた白いエプロンを脱いで壁に掛ける。更に休憩用の椅子に座って煙草に火を点ける余裕だ。
「……なぁ、姉ちゃん。若いのに肝が据わってるなぁ」
 店主はスポーツ新聞を広げて和穂に喋り掛ける。これから起きる出来事に関しては自分だけは一切、被害を蒙らないという自信。
「お陰様でね」
 顔を少しばかり引きつらせて答えるのがやっとだった。
 刹那、和穂はカウンターをひらりと飛び越えて調理台の裏側へ回ると身を伏せた。
 それが完了すると同時に立ち食い蕎麦屋の表戸が横殴りの土砂降りに叩かれたように激しく揺れる。
 ガラスは脆く破片を撒き散らし、店内の壁面全てがスプレーを撒かれるように銃弾で蜂の巣を拵える。
――――短機関銃!
――――口径は小さい!
――――こんな昼間から……どんな馬鹿だよ!
 サプレッサーも装着していない短機関銃と思われる銃撃。
 立ち食い蕎麦屋の向かいの歩道から大胆な襲撃だ。
 頭を抱えて伏せていたので襲撃者の姿は確認出来ないが、大多数というわけではない。
 ほんの少しだけ耳に届いた銃撃パターンや繋がる空薬莢の転がる音を聞いた限りでは、一人二人での襲撃だと思われた。
 すっかり風通しが良くなった立ち食い蕎麦屋のカウンターからリップミラーを潜望鏡のように飛び出させて店の外を窺う。襲撃者らしい姿は確認できない。
「なあ、おじさん、『誰か見てないかい?』」
「さあ。知らんね。俺は新聞を読んでいただけだ」
 咥えている煙草の火種を銃弾で吹き飛ばされたというのに店主は顔色一つ変えずに悠々とスポーツ新聞を読んでいる。
 僅か20秒ほどの弾幕の洗礼だった。
 店内のあらゆる箇所に被弾孔を作っているのに、不思議と上半身を晒している店主には1発も被弾していない。
「俺は何も見てないね。裏口から3m先の角を左に曲がって裏路地に出る若い女の姿なんて見ていないね」
「ありがとっ」
 和穂は伏せながらベニヤ板だけのドアを通り抜け、細い裏道の先にある辻を左に折れ、雑居ビルが林立する裏路地に走り出た。ここでは表通りに面した立ち食い蕎麦屋の災難な銃声は届いていないらしく、通行人が平穏に歩いているだけだった。
 咄嗟にH&K HK4の安全装置を掛けて左脇に仕舞う。
 あの、立ち食い蕎麦屋の店主もそれなりに修羅場を潜ってきた人物なのだろう。簡単に和穂や先桐を警察に売る真似はしないだろう。先桐が馴染みにしている店の一つなので取り敢えずは安心だ。
「……」
 携帯電話で先桐の無事を確認する。先桐は既に迎えに来させた組織の車に乗り込んでいると言う。
 このまま、この通りを徒歩で過ぎようと歩みを進める。
 その爪先も段々とペースが落ちる。
「……」
――――おかしい
 不自然な男が不自然な位置で立ち竦んでいる。
 この雑居ビルが立ち並ぶ、普通自動車1台半程度の道幅しか無い道路の真ん中で……往来する無関係な人間が何事もなく歩いている空間で、その男は立っていた。
「……」
 男は灰色のフィールドコートの左脇に右手をゆっくり差し込む。
「!」
 和穂も左脇に右手を男よりもずっと早く滑り込ませる。
「……!」
 男は左内ポケットからシルバーのフラスコを取り出しただけだった。道路の真ん中で、芝居掛かった仕草でフラスコの中身を呷る。
 和穂は男の挙動を何一つ見逃すまいと、立ち止まって眼光を尖らせる。
 昼下がりの往来に立ち止まる二人。
 約30mの距離を置いて心理的に膠着させられる和穂。
 ジャンパーの左脇で握っているグリップが汗でベトつく感触を覚える。
 先に抜いたとして必ず勝てるという自信が無い。DOXで頭の中枢がやられた『パペット』ではない。的確に身体的急所に9mmを叩き込めば今直ぐにカタは着くだろう。
 それは、『タマが当たればの話だが』。
 幽鬼のように立つその男は何度かフラスコを呷ったが、若しもその手に握られているのが拳銃なら、それと同じ回数だけ和穂は死んでいる計算になる。……そう感じさせるのに十分な危険な雰囲気を漂わせていた。
――――コイツ……出来る!
 柳の枝を連想する和穂。
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