風よりも速く討て

 オレンジがかったブラウンに染めた、ショートのクールボブが風に揺れる。
 小さく整った唇に咥えた煙草の煙も風に掻き消される。
 御鹿園和穂(みかぞの かずほ)は寒空の下、オープンカフェで眠そうに瞳を閉じた。
 作業着を連想させる濃紺のブルゾンにタイガーストライプのカーゴパンツ姿の彼女は誰もが振り返るほどの魅惑を湛えてはいない。
 何処にでも居る、少しばかり容姿が端麗な二十歳の女性でしかない。
 身長165cmの体躯は素晴らしいボディラインに恵まれてはいたが、ここのところ、彼女の性的対象に曝け出す機会は無かった。
 活動的な衣服と、それのイメージを崩さないネコ科の獣を擬人化させたような美貌も、雑踏が眺められる昼下がりの街角ではその他大勢の一般人でしかない。
 尤も、彼女にとっては必要以上に人目を惹く衣装やメイクは仕事の邪魔だった。
 彼女の仕事は、所属する組織の尻拭き係。
 この界隈を仕切る暴力団の飼い犬だ。
 具体的な仕事内容は、重要機密や武器、麻薬、貴金属を奪った挙句に足抜けを試みている組織の人間を探し出して抹殺すること。
 それに……薬物中毒や背任行為で組織の看板に泥を塗る人間も抹殺の範疇だ。
 二昔前のエンジェルダストをベースに改良したDOX(ドックス)なる麻薬が組織の主力商品だが、これは揶揄的に『ゾンビ製造機』とも呼ばれている。
 副交感神経と脳髄に直接作用する成分を含んでいるために、アルコールの酩酊に似た作用が得られる。
 問題は副作用だ。使用者は正体を無くし、幻覚、幻聴と破壊衝動に駆られる。例えば、『他者が自身を殺そうと攻撃している』と思い込んだDOX中毒患者は手当たり次第に殴り掛かる。捕縛のために鈍器などで直接打撃を与えても痛覚が麻痺しているために効果は薄い。関節技や絞め技でさえ、極められている箇所の激痛や束縛を無意識に脳が神経を遮断して負荷を切り離すことができる。心臓に銃弾が命中したとしても、生命がこと切れる瞬間まで、活動を止めない。
 手っ取り早いDOX中毒患者の始末方法は頭蓋を破壊し、運動神経を司る小脳を破壊することだ。
 組織では、このDOXを売り捌くことを奨励しているが、組織の人間が実際に使用することは一切厳禁としている。
 中毒性や常習性が高く、組織の人材が薬物で朽ちていくことを防ぐのが目的だからだ。
 最も危険だが最も快楽の深い合成麻薬。それがDOXだ。
 所属する組織内部のDOⅩ中毒患者を始末するのも仕事である。
 麻薬絡みの別件逮捕で公安と一悶着起こすのを防ぐための安全装置だ。
 見境なしに暴れる、ゾンビと形容される中毒患者や、生き延びるのに形振り構わない足抜け者を追い回し、片付ける……因果な商売だが、幼少の頃に組織の重鎮に引き取られて以来、このときのために育てられて飼い馴らされてきた彼女に抵抗は無い。
 『全ては組織のために』。
 彼女の仕事に対する報酬はしばしの安息。
 現金が渡されることは当たり前だが、有効な使い方が解らない。
 和穂自身が誇れるものは暗殺を主体とする人体破壊術と『処世術を使っている人間を見極めること』だ。
 世の中の渡り方や世間の波に乗るのが巧い人間には必ず二心が有る……そう、教えられてきた。
 実際にそうだった。殊に暴力団という反社会的集団の中では属する派閥いかんで成功も破滅も、匙一つの分量で決まってしまうので誰しもが慎重だ。
 『大胆にして繊細』をモットーにする旧い種族は残念ながら、天然記念物だ。『武闘派だが日和見主義』が大多数である。
 それでも和穂にネガティブなグラデーションは無い。
 組織のために今、ここで死ねと言われれば、『どのような死に方をすれば良いですか?』と聞き返すだろう。
 組織の歯車として長く組み込まれてきたがゆえの日常的な思考だった。
 言い方を変えれば、都合のいい操り人形であったために今の自分が存在している、という感謝の念に似た感情すら覚えている。
 煙草とコーヒーの味が分かるのも実働部隊のイエスマンだったからこそだ。
 飼い主の手を噛んで無残な最期を遂げた仲間もたくさんいる。
 今はたまたま、飼い主の手を噛む理由が見当たらないだけなのかも知れない。
 興味本位で吠え立ててみようかと思った時期もあったが、残念なことに吠え立てる理由が見付からなかった。

「……!」
 いつの間にか咥え煙草のまま、眠りこけていたらしい。
 懐で携帯電話の着信メロディが心地良い世界から、有り難迷惑にもサルベージしてくれる。
 携帯電話を手早く取る。急ぎの連絡というわけではないが、着信メロディに殺意を覚えそうなので早く耳障りな電子音を消したかっただけだ。
「はい。御鹿園です」
 和穂は幼い頃に与えられた便宜上の苗字を口に出して応対した。
「解りました。今から向かいます」
 一方的で簡素な命令を受けると、携帯電話を左内ポケットに仕舞い、さり気無く左脇を探る。
 安心できる感触が掌に伝わる。
 一体どれだけの生命の灯火を吹き消してきたのか解らない、永い相棒だ。
「……」
 口に咥えていた煙草が地面で無造作に転がっている。フィルターが焼けるほどに短くなった吸殻を拾い、テーブルの上に有る灰皿に捨てる。
 左手首に視線を向ける。スイス製の自動巻きミリタリーウォッチが午後3時を告げていた。
 今し方、拝命した内容は内通者の始末。
 居場所しか知らされていない。いつまでに始末しろとは聞かされていない。これは即ち、できる限り速やかに行動に移せという『いつもの命令』だ。
 空を見上げると、冬の模様が広がっていた。鉛色の厚い雲が頭を覆うように流れている。後、2時間半もすれば完全に太陽は落ちる。これからの仕事を完遂するには上々のロケーションが期待できそうだ。
 
 港湾部の外れに有る波止場の倉庫街。
 若い女性を販売ターゲットにした軽四自動車で駆けつける。ライムグリーンの丸みを帯びた中古車だが、いつ乗り捨てても足がつかないように偽装ナンバーと登記上の細工が施されている。
 軽四車から降りる前に濃紺のブルゾンのジッパーを下ろし、左脇に右手を滑り込ませる。
 システムショルダーホルスターから中型自動拳銃を抜く。
 H&K HK4。
 6歳の頃に初めて握った拳銃だが、未だにこれを使っている。
 当時はバレルキットを25ACPに換装して使っていたが、現在では9mmショートに換装して使っている。
 H&K HK4……モーゼルHScに似た外観で内部構造もそれのデッドコピーかと勘違いするほどにそっくりで、発売当初は何故H&K社がモーゼルHScのアウトラインを拝借したのか不明だと囁かれた。 この拳銃の最大の特色は銃身とリコイルスプリングを交換する事に拠って22ロングライフル、25ACP、32ACP、9mmショートを使用することができる点だ。
 1968年~70年代後半まで製造販売され、主に西ドイツ国内の治安機関で使用された。
 西ドイツ軍でも一部の将校が護身用に使用していたという報告が有る。
 銃身付近の交換で異なった口径が撃てる拳銃は斬新だったが、反面、これが原因で早く廃れたという説も有る。
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