鏡に映る翳

 精密なシューティング用サイトではないのであまり神経を注ぐことはしなくてもいいが、しばらく手元を離れていた銃に『何も無い』ということが一番怖かった。
 どこでどんな風にコンディションが崩れているのか解らないからだ。
 簡素な凹型ノッチのリアサイトに大きな変化が無いのが恐ろしい。目に見えて解る異変なら根底から解決すればことは済むが、人間の感覚では測ることのできない小さな異変なら手の施しようがない。
 だから、5クリックほど、わざと大きくずらしてから微調整している。
 尚、1クリックの調節角度はリアサイトの固定兼調節ネジを約5.6度傾けることを意味する。
 本来ならジャイロ式レーザー測定器で量りながら調節するのだが、精密射撃を旨としない使用方法なのでそこまでの機器は必要でない。
「!」
 恐らく最後の一発だと思った残弾が撃発不良を起こした。
 遅延発射の恐れがあるので心の中でゆっくり10を数えてから銃口を地面に向ける。
 更に10、数える。
 それからゆっくり弾倉を抜く。予想通り、弾倉は空だ。
 パラオーディナンスP-12を右真横に倒してスライドをゆっくり引く。
 外見上、異常が見られない――何も起きないということが一番恐ろしい――実包が掻き出され、地面の下生えに落ちる。
 打撃不良と撃芯の異常を疑ったので不発の実包にハンカチを被せて摘む。
「?」
 軽い。
 実包の重心バランスもおかしい。
 雷管には叩かれた跡が2箇所有る。
 軽く振るが、内部の炸薬がブランクを移動する感触も伝わってこない。工場で作られるファクトリーロードは必ずしも薬莢内が撃発用炸薬で満杯というわけではない。必ず、ブランクと呼ばれる空間ができるように炸薬が調節されているのだ。
 マルチツールのプライヤーで弾頭を外す。
「!」
 小型のボタン電池1個と複数のIC回路が重ねられた指先より小さな電子機器が零れ落ちた。
 ダミーカートに何らかの電子ギミックが仕込まれていた。それが発信機の類であることが即座に解った。
――――!
――――まさか!
――――『脱出させられた』のか!
 素早く、数少ない予備弾倉を叩き込んでスライドを引く。
 辺りに視線と銃口を走らせて警戒する。
 人気のない山中では自分を狙撃してくださいとか、襲撃してくださいと大声で言っているのと同じだ。
 右手にパラオーディナンスP-12を構えたまま、左手で持参した工具類を慌しくバッグに詰め込む。
――――誰が?
――――何故?
――――解んない!


「あ。源治さん? 奴さん、気が付いたみたいですよ」
「……そうか……意外におっとり屋なんだな」
 公子があたふたしている様を350m離れた位置からスポッティングスコープを覗きながら、源治の舎弟である青年が無線機を片手にレシーバー越しに喋り出した。
 レティクルに浮かぶ公子は恐慌を露に木立を矢鱈に盾にしながらジグザグに走り去ろうとしている。
 高精度で広視界のライフルシューティングマッチ用スポッティングスコープの前ではどんなに走り回ろうと、ホンの少し、クリップを動かすだけで全てが手に取るように確認できる。
「どうします? まだ観測しますか? そろそろ借りた兵隊も抑えが利かなくなっていますよ……何人かぶつけますか?」
「否。今日は引き上げろ。あいつの尻に『やっと火が点いたんだ』……こんなに大人しいカチコミ屋だったとはな」
「ガッカリしましたか?」
「……中々、可愛い女だな」
 
 
 こけつまろびつ。
 気が気でない心を電車やバスの中で必死に抑えて帰宅する。
 玄関で靴も脱がずに現金と預金通帳とヤミ通帳を掻き集めて、身の回りの物一式をボストンバッグに詰め込む。
 逃げ込むあてはある。万が一に備えて毎月賃貸料を払っていたワンルームマンションだ。素直に直行したのではまたも、尻尾を掴まれてしまう。
 一晩中、市内を歩き回る。
 背中にもう一つ目玉が欲しい。
 敵意だけを感知する器官が欲しい。
 突堤の根元で夜鳴きラーメンを啜り、郊外付近の開発地区で土木資材の間で手巻き煙草を吹かす。さもそこが彼女の潜伏に相応しい場所であるという印象を植え付けるために偽装と移動を繰り返した。
 隣町の繁華街まで足を伸ばして流通業者に繋ぎを取り、在庫分の45口径とパラオーディナンスP-12で使える弾倉を掻き集めた。
 45口径でパラオーディナンスシリーズならP-13、P-14といったバリエーション違いの弾倉も掻き集める。
 文字通りの地下銀行から引き出した現金で一括払いするが、突然の来客に流通業者の倉庫にも充分なストックは無かった。
 今更、シングルカアラムのナインティーンイレブンや9mm口径のダブルカアラムは使う気になれない。
 次の日の午前中。人通りの多い中、万が一のセーフハウスとして確保していたワンルームマンションに滑り込む。
 近隣との付き合いが一等希薄なワンルームマンションで、眠気と戦いながら空気の入れ替えをする。全ての蛇口を開放し古い水を押し流す。コンセント類を差し込み、生活に必要な最低限の家電製品の状態を確認する。
 ベッドなど無い。封筒型の大型寝袋と簡易マットが有るだけだ。元から長居するための部屋では無いので食料も保存食しか無い。
 実際にこの部屋を使うときがくるとすればそれは、自身がどうしようもない危機に陥っているときだと覚悟していたが、見事に予想通りの使い方をするとは思わなかった。
 万が一の保険は掛けておくべき物だ。
 尤も、ここも完全に安全とは言い難い。
 少し、自分の置かれた状況を整理してみた。
 公子が誰かの何かしらの計画通りに陵辱の部屋から脱出させられた事は確実だ。
 その証拠に偶然取り返したかのように見せかけたパラオーディナンスP-12に公子の足取りを掴むために発信機を仕込んでいる。敵組織の内部にごく個人的に公子に『お近付き』になりたがっている奴が居るらしい。消去法と帰演法を交互に繰り返す。
――――!
――――あの男か!
 源治とかいう一風変わった切れ者が居た。

 
「ああ、それと……生きてここから抜け出せたら今度は特定の組織を敵に回す事になる……って言うのは理解しているな?」



 確かにあのとき、陵辱漬けになる寸前にあの男は不可解な言葉を残した。
 敵組織も少なからず一枚岩ではないらしい。
 源治が何を以って公子を生かして脱出させたのかが全く不明。
 返して言えば、何故そのような獅子身中の虫のスタンスを保ってまで公子を追いかけるのかが不明。
 源治の言葉を噛み砕けば、特定の組織を敵に回す……というより、源治自身が追跡するのでそのときは宜しく。と、言っているようにも聞こえる。
 ではなぜ、源治が公子の命を狙うのか。それも丸腰の公子を始末せず、態々『土産』を持たせて逃がしてまで、命を狙うのか?



「源治さん。すいやせん……見失いました。この辺のシマで隠れてるのは解るんですが、やっぱり、俺一人じゃ駄目ッス……兵隊を貸して下さい」
「手前ぇ、一人で探せ。ガサ専門の情報屋に当たれ。兵隊はもう少し温存しておく」
「……解りやした」


 そんな遣り取りなど、神ならぬ公子に解ろうはずもない。
 公子は実に数年振りにパラオーディナンスP-12を抱いて寝袋に潜り込んだ。
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