鏡に映る翳

 青年はポケットから取り出した使い捨てライターで火を点ける。
「そう言い続けてお前は何年俺について来ている?」
「あーもー。敵わねぇッスねぇ」
「また、頼むわ」
「……それより……あの、逃がした女はこれからウチの組を敵に回しますよ?」
 源治は少し唇を歪めたが、直ぐに笑いを含んだ声で言った。
「そうなれば、だ……俺があの女の責任を取らなくちゃな」
 青年は板張りの床に短くなったセブンスターを押し付けてまた、溜息を吐いた。
「……俺は今でも源治さんがどうしてそこまでして、ドンパチする理由を欲しがるのか解りませんね」
「ああ。俺も解っちゃいけない……だけどな。銃を握ればどんな商売でも……どこへ逃げても生きるか死ぬかしか道は無いんだ。だから『充実した生活』を送るタネが欲しい。どうだ? 『理解できない』だろう?」
   ※ ※ ※
 盗難車を何台も乗り換え、見慣れぬ町並みと道路を彷徨い空腹と眠気を堪えて自宅に辿り着いたのは二日後のことだった。
 県境の保養地で拉致されていたと、記憶を思い返して判断できたのは、呆れたことに冷蔵庫の缶詰類を胃袋に流し込んでいたときだった。
 それまで、道路標識と電柱の所在地だけを頼りに朦朧とする意識で這う這うの体で帰ってきたために一部の記憶が曖昧なのだ。
 所持品を改めて見直した時にスライドが後退したままのマカロフが何故、手中に有ったのか覚えていない。
 グリップエンドの剣呑なスパイクがアクセントのパラオーディナンスP-12と再開できた喜びが大きいが、これですらどんな状況で取り戻したのか定かでは無い。
 今は空腹と疲労を解決することだけを考える。
 缶詰や干乾びた食パンをミネラルウオーターで胃袋に流し込む。
 狭い浴槽に身を沈めて急激に襲い来る眠気を堪えて垢を落とす。
 敷き布団を敷いたと同時に、倒れ込むようにうつ伏せになり、その侭、鼾とも大きな寝息とも区別が付かない呼吸で深く眠る。
 枕元にパラオーディナンスP-12を置いているが、碌に弾倉も確認していない。何発の実包が装填されているのかも知らない。
 今は眠る。
 敵勢力のいかんは一切、脳裏に無い。
 銃撃の最中にくれてやる命は持ち合わせているが、輪姦の末に無抵抗に始末される命を持った覚えは無い。
 久方に感じる、生きたいという欲求。死にたくないという願望。
 人間の本質が持つ三大欲求のいずれかが昇華されれば、現世での拘りに変換されるのを体を以って覚えた。
 結局、自身は表層だけの自殺志願者で、状況が揃わないと死ぬ気が失せている矮小な人間であると思い知らされる。
 人間を殺傷するのに適した機能を持つ拳銃を携えても、死んでも構わないと自分に嘯いても、厭世に浸り果敢無んで嘆くことを放棄しても、尚、ヒエラルキーの底辺を這いずり回る歯車の一つである自分を再確認する。

 形容し難い夢を見た感触は有るが目覚めて3秒で夢を見ていた事実も忘れる。
 重い体を引き摺って再び浴室に入り、寝汗を流す。
 何時間眠ったのか? と、時計を確認するが、自分が何時に眠ったのか覚えていないので参考にならない。正に泥のように眠っていたらしい。
 郵便受けに溜まった新聞の日付を見る。数えて1週間、帰宅していないらしい。陵辱の日々も長いのか短いのか微妙な日数だ。
 箪笥の抽斗から新しいアナログミリタリーウォッチを取り出して、自動巻きのゼンマイを巻き上げてから時間を調整する。
 その段階で、今の時間が午後4時だと判明する。どうりで太陽の位置や喧騒の具合も公子の時間感覚を刺激していなかったわけだ。
 久し振りに米を炊き味噌汁を作る。
 解凍した牛バラ肉とレバーと豚トロをフライパンで炒めて黒胡椒と粗塩で味付けする。
 腐らずに残っていた大根と人参で不揃いなベジタブルスティックを作る。
 後は2合の米が空になるまで、合計1.5kgの焼肉を平らげるまで、一心不乱に胃袋に詰め込む。
 自分の胃袋にこれだけのキャパシティが有ったとは信じられない……そんな顔で後片付けをする。
 生まれて初めてこれだけの健啖を発揮したのだから、途端に血糖値が上がり酷い眠気を覚えて気絶するように眠り、3時間後に猛烈な腹痛と吐き気を覚えて飛び起きて悶える。
「……」
 胃腸の氾濫が治まったのは午後10時近かった。
 胃液と整腸剤が混じった不快なものがしばらくこみあげてくる。
 思い出したようにキャプテンブラック・ゴールドの手巻き煙草を作って咥える。愛用にして唯一のライターを無くしているので仕方無しに、ティッシュペーパーで紙縒りを作ってそれをガスレンジの炎で焼き、火種を作る。それを手巻き煙草に火を移す。
 これまた久し振りのニコチンが口内の粘膜から摂取されて急速に身体を駆け巡る。食べ過ぎとは違った吐き気が湧いてくる。脳天が痺れて目眩を覚える。奇妙なことに喫煙による安息だけはしっかりと覚える。
 陵辱の日々がふと脳裏を掠めて、臍下に掌を当てる。
――――あー。面倒臭ぇ。
 確実にくだらない人間と受精している。
 立ち代り入れ替わりに、子宮がふやけるかと思われるほどに精子を注ぎ込んでいた。受精していると考えるのが普通だろう。
 父親は人間の屑でも授かったであろう生命は無辜で無垢だ。
 とはいえ、どんなに奇麗ごとを並べても理不尽に発生した生命には早々に辞退願う……そう決めた。時期が来れば迷わず堕胎する。緊急避妊薬が効果的な期間はとうに過ぎている。
――――今はハラの事よりテッポーのタマとハコを買うことを考えよう。
――――あの源治とかいう男の言う通りなら近い内にドンパチが始まる
 パラオーディナンスP-12に手を伸ばす。
 弾倉を抜いて実包を確認する。弾倉には11発。これを取り戻す切っ掛けになった暴発以来に発砲は無い。薬室の1発だけが暴発したらしい。
 パラオーディナンスP-12を取り返せたのは奇跡だ。
 同モデルは贔屓にしている流通業者を通せば手に入るが、スパイクやマズルガードやリングハンマーはまた別の業者にオーダーして取り寄せなければならない。カスタム同然のオプションパーツは交換パーツほど簡単に入手できない。
――――あー。面倒臭ぇ。
 銀行の残高が気になる。手元の弾薬は弾倉と同じく殆ど使い切った。流石に上手く空弾倉までは回収できない。ヒップバッグ一杯分の予備弾倉が実に惜しい。
 何もかも明日に回して布団に倒れ込むと再び寝息を立てる。
 

「源治さん。仕掛けますか?」
 公子にマカロフで撃たれた被害者を演じた青年は携帯電話で源治と通話していた。
 公子のアパートの前で軽四車を停めている。
「否、しばらく養生させてやれ。俺は普通にあいつとタイマンを張りたいんだ」
「でも、オヤジさんから兵隊を借りてますよ」
「だから、兵隊どもには見当違いの方向を当たらせているだろう」
「発信機が無かったら俺だって苦労してるところです!」
 

 4日後。
 電車とバスを乗り継ぎ、県境の山中にやってくる。
 目的はパラオーディナンスP-12のサイティング。
 暴発させて以来、一度も発砲していない。
 ダミーカートの雷管を叩かせて、発砲以外では確実に作動する事は確認した。実際のガスオペレーションと拉致されていた建物内で床に落とした際にサイトがずれたか否かは確認していない。
 それらを確認、微調整するために人気のない山中まで足を運んだのだ。
 簡素なリアサイトを覗いて呼吸を鎮めて発砲する。そのたびに左手に握った精密ドライバーで1クリックずつ調節していく。
7/12ページ
スキ