鏡に映る翳
「……」
そのまま壁に背中を任せて肩で息をする。
下腹が悦びに震える。
右手はパラオーディナンスP-12を落としても尚、銃を握っているかのように形作る。脊髄反射的に人差し指が引き金を引く動作を繰り返す。1m以上脇に滑り飛んだ愛銃がそれに呼応するとは考えられない。
「あ……」
蕩ける彼女の視界に銃やドスを携えた男たちが湧いて出る。
一人の男が――この時、公子には性別を判断する思考しか残されていなかった――公子の前に歩み寄ってくる。彼女の涙目には男の風体や容貌は判別できない。
ただ、男が脇に立っていた別の男に手を伸ばしてリボルバーと思しき拳銃を引っ手繰ったのは『何となく』見えた。
そして、そのシルバーフレームのスナブノーズが自分の左側頭部にぴったりと突きつけられたのも『何となく』理解できた。
「……あははは」
この期に及んで腑抜けた笑いしか出てこない。
――――終わる。
――――可笑しい。
愉悦に浸る涙目で安息を初めて覚えた微笑が浮かぶ。
彼女は本物の自殺志願者だったらしい。
次に訪れる自身の終末が待ち遠しい。
リボルバーの撃鉄がやけに大きく聞こえた。シリンダーが6分の1回転し、ラッチが噛み合う。作動音が耳に心地良い。
発砲音。
果たして、その耳を劈く38口径の至近距離からの銃声は、彼女の何もかもを望むままに終わらせた。
力無く、彼女の体は右側に崩れ落ちる。
「あんた、随分と大胆にやるんだな」
「獲物を前に舌なめずりってなぁ、性分じゃない」
そんな会話も彼女の耳には聞こえない。
瞳に虚ろを通り越して精気すら映さなくなった彼女には……関係の無い事だった。
「見ろよ。この女……死ぬ覚悟どころか生き抜く覇気も持っちゃ居ねぇ」
「だから殺しちゃ面白く無いんだ」
ふと、そんな言葉が遠くで聞こえた。
深い泥沼からゆっくりサルベージされようとしていた公子に冷水が浴びせられる。
「!」
心臓が麻痺を起こしそうな冷たさが頭にぶつけられて瞼だけが反射的に開いた。
「……」
何事も理解できない。体を動かそうにも束縛されているらしく、思った方向に体を転がすこともできない。
左耳鼓膜が破れているのかもしれない。その激痛が次第に緩慢な思考に渇を入れる。
目眩や吐き気がしないところを鑑みるに本当に鼓膜を破損したのではないようだ。頭痛が酷い。寒気を感じたが衣服が全て剥がされているらしい。
徐々に回復した神経が公子の体に起きている事象を次々と脳に伝達する。
――――素っ裸。拘束。横倒し。
――――目、耳、鼻、喉、触覚……生きてる。
――――? 左腕の傷が手当てされている?
――――末端の反応は鈍い。指先まで完全に回復していない。
自分が一糸まとわぬ姿で後ろ手に手錠で拘束され、2本の鉄パイプで固定されたM字開脚のまま、床に転がされている状態だと理解するのに更に1分の時間が必要だった。
頚が廻るまでに各部の筋肉と神経が回復する。どうやら自分はこの恥態を複数の男に晒している事も判明する。別段、恥ずかしいとは思わなかったが、右手に安心感を与えてくれる重量感――パラオーディナンスP-12――がないことが不安だった。弾薬がなくとも相棒を握っているだけでこの事態を切り抜けられる錯覚がする。
目隠しや猿轡はされていない。
男という生き物は、一人の女にここまでの処遇を与えても尚、多数で見守らなければ不安な動物なのかと哀れに感じた。
「源治さん。コイツ、意識が戻ったみたいですよ」
誰かが言う。
「膝裏のバーを一本抜いてから毛布でも掛けてやれ」
源治と呼ばれる人物と思われる男が部屋の隅から指示を出す。
「……」
無理な角度で首を動かし声の主を追う。
ブラウンのジャケットにサンドカラーのスラックスを履いた30代後半の男だ。顔付きからすると、アンダーグラウンド特有の翳りのある目付きをしていた。精悍で端正なパーツで整った顔をしていた。
意外に静謐な物腰で腕を組んで公子を見詰めている。憐憫や好奇の視線ではない。ましてや敵意は感じられない。
他の連中は早く公子を輪姦したくて仕方が無いらしい。ズボンの前を膨らませて息巻いているが、リーダー格らしい源治の指示以外の行動に出る者は誰もいない。
男が二人で公子の拘束の一部を解き、黴臭く埃が舞う粗末な毛布を掛ける。
源治はようやく、公子の付近までくるとパイプ椅子を展開して見下ろすように座る。
「……」
「……」
公子は源治の視線を覗う振りをして、この場所の状況をできるだけ拾う。
――――床はフローリング。天井は板張り。壁は漆喰。広さは8畳くらいか。窓は一箇所。出入り口も一箇所。外は暗い。蛍光灯……家庭用のシェード? 何処かのセーフハウスか?
情報と状況が次々と掴めると、心の奥底が鎮まってきた。
「吸うか?」
源治は懐からセブンスターを取り出した。
「キャプテンブラック専門でね」
でこるだけ平静に喋った。感情を表して喋ると呂律が廻らない気がした。
「リトルシガーの?」
「否。刻みを直接紙で巻くのよ」
「すまないが、気の利いた煙草はここには無い」
「……知ってるわ」
声に抑揚を付けずに……視線に僅かに殺意を乗せて源治と会話するが、彼には隙が無い。捕らえた公子を恐れている雰囲気は無い。寧ろ、手負いの獣を優しく包む温かさを感じる。
――――変わった奴だ。
――――コイツか。
自分の鼓膜に発砲音の轟音と衝撃波を叩き付け、気絶させた男はこの源治だと直ぐに理解できた。
周りの連中とはまとっている空気が違う。節くれ立った両方の掌には刀や拳銃の胼胝がはっきりと見て取れる。
「それで……私を生かしておいた理由は? 私はただのカチコミ屋よ。依頼人を喋りたくとも何の情報も与えられていない」
「……そうだろうな。そうでなければこんな無茶はしないだろう……それにしても恐ろしい商売だな。まるで命の大安売りだ」
源治は肩を竦めた。
「最近はお前のような職業のお陰で敵対組織の割り出しに困っている。組に対する忠誠も金に対する執着もない自殺志願者が掃いて捨てるほどいるとは聞いていたが……実際に見てみると脅威だ」
「……」
源治はセブンスターを咥えるとデュポンのライターで先端を炙る。
「生かしておいた理由か? 簡単な質問だ。ここにいる連中の腹の虫が収まるまで、嬲り物になって貰う……と言えば納得するか?」
「……筋は通っているけど……あんた自身の真意は別に有りそうだけど?」
「何故、そう言える?」
「『私をその場で殺さなかった』から。あんな修羅場で敵のタマを守ろうなんて考えつかないわ……私がカチコミ屋で、捕らえても何の収穫も無いのは分かっているはず……違う?」
源治は紫煙を天井に向かって大きく吐き、自嘲気味な微笑を浮かべた。
確かに、血気と殺気が膨れ上がった銃撃戦の最中に咄嗟に敵の命まで確保する余裕など、普通は無い。心理的に普通の人間にはそこまでの余裕は無い。
「買い被りが過ぎる意見だな。俺がそんな聖人君子に見えるか?」
「……見えていて欲しいわね……まあ、良いわ。早いトコ、料理してくれる? 今直ぐ頭を撃ち抜いて欲しいんだけど、それは後回しなんでしょ?」
「物分りが良過ぎる女は苦手だ……それに、生きることを放棄した人間を痛め付けても『何も無い』から実にくだらない」
そのまま壁に背中を任せて肩で息をする。
下腹が悦びに震える。
右手はパラオーディナンスP-12を落としても尚、銃を握っているかのように形作る。脊髄反射的に人差し指が引き金を引く動作を繰り返す。1m以上脇に滑り飛んだ愛銃がそれに呼応するとは考えられない。
「あ……」
蕩ける彼女の視界に銃やドスを携えた男たちが湧いて出る。
一人の男が――この時、公子には性別を判断する思考しか残されていなかった――公子の前に歩み寄ってくる。彼女の涙目には男の風体や容貌は判別できない。
ただ、男が脇に立っていた別の男に手を伸ばしてリボルバーと思しき拳銃を引っ手繰ったのは『何となく』見えた。
そして、そのシルバーフレームのスナブノーズが自分の左側頭部にぴったりと突きつけられたのも『何となく』理解できた。
「……あははは」
この期に及んで腑抜けた笑いしか出てこない。
――――終わる。
――――可笑しい。
愉悦に浸る涙目で安息を初めて覚えた微笑が浮かぶ。
彼女は本物の自殺志願者だったらしい。
次に訪れる自身の終末が待ち遠しい。
リボルバーの撃鉄がやけに大きく聞こえた。シリンダーが6分の1回転し、ラッチが噛み合う。作動音が耳に心地良い。
発砲音。
果たして、その耳を劈く38口径の至近距離からの銃声は、彼女の何もかもを望むままに終わらせた。
力無く、彼女の体は右側に崩れ落ちる。
「あんた、随分と大胆にやるんだな」
「獲物を前に舌なめずりってなぁ、性分じゃない」
そんな会話も彼女の耳には聞こえない。
瞳に虚ろを通り越して精気すら映さなくなった彼女には……関係の無い事だった。
「見ろよ。この女……死ぬ覚悟どころか生き抜く覇気も持っちゃ居ねぇ」
「だから殺しちゃ面白く無いんだ」
ふと、そんな言葉が遠くで聞こえた。
深い泥沼からゆっくりサルベージされようとしていた公子に冷水が浴びせられる。
「!」
心臓が麻痺を起こしそうな冷たさが頭にぶつけられて瞼だけが反射的に開いた。
「……」
何事も理解できない。体を動かそうにも束縛されているらしく、思った方向に体を転がすこともできない。
左耳鼓膜が破れているのかもしれない。その激痛が次第に緩慢な思考に渇を入れる。
目眩や吐き気がしないところを鑑みるに本当に鼓膜を破損したのではないようだ。頭痛が酷い。寒気を感じたが衣服が全て剥がされているらしい。
徐々に回復した神経が公子の体に起きている事象を次々と脳に伝達する。
――――素っ裸。拘束。横倒し。
――――目、耳、鼻、喉、触覚……生きてる。
――――? 左腕の傷が手当てされている?
――――末端の反応は鈍い。指先まで完全に回復していない。
自分が一糸まとわぬ姿で後ろ手に手錠で拘束され、2本の鉄パイプで固定されたM字開脚のまま、床に転がされている状態だと理解するのに更に1分の時間が必要だった。
頚が廻るまでに各部の筋肉と神経が回復する。どうやら自分はこの恥態を複数の男に晒している事も判明する。別段、恥ずかしいとは思わなかったが、右手に安心感を与えてくれる重量感――パラオーディナンスP-12――がないことが不安だった。弾薬がなくとも相棒を握っているだけでこの事態を切り抜けられる錯覚がする。
目隠しや猿轡はされていない。
男という生き物は、一人の女にここまでの処遇を与えても尚、多数で見守らなければ不安な動物なのかと哀れに感じた。
「源治さん。コイツ、意識が戻ったみたいですよ」
誰かが言う。
「膝裏のバーを一本抜いてから毛布でも掛けてやれ」
源治と呼ばれる人物と思われる男が部屋の隅から指示を出す。
「……」
無理な角度で首を動かし声の主を追う。
ブラウンのジャケットにサンドカラーのスラックスを履いた30代後半の男だ。顔付きからすると、アンダーグラウンド特有の翳りのある目付きをしていた。精悍で端正なパーツで整った顔をしていた。
意外に静謐な物腰で腕を組んで公子を見詰めている。憐憫や好奇の視線ではない。ましてや敵意は感じられない。
他の連中は早く公子を輪姦したくて仕方が無いらしい。ズボンの前を膨らませて息巻いているが、リーダー格らしい源治の指示以外の行動に出る者は誰もいない。
男が二人で公子の拘束の一部を解き、黴臭く埃が舞う粗末な毛布を掛ける。
源治はようやく、公子の付近までくるとパイプ椅子を展開して見下ろすように座る。
「……」
「……」
公子は源治の視線を覗う振りをして、この場所の状況をできるだけ拾う。
――――床はフローリング。天井は板張り。壁は漆喰。広さは8畳くらいか。窓は一箇所。出入り口も一箇所。外は暗い。蛍光灯……家庭用のシェード? 何処かのセーフハウスか?
情報と状況が次々と掴めると、心の奥底が鎮まってきた。
「吸うか?」
源治は懐からセブンスターを取り出した。
「キャプテンブラック専門でね」
でこるだけ平静に喋った。感情を表して喋ると呂律が廻らない気がした。
「リトルシガーの?」
「否。刻みを直接紙で巻くのよ」
「すまないが、気の利いた煙草はここには無い」
「……知ってるわ」
声に抑揚を付けずに……視線に僅かに殺意を乗せて源治と会話するが、彼には隙が無い。捕らえた公子を恐れている雰囲気は無い。寧ろ、手負いの獣を優しく包む温かさを感じる。
――――変わった奴だ。
――――コイツか。
自分の鼓膜に発砲音の轟音と衝撃波を叩き付け、気絶させた男はこの源治だと直ぐに理解できた。
周りの連中とはまとっている空気が違う。節くれ立った両方の掌には刀や拳銃の胼胝がはっきりと見て取れる。
「それで……私を生かしておいた理由は? 私はただのカチコミ屋よ。依頼人を喋りたくとも何の情報も与えられていない」
「……そうだろうな。そうでなければこんな無茶はしないだろう……それにしても恐ろしい商売だな。まるで命の大安売りだ」
源治は肩を竦めた。
「最近はお前のような職業のお陰で敵対組織の割り出しに困っている。組に対する忠誠も金に対する執着もない自殺志願者が掃いて捨てるほどいるとは聞いていたが……実際に見てみると脅威だ」
「……」
源治はセブンスターを咥えるとデュポンのライターで先端を炙る。
「生かしておいた理由か? 簡単な質問だ。ここにいる連中の腹の虫が収まるまで、嬲り物になって貰う……と言えば納得するか?」
「……筋は通っているけど……あんた自身の真意は別に有りそうだけど?」
「何故、そう言える?」
「『私をその場で殺さなかった』から。あんな修羅場で敵のタマを守ろうなんて考えつかないわ……私がカチコミ屋で、捕らえても何の収穫も無いのは分かっているはず……違う?」
源治は紫煙を天井に向かって大きく吐き、自嘲気味な微笑を浮かべた。
確かに、血気と殺気が膨れ上がった銃撃戦の最中に咄嗟に敵の命まで確保する余裕など、普通は無い。心理的に普通の人間にはそこまでの余裕は無い。
「買い被りが過ぎる意見だな。俺がそんな聖人君子に見えるか?」
「……見えていて欲しいわね……まあ、良いわ。早いトコ、料理してくれる? 今直ぐ頭を撃ち抜いて欲しいんだけど、それは後回しなんでしょ?」
「物分りが良過ぎる女は苦手だ……それに、生きることを放棄した人間を痛め付けても『何も無い』から実にくだらない」