鏡に映る翳
右半身で拳銃を構える癖の有る人間は、視界右方より飛び出す標的には咄嗟に照準を合わせ難いという統計が有る。
「……く」
追跡されている。足音は聞こえないが視線を感じる。
不規則にジグザグを繰り返し巨木やブナの間を駆け抜ける。
銃声。今度の銃弾は僅かに左後方の杉の木に命中し、表皮を吹き飛ばした。
「?」
走りながら考えた。小癪に回り込む戦法は意外と効果があるのでは? と。併し、それで戦況が一転する契機には直接繋がらない可能性も同居する。
捨てられた椎茸の床木の山に飛び込み、遮蔽物とする。
銃弾の弾道を脳内に描き、計算と推察をしてみた。源治が公子のジグザグ走行の背後を同じ軌道でチェイスしているのならここで応戦してみるのも一手かも知れない。
ふと、セーターの裾に視線が走る。
解けた毛糸が道糸のように靡いている。
――――これは……。
何かを閃いた顔。
すぐさま、パラオーディナンスP-12を床木にグリップから叩き付ける。勿論、剣呑なスパイクのお陰で、装飾用のガンスタンドに飾ったようにパラオーディナンスP-12はグリップ底面で立つ。その間にガーバーナイフで毛糸を切断しようと刃を当てた。
「……!」
――――ほうほう。これは……。
毛糸に落とした視線がパラオーディナンスP-12に向く。そしてまた、毛糸に視線が走る。
「……」
――――ちょいと博打するか……。
――――どうせ、進むも引くもコイツが無けりゃ、何も始まらないしね。
予備弾倉を2本、抜く。
「……ごー あへっど めいく まい でい」
そう呟いて毛糸をガーバーナイフで切断する。
「?」
源治は目前20mの位置にある椎茸の床木に飛び込んだまま、反応が無くなった公子の気配に怪訝な顔をした。
床木は左右に4mほど広がって投棄され、高さ1mほどの遮蔽をなしている。
「!」
源治の左右や後方で不意に木々の枝が揺れる。
それらは一斉に揺れたために公子が回り込んだとは考えられない。何らかの策を弄するためのブラフだと直感した。
どのようなブラフで源治を揺さぶるのかがはっきりしていない。不用意に飛び出すのは危険だった。
「……」
お互いの居場所が判明しているのは明確。
両者、姿を視界に捉えずに気配だけで膠着しているのだ……少なくとも源治はそう、判断した。
――――試しにブラフに引っ掛かってやろうか。
源治がそう考えたときだった。
「!」
公子が低い姿勢の横転で床木の山から転がり出てきた。
目前7m先の公子は素早く拳銃を構えてこちらを睨む! ……併し、僅かに視線と銃口の先が源治の方を向いていない。
『策の無いブラフ』のブラフだと悟った源治は咄嗟に屈んでいた身を起こして、拳銃を片手で保持して発砲した。
発砲。
発砲。
「!」
「……」
公子と源治はお互いをしっかりと眼で捉えると同時に口元に笑みを浮かべた。両者、目は笑っていない。
「畜生。ハジキ持ってドンパチしろよ」
「生憎、あんただけに使ってやるマメは持っていない」
源治は自分の鳩尾に徐々に広がる濃い血潮に全く動じず、きびすを返すと、2歩ほど歩き、公子に背中を向けて杉の木に凭れこんだ。
懐からセブンスターを取り出し、一本咥える。
公子の右袖口から剃刀で動脈を切ったように瑞々しい鮮血が零れる。
公子は右手に持っていた『拳銃の形をした物』を滑り落とした。
パラオーディナンスP-12の予備弾倉2本をセーターの毛糸でLの字に縛って形作ったものだ。
木々を揺らしていたのは、左足首に巻きつけた毛糸。これができる限り隣接する木々を同時に揺らして第一のブラフを演じる。勿論、予備弾倉で作った拳銃の形をした物を握って思いっ切り飛び出すのは第二のブラフ。
そのブラフに源治は引っかかった。彼は、二段構えのブラフを見抜けなかったのだ。
本命はグリップエンドのスパイクで床木に固定したパラオーディナンスP-12。
これの引き金も右手首に結んだ毛糸が請け負う。
源治の銃口が正確に公子をトレースしていなければ、照準を定める事は不可能だった。
一瞬でも源治をその場に留まらせるには公子自身が囮になるしか手段はなかった。
「最後にババ引いたが、悪い勝負じゃなかった」
顔から血の気を失いつつある源治は、木に凭れたまま尻を搗き、火の点いていないセブンスターを咥え、拳銃とジャケットの内側から引きずり出したポイントストッパー式のマグポーチを公子の前に放り出した。
「……右腕が動く事に感謝しなきゃ」
公子は負傷した右腕を押さえながら寒気を感じた。
目前にある源治の拳銃はクーナン・モデルB。357マグナム7+1発のマグナムオートだ。1980年代に製造されたが、ローディングランプとマガジンリブの設計が未完成で、早々に市場から姿を消した幻のナインティーンイレブン。
最近ではアマチュアガンスミスが辛うじて給弾に不備を来たさない改良を施したと噂を聞いたが、大手で生産された話は聞いたことがない。
恐らく源治のクーナン・モデルBは特注なのだろう。7インチ銃身のクーナン・モデルBなど、全く聞いた事が無い。
「……!!」
「気付いたか? そのパーツは410番スラッグ用のシングルショットだ」
銃身上部の長い筒は何らかの照準器では無く、小口径散弾銃の単発銃身だ。
「持って行け。それと、煙草に火を点けてから頭を撃ち抜いてくれ」
源治は大粒の汗を掻きながら、精一杯に横柄な態度で公子に頼む。
公子は負傷箇所を押さえながらぺロッと舌を出した。
「嫌よ。自分で出来るでしょう? 怪我人に何もさせないで」
「こっちの方が三途の川直前なんだがな」
敵意が喪失した源治に背中を向けて歩き出した。
源治の銃と愛銃を回収し、振り向きもせずに斜面の稜線を目指す。
運がよければ源治は一命を取り留めるだろう。
運がよければ公子は県境まで到達できるだろう。
どれくらい足を進めたか?
腕時計を見ると経過したのは1時間ほどだが、体力は時速4kmで平坦な道を歩くより遥かにオーバーワークな出力だ。
「……!」
長い斜面の稜線付近で背後を取られた。
パラオーディナンスP-12を左手に保持して振り向きざまに発砲しようとするが、空気が抜けたように銃口が下がる。
「お久し振りです」
「おまえ……」
その男はそんな呑気な声で公子に話し掛けた。
右手に提げたサプレッサーを装着したイングラムの銃口は地面を向き、殺意は感じられない。
「あー。覚えていませんか? いつかの山荘で貴女にマカロフで撃ち殺された男です」
「……やはり、か」
やはり、あの青年だ。疲労する脳味噌が目覚める感覚だ。
「今直ぐ貴女を殺す気はありません」
青年はイングラムから弾倉を抜き、薬室の実包を排莢する。それらを地面に投げ捨てる。
「俺は源治さんの勝負と、あの人の生き甲斐を汚す真似はしたくないんです。貴女にはこの先も生き抜いて欲しい」
「……貴方のいうことは不可解よ。つまり、何を言いたいの?」
「言葉通りです……今から10分後、この銃を拾って貴女を追い掛けます。源治さんが命懸けでドンパチした貴女を今度は俺が敵討ちという大義名分で追い掛けます。それから後になれば仲間がわんさかと山狩りを始めます……後10分の命だと思って、『それまで、生き抜いて下さい』」
沈黙。
二人供、言葉はそれ以上紡げなかった。
公子は彼に一度振り向いただけで、きびすを返して小走りに走り出した。全速疾走で走り抜けているつもりだが、疲労が足にまとわりつく。
青年は下唇を噛んでいたが、無表情だった。
ある、地方の県境付近での出来事。
移ろいうく季節の深緑が美しい季節のある、山中。
雀蜂の羽音を連想する発砲音と腹に響く大口径拳銃の発砲音が交錯する。
どんな思いで、引き金を絞り、誰が生き残ったのか?
ハイキングにピッタリな季節の麗らかな太陽は、深い翳りの中で行われる孤独な戦いを、最後まで見守る事はできなかった。
静かに、淡々と……銃声すら掻き消される林の中では何が起きて、誰が勝ったのか?
平等の象徴に例えられる太陽には全く無関係だ。
勝敗と生死すら……無関係だ。
《鏡に映る翳・了》
「……く」
追跡されている。足音は聞こえないが視線を感じる。
不規則にジグザグを繰り返し巨木やブナの間を駆け抜ける。
銃声。今度の銃弾は僅かに左後方の杉の木に命中し、表皮を吹き飛ばした。
「?」
走りながら考えた。小癪に回り込む戦法は意外と効果があるのでは? と。併し、それで戦況が一転する契機には直接繋がらない可能性も同居する。
捨てられた椎茸の床木の山に飛び込み、遮蔽物とする。
銃弾の弾道を脳内に描き、計算と推察をしてみた。源治が公子のジグザグ走行の背後を同じ軌道でチェイスしているのならここで応戦してみるのも一手かも知れない。
ふと、セーターの裾に視線が走る。
解けた毛糸が道糸のように靡いている。
――――これは……。
何かを閃いた顔。
すぐさま、パラオーディナンスP-12を床木にグリップから叩き付ける。勿論、剣呑なスパイクのお陰で、装飾用のガンスタンドに飾ったようにパラオーディナンスP-12はグリップ底面で立つ。その間にガーバーナイフで毛糸を切断しようと刃を当てた。
「……!」
――――ほうほう。これは……。
毛糸に落とした視線がパラオーディナンスP-12に向く。そしてまた、毛糸に視線が走る。
「……」
――――ちょいと博打するか……。
――――どうせ、進むも引くもコイツが無けりゃ、何も始まらないしね。
予備弾倉を2本、抜く。
「……ごー あへっど めいく まい でい」
そう呟いて毛糸をガーバーナイフで切断する。
「?」
源治は目前20mの位置にある椎茸の床木に飛び込んだまま、反応が無くなった公子の気配に怪訝な顔をした。
床木は左右に4mほど広がって投棄され、高さ1mほどの遮蔽をなしている。
「!」
源治の左右や後方で不意に木々の枝が揺れる。
それらは一斉に揺れたために公子が回り込んだとは考えられない。何らかの策を弄するためのブラフだと直感した。
どのようなブラフで源治を揺さぶるのかがはっきりしていない。不用意に飛び出すのは危険だった。
「……」
お互いの居場所が判明しているのは明確。
両者、姿を視界に捉えずに気配だけで膠着しているのだ……少なくとも源治はそう、判断した。
――――試しにブラフに引っ掛かってやろうか。
源治がそう考えたときだった。
「!」
公子が低い姿勢の横転で床木の山から転がり出てきた。
目前7m先の公子は素早く拳銃を構えてこちらを睨む! ……併し、僅かに視線と銃口の先が源治の方を向いていない。
『策の無いブラフ』のブラフだと悟った源治は咄嗟に屈んでいた身を起こして、拳銃を片手で保持して発砲した。
発砲。
発砲。
「!」
「……」
公子と源治はお互いをしっかりと眼で捉えると同時に口元に笑みを浮かべた。両者、目は笑っていない。
「畜生。ハジキ持ってドンパチしろよ」
「生憎、あんただけに使ってやるマメは持っていない」
源治は自分の鳩尾に徐々に広がる濃い血潮に全く動じず、きびすを返すと、2歩ほど歩き、公子に背中を向けて杉の木に凭れこんだ。
懐からセブンスターを取り出し、一本咥える。
公子の右袖口から剃刀で動脈を切ったように瑞々しい鮮血が零れる。
公子は右手に持っていた『拳銃の形をした物』を滑り落とした。
パラオーディナンスP-12の予備弾倉2本をセーターの毛糸でLの字に縛って形作ったものだ。
木々を揺らしていたのは、左足首に巻きつけた毛糸。これができる限り隣接する木々を同時に揺らして第一のブラフを演じる。勿論、予備弾倉で作った拳銃の形をした物を握って思いっ切り飛び出すのは第二のブラフ。
そのブラフに源治は引っかかった。彼は、二段構えのブラフを見抜けなかったのだ。
本命はグリップエンドのスパイクで床木に固定したパラオーディナンスP-12。
これの引き金も右手首に結んだ毛糸が請け負う。
源治の銃口が正確に公子をトレースしていなければ、照準を定める事は不可能だった。
一瞬でも源治をその場に留まらせるには公子自身が囮になるしか手段はなかった。
「最後にババ引いたが、悪い勝負じゃなかった」
顔から血の気を失いつつある源治は、木に凭れたまま尻を搗き、火の点いていないセブンスターを咥え、拳銃とジャケットの内側から引きずり出したポイントストッパー式のマグポーチを公子の前に放り出した。
「……右腕が動く事に感謝しなきゃ」
公子は負傷した右腕を押さえながら寒気を感じた。
目前にある源治の拳銃はクーナン・モデルB。357マグナム7+1発のマグナムオートだ。1980年代に製造されたが、ローディングランプとマガジンリブの設計が未完成で、早々に市場から姿を消した幻のナインティーンイレブン。
最近ではアマチュアガンスミスが辛うじて給弾に不備を来たさない改良を施したと噂を聞いたが、大手で生産された話は聞いたことがない。
恐らく源治のクーナン・モデルBは特注なのだろう。7インチ銃身のクーナン・モデルBなど、全く聞いた事が無い。
「……!!」
「気付いたか? そのパーツは410番スラッグ用のシングルショットだ」
銃身上部の長い筒は何らかの照準器では無く、小口径散弾銃の単発銃身だ。
「持って行け。それと、煙草に火を点けてから頭を撃ち抜いてくれ」
源治は大粒の汗を掻きながら、精一杯に横柄な態度で公子に頼む。
公子は負傷箇所を押さえながらぺロッと舌を出した。
「嫌よ。自分で出来るでしょう? 怪我人に何もさせないで」
「こっちの方が三途の川直前なんだがな」
敵意が喪失した源治に背中を向けて歩き出した。
源治の銃と愛銃を回収し、振り向きもせずに斜面の稜線を目指す。
運がよければ源治は一命を取り留めるだろう。
運がよければ公子は県境まで到達できるだろう。
どれくらい足を進めたか?
腕時計を見ると経過したのは1時間ほどだが、体力は時速4kmで平坦な道を歩くより遥かにオーバーワークな出力だ。
「……!」
長い斜面の稜線付近で背後を取られた。
パラオーディナンスP-12を左手に保持して振り向きざまに発砲しようとするが、空気が抜けたように銃口が下がる。
「お久し振りです」
「おまえ……」
その男はそんな呑気な声で公子に話し掛けた。
右手に提げたサプレッサーを装着したイングラムの銃口は地面を向き、殺意は感じられない。
「あー。覚えていませんか? いつかの山荘で貴女にマカロフで撃ち殺された男です」
「……やはり、か」
やはり、あの青年だ。疲労する脳味噌が目覚める感覚だ。
「今直ぐ貴女を殺す気はありません」
青年はイングラムから弾倉を抜き、薬室の実包を排莢する。それらを地面に投げ捨てる。
「俺は源治さんの勝負と、あの人の生き甲斐を汚す真似はしたくないんです。貴女にはこの先も生き抜いて欲しい」
「……貴方のいうことは不可解よ。つまり、何を言いたいの?」
「言葉通りです……今から10分後、この銃を拾って貴女を追い掛けます。源治さんが命懸けでドンパチした貴女を今度は俺が敵討ちという大義名分で追い掛けます。それから後になれば仲間がわんさかと山狩りを始めます……後10分の命だと思って、『それまで、生き抜いて下さい』」
沈黙。
二人供、言葉はそれ以上紡げなかった。
公子は彼に一度振り向いただけで、きびすを返して小走りに走り出した。全速疾走で走り抜けているつもりだが、疲労が足にまとわりつく。
青年は下唇を噛んでいたが、無表情だった。
ある、地方の県境付近での出来事。
移ろいうく季節の深緑が美しい季節のある、山中。
雀蜂の羽音を連想する発砲音と腹に響く大口径拳銃の発砲音が交錯する。
どんな思いで、引き金を絞り、誰が生き残ったのか?
ハイキングにピッタリな季節の麗らかな太陽は、深い翳りの中で行われる孤独な戦いを、最後まで見守る事はできなかった。
静かに、淡々と……銃声すら掻き消される林の中では何が起きて、誰が勝ったのか?
平等の象徴に例えられる太陽には全く無関係だ。
勝敗と生死すら……無関係だ。
《鏡に映る翳・了》
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