鏡に映る翳
外国に向けて航路を開いている国内の組織の宛てなら有るが、そこに辿り着くまで命の保証は無い。大人しく見送ってくれるという保証も勿論、無い。
ワンルームマンションを出るとタクシーと徒歩を繰り返して追跡や尾行に神経を注ぐ。自分が何処の勢力に狙われているのかを整理しながら歩く。
カチコミの依頼で殴りこんだ組織が最大の敵。
その組織は自分の名前と塒を知っている。
そして、『あの男』だけは不審。
自分が今までこの街とその一帯から早々に逃げなかったのは、『包囲網が有ったので逃げられなかった』からだ。
金で雇われただけのカチコミ専門業者を殺しても、雇い主を殺さない限り意味はない。つまり、カチコミ業者は決まった取引先を持っていないので金次第で的にも味方にもなる都合のいい使い捨てのはず。
なのに、同業者は通常営業で、自分だけがあの組織に狙われている。
そして、『あの男』の関与を疑ってしまう。
歩きながら考える。ふと、市役所が管理する掲示板の、この自治体の地図が目に入る。
脳内の整理がスッと切り替わる。今度は逃走ルートについてだ。
一番危険なのは県境を越える時だ。
自分を追う組織のシマの版図を鑑みれば謂わば、最終防衛ラインだ。
どれだけの戦力を公子一人に割いているのかは依然不明。
ことごとく後手を取らされていることを考えれば敵は相当に頭が切れる。若しくは想像以上の頭脳派だ。
指揮を執っているのは言うまでもない……源治という男だ。
今更ながらに、源治のバッジをしっかりと確認しておかなかったのが悔やまれる。
バッジの意匠や色が解ればどの程度の権力と指揮権を与えられた立場なのか判明する。陵辱の日々に見た顔触れだけが源治の戦力だと甘く見ない事だ。
「……」
県境付近の山裾――スカイラインに入る手前――でタクシーを降りると、バスを乗り継いで山中に入る。山一つ越えれば県境を越えたのと同じだ。
ローカルバスの車内には自分以外に乗客は3人。
何れもこのバスを日常の足としている付近の住民らしく、軽装だ。
こんな山中のバスでは登山やハイキングが目的で大きな荷物を抱えた人間か近隣の身軽な住人しか利用しない。
左右の視界が深い緑に包まれた。先ほどまで、車窓に広がっていた田畑も覆い茂る深緑に視界から消される。
バスの前後を走る車輌は無い。
「……」
軽く右親指の爪を噛む。
簡単にことが運び過ぎる。それに異常に静かだ。
あれだけ索敵能力の優れた行動を見せつけた集団が、尾行も追跡も探索も今日だけザルだとは考えられない。
「!」
耳が僅かに吊り上る。
――――来る!
次の瞬間、バスの正面30mの位置に転げてきた何かの塊は煙の尾を引く何かをバスに向かって放った。
「!」
耳と鼻と瞼を両手の指で隠し、頭を膝の間に抱えて座席で身を竦める。
遅れて爆発音。
連中の待ち伏せだ。このルートでバスごと、襲撃して息の根を止めるつもりだ。
放たれた携行対戦車ロケット弾と思しき砲弾はバスのボンネットの真ん中より下に命中し、充分な破壊力を車内に撒き散らさないままに終わる。
熱風が車内に吹き荒れるが、車体が歪んだ衝撃で連鎖して割れた窓ガラスから放出して熱いガスが抜ける。運転手は焼死したらしいが、バスは惰性で砲撃手を轢き殺す。
髪の端が焦げた公子は黒いガスを煙幕として窓ガラスから飛び出る。
爆圧で内臓が口から飛び出そうな不快感と吐き気を催す 。
指でカバーしていた目、耳、鼻には異常は無い。
熱く焼けた破片で手足を掠ったが、深手は感じられない。
車内で生存していた人間は恐らく公子だけだろう。万が一生きていたとしても、今し方、車内に雪崩れ込んだ数人の生存者狩りによって止めを刺されていたに違いない。
路肩で側溝に嵌り停車したバスの内部から複数の発砲音が聞こえる。いずれも拳銃だ。死体同然の乗客に銃弾を叩き込んでいるのは簡単に予想出来る。
「……く」
このまま素直に舗装された道路を走って逃げたのではいい的になるので、千鳥足気味な足取りで道路右手に広がるなだらかな斜面を駆け上った。
バスの車内に身の回りの物を詰めたボストンバッグを忘れて来た。連中が散乱した所持品を確認すれば、公子が生きて脱出したことはすぐに解るだろう。
パラオーディナンスP-12と有りっ丈の弾薬を身に付けていたのは幸いだった。
密度の濃い竹林に紛れることが出来た。
これなら長射程から狙撃される心配も無いし、追撃を受けて発砲されても竹の硬い表皮に素直な弾道は阻害される。連中が7.62mmクラスのアサルトライフルで装備していなければの話だ。
竹林が弾道を逸らせるのはあくまで、軽量高速弾の5.56mm弾を使用するアサルトライフルまでだ。7.62mm弾クラスの重い高速弾やAKシリーズで有名になった7.62mmロシアンでは竹林程度の障害物であれば、直線距離50~100m以内では盾にも成らない。
一般的な軍隊で教練する「竹林で発砲するな」の鉄則は世界的に流通している5.56mm弾を基準に考慮しているからだ。
尤も、このように密度が濃い竹林ではアサルトライフルの長い全長が邪魔で自由に振り回せないが。
尚、日本では脆く折れる種類の葦しか自生していないので馴染みは少ないが、ヨーロッパの一部では竹林同様、葦原でも障害になるために緩やかな流れの有る水辺では戦闘に神経を使う。葦は非常に濃い密度で群生すれば想像以上に優れた弾力を発揮するのだ。
「……」
公子は歩幅を小さくして耳を澄ませながら周囲を覗う。
追跡する足音や声は聞こえない。群生林での戦闘に長けたヤクザ組織等、聞いたことがないので一応は安心と胸を撫でおろした。
県境へ通じる道路へは迂闊に近付けない。
敵戦力は不明なれど、敵の火力は充分に知った。
携行ロケット弾を持ち出すほどの気合の入れようだ。本来なら組同士の戦争で用いるために温存していたのではないか? 公子一人を仕留めるのに簡単に持ち出す辺りは肝が冷やされた。
その大火力が瞬間最大持続ゼロであることを願うばかりだ。
竹林を抜ける。このルートを真っ直ぐ進んでも大きく迂回する道路に出る。その道路で車を拾えば県境を越えることも充分可能だ。
山の斜面や足場の悪さを考慮しなければ徒歩1時間で思った通りのルートを辿ることが可能。
追撃を開始するであろう組織の練度と統率力が低いことを祈る。
鉄砲の扱いだけで解決できる問題の方が少ない。最終的に動力となるのが精神力であったとしても、裸の状態でそこまで自身を導くのは自身に備わった経験と勘と知識だ。
この期に及んで敵と撃ち合って華々しく散ることを考えず、ひたすら逃げることを計算する自分が可笑しい。
撃ち合って散るのなら惜しくない命では無かったのか?
逃げる気力が有るのなら踏み止まって戦うのが流儀では無かったか?
今の状況は『自殺』するのに相応しい条件が全て揃っているのではないか。
何故、逃げるのか?
何故、戦わないのか?
何故、生きるのか?
――――命が……。
――――惜しいから!
突如として猛然と走り出す。
何物にも目もくれず。
「あーあー。源治さん。聞こえてますかー?」
ヤクザ連中が威勢のいい声を張り上げてブナの林を索敵している中、青年はサプレッサーを装備したイングラムM10を右手に提げて、左手にした無線機で源治と交信していた。ぼそぼそと小さな声での会話だ。
「……良好。で、あいつはどうした?」
「どうやら竹林を抜けたようです。兵隊には指示通りに反対の林を探させています」
「そうか……ご苦労。これが済んだら天ぷらウドンを奢ってやる」
「今度は天ぷらウドンですか……了解」
青年は呆れた雰囲気から一変して、顔に翳りを落として無線機で交信する。
「奴さんは鉄火場サバイバルのライフハッカーです。気を付けて下さい」
源治は鼻を鳴らして笑うと軽口を叩く風に応えた。
「お。お前も人間を視る眼が出来てきたなぁ……お互いに長生きしようぜ」
「そうっすね。命を大事にガンガン逝きましょう!」
どこにでもいるヤクザの会話ではあるが、源治も青年もレシーバー越しに爽やかな笑みを浮かべた。
ワンルームマンションを出るとタクシーと徒歩を繰り返して追跡や尾行に神経を注ぐ。自分が何処の勢力に狙われているのかを整理しながら歩く。
カチコミの依頼で殴りこんだ組織が最大の敵。
その組織は自分の名前と塒を知っている。
そして、『あの男』だけは不審。
自分が今までこの街とその一帯から早々に逃げなかったのは、『包囲網が有ったので逃げられなかった』からだ。
金で雇われただけのカチコミ専門業者を殺しても、雇い主を殺さない限り意味はない。つまり、カチコミ業者は決まった取引先を持っていないので金次第で的にも味方にもなる都合のいい使い捨てのはず。
なのに、同業者は通常営業で、自分だけがあの組織に狙われている。
そして、『あの男』の関与を疑ってしまう。
歩きながら考える。ふと、市役所が管理する掲示板の、この自治体の地図が目に入る。
脳内の整理がスッと切り替わる。今度は逃走ルートについてだ。
一番危険なのは県境を越える時だ。
自分を追う組織のシマの版図を鑑みれば謂わば、最終防衛ラインだ。
どれだけの戦力を公子一人に割いているのかは依然不明。
ことごとく後手を取らされていることを考えれば敵は相当に頭が切れる。若しくは想像以上の頭脳派だ。
指揮を執っているのは言うまでもない……源治という男だ。
今更ながらに、源治のバッジをしっかりと確認しておかなかったのが悔やまれる。
バッジの意匠や色が解ればどの程度の権力と指揮権を与えられた立場なのか判明する。陵辱の日々に見た顔触れだけが源治の戦力だと甘く見ない事だ。
「……」
県境付近の山裾――スカイラインに入る手前――でタクシーを降りると、バスを乗り継いで山中に入る。山一つ越えれば県境を越えたのと同じだ。
ローカルバスの車内には自分以外に乗客は3人。
何れもこのバスを日常の足としている付近の住民らしく、軽装だ。
こんな山中のバスでは登山やハイキングが目的で大きな荷物を抱えた人間か近隣の身軽な住人しか利用しない。
左右の視界が深い緑に包まれた。先ほどまで、車窓に広がっていた田畑も覆い茂る深緑に視界から消される。
バスの前後を走る車輌は無い。
「……」
軽く右親指の爪を噛む。
簡単にことが運び過ぎる。それに異常に静かだ。
あれだけ索敵能力の優れた行動を見せつけた集団が、尾行も追跡も探索も今日だけザルだとは考えられない。
「!」
耳が僅かに吊り上る。
――――来る!
次の瞬間、バスの正面30mの位置に転げてきた何かの塊は煙の尾を引く何かをバスに向かって放った。
「!」
耳と鼻と瞼を両手の指で隠し、頭を膝の間に抱えて座席で身を竦める。
遅れて爆発音。
連中の待ち伏せだ。このルートでバスごと、襲撃して息の根を止めるつもりだ。
放たれた携行対戦車ロケット弾と思しき砲弾はバスのボンネットの真ん中より下に命中し、充分な破壊力を車内に撒き散らさないままに終わる。
熱風が車内に吹き荒れるが、車体が歪んだ衝撃で連鎖して割れた窓ガラスから放出して熱いガスが抜ける。運転手は焼死したらしいが、バスは惰性で砲撃手を轢き殺す。
髪の端が焦げた公子は黒いガスを煙幕として窓ガラスから飛び出る。
爆圧で内臓が口から飛び出そうな不快感と吐き気を催す 。
指でカバーしていた目、耳、鼻には異常は無い。
熱く焼けた破片で手足を掠ったが、深手は感じられない。
車内で生存していた人間は恐らく公子だけだろう。万が一生きていたとしても、今し方、車内に雪崩れ込んだ数人の生存者狩りによって止めを刺されていたに違いない。
路肩で側溝に嵌り停車したバスの内部から複数の発砲音が聞こえる。いずれも拳銃だ。死体同然の乗客に銃弾を叩き込んでいるのは簡単に予想出来る。
「……く」
このまま素直に舗装された道路を走って逃げたのではいい的になるので、千鳥足気味な足取りで道路右手に広がるなだらかな斜面を駆け上った。
バスの車内に身の回りの物を詰めたボストンバッグを忘れて来た。連中が散乱した所持品を確認すれば、公子が生きて脱出したことはすぐに解るだろう。
パラオーディナンスP-12と有りっ丈の弾薬を身に付けていたのは幸いだった。
密度の濃い竹林に紛れることが出来た。
これなら長射程から狙撃される心配も無いし、追撃を受けて発砲されても竹の硬い表皮に素直な弾道は阻害される。連中が7.62mmクラスのアサルトライフルで装備していなければの話だ。
竹林が弾道を逸らせるのはあくまで、軽量高速弾の5.56mm弾を使用するアサルトライフルまでだ。7.62mm弾クラスの重い高速弾やAKシリーズで有名になった7.62mmロシアンでは竹林程度の障害物であれば、直線距離50~100m以内では盾にも成らない。
一般的な軍隊で教練する「竹林で発砲するな」の鉄則は世界的に流通している5.56mm弾を基準に考慮しているからだ。
尤も、このように密度が濃い竹林ではアサルトライフルの長い全長が邪魔で自由に振り回せないが。
尚、日本では脆く折れる種類の葦しか自生していないので馴染みは少ないが、ヨーロッパの一部では竹林同様、葦原でも障害になるために緩やかな流れの有る水辺では戦闘に神経を使う。葦は非常に濃い密度で群生すれば想像以上に優れた弾力を発揮するのだ。
「……」
公子は歩幅を小さくして耳を澄ませながら周囲を覗う。
追跡する足音や声は聞こえない。群生林での戦闘に長けたヤクザ組織等、聞いたことがないので一応は安心と胸を撫でおろした。
県境へ通じる道路へは迂闊に近付けない。
敵戦力は不明なれど、敵の火力は充分に知った。
携行ロケット弾を持ち出すほどの気合の入れようだ。本来なら組同士の戦争で用いるために温存していたのではないか? 公子一人を仕留めるのに簡単に持ち出す辺りは肝が冷やされた。
その大火力が瞬間最大持続ゼロであることを願うばかりだ。
竹林を抜ける。このルートを真っ直ぐ進んでも大きく迂回する道路に出る。その道路で車を拾えば県境を越えることも充分可能だ。
山の斜面や足場の悪さを考慮しなければ徒歩1時間で思った通りのルートを辿ることが可能。
追撃を開始するであろう組織の練度と統率力が低いことを祈る。
鉄砲の扱いだけで解決できる問題の方が少ない。最終的に動力となるのが精神力であったとしても、裸の状態でそこまで自身を導くのは自身に備わった経験と勘と知識だ。
この期に及んで敵と撃ち合って華々しく散ることを考えず、ひたすら逃げることを計算する自分が可笑しい。
撃ち合って散るのなら惜しくない命では無かったのか?
逃げる気力が有るのなら踏み止まって戦うのが流儀では無かったか?
今の状況は『自殺』するのに相応しい条件が全て揃っているのではないか。
何故、逃げるのか?
何故、戦わないのか?
何故、生きるのか?
――――命が……。
――――惜しいから!
突如として猛然と走り出す。
何物にも目もくれず。
「あーあー。源治さん。聞こえてますかー?」
ヤクザ連中が威勢のいい声を張り上げてブナの林を索敵している中、青年はサプレッサーを装備したイングラムM10を右手に提げて、左手にした無線機で源治と交信していた。ぼそぼそと小さな声での会話だ。
「……良好。で、あいつはどうした?」
「どうやら竹林を抜けたようです。兵隊には指示通りに反対の林を探させています」
「そうか……ご苦労。これが済んだら天ぷらウドンを奢ってやる」
「今度は天ぷらウドンですか……了解」
青年は呆れた雰囲気から一変して、顔に翳りを落として無線機で交信する。
「奴さんは鉄火場サバイバルのライフハッカーです。気を付けて下さい」
源治は鼻を鳴らして笑うと軽口を叩く風に応えた。
「お。お前も人間を視る眼が出来てきたなぁ……お互いに長生きしようぜ」
「そうっすね。命を大事にガンガン逝きましょう!」
どこにでもいるヤクザの会話ではあるが、源治も青年もレシーバー越しに爽やかな笑みを浮かべた。