貴(たか)い飛翔
成威があの街に固執する理由をどれだけロジカルに整理しても理性的な何かがそれを阻害している感覚だ。
そもそも、心が挽回不可能なまでに挫かれて生きる糧も見失っていたところを年上の男に作って貰ったメシが感動するほど美味くて、瞬く間にマイナスのベクトルが正反対に修正されたなど、口が裂けても他人には言えない。
丸一日経った今でも思い返せば、耳まで真っ赤になって小娘のように心臓が高鳴る。成威の世界に男が居座ってしまった証拠だ。
他人に助けられたとか、敵に情けを掛けられたとか、そういうレベルではない。出来るものなら、そういうレベルの話で済んで欲しいものだ。
「仕事道具のインプレッションを纏めたレポートを提出するために、この街ほど理想的な環境は無く、良いレポートが提出できそうだ」という当初の目的は未だに果たせていない。
レポートをさっさと書き認めて郵送すれば全てが終わって後腐れなくトンズラできるというのに、全てが後腐れなく終わるとあの男と会えない『寂しさ』が芽生えている。
いつかは討ち取らねば成らない対象に掻っ攫われた。
今までにもこのような経緯で自滅した例は自分以外で沢山見てきた。
その度に「馬鹿な奴だ」と鼻で笑っていたが、その当事者になってみるとどうしようもなく胸が締め付けられる。
都合良く楽観的な性分がでてきて丸投げしてくれればどんなに楽か。成威本人が冷血非情な人間ならこんなに心が揺れることもないだろう。
動かぬ倒木を9mmウッドチップでどれだけ削っても根本的な解決には至らない。
安易に「あの男を討ち倒せば解決する」と考えることができない。また、それで解決する問題であるとも考えられない。
だから、こう考えた。
実直なまでに当初の目的を果たすことだけを考えよう、あの街の若年ギャングを予定通り標的にして実験台にしよう、自分が生きる上での汚点を全て知る人間として、あの男を『排除』しよう、と。
一端の拳銃使いが惚れた腫れたの問題で足元を掬われた挙句、命まで盗られたのでは末代までの恥だ。
「……」
またも、勝手に一人で赤面する成威。
――――惚れた……だって?
――――私が?
――――あんな奴に?
そして思考が延々とループ。
どんな苦境も一人で生きてきた成威には背中を預けられるかもしれない存在を探す暇などなかった。必要だと感じる隙もなかった。それがここにきて形の違うシッペ返しで襲われている。
「ああっ! もうっ!」
山中にて一人で赤面するやら青褪めるやら忙しい成威。
H&K P7M13の心地良い反動も命中精度も全てを雨散霧消させるには役不足だった。
男女間における色事の経験不足とも置き換えられる。
口にするのも恥かしい愛の力とやらが形を成して現れたとするなら、それはあの男が作ってくれた一食分の食餌であり、それによって違うことなく成威の心は一瞬で全快した。
どれだけ否定しても変わらぬ事実にケリをつけるという考え自体が間違いである! ……とも言い切れない。
今までに一体どれだけ、あの男が背中を見せた?
どれだけ、無防備な笑顔でH&K P7M13を握る成威を包み込んだ?
いずれにしても一発必中の距離でH&K P7M13の引き金に何の力学的作用も命令しなかったではないか。
この後、さらに自分が世間一般でいうところのヘタレだと考えに及び、腰抜け加減に嫌気が差すことになった。
※ ※ ※
窓には薄いカーテン。
直射日光が柔らかく遮られている。室内は8畳ほどの広さで洋室拵えだ。家具は大型液晶テレビとソファセットにクローゼットが有るだけで、室内を彩る装飾的な調度品は無い。
その4人掛けソファに横柄に腰掛ける男が一人。
テーブルの上にはワイルドターキーとトリプルショットのタンブラー。それに煙の立つコイーバミニシガリロが挟まれた小さな陶器の黒い灰皿。
「さぁ。こちらでは何も掴んでいませんが」
左脇にルガーP-08アーティラリーモデルが収まるショルダーホルスターを装着した男が手元に寄せた固定電話の子機で話をしている。
「あの……女のシマ荒らしですが、こちらでは大して有効な情報は掴んでいません。それに俺はクソガキ連中の後始末を任されただけで、居場所を特定しろとは命令されてないんで……いくらかボーナスを出してくれるのでしたら考えますけどね……そりゃぁ、無理ですな。俺の体は一つしか有りませんよ。優先順位をつけて仕事を片付けないと……」
男は話をしながらコイーバのシガリロを指に挟んだ。
「どうぞどうぞ。あなた方であれだけの手練を仕留められるとは思いませんが……ほう……で? ……それはそれは……」
男はシガリロを吹かすと肩を竦めて顎の不精髭を掻いた。
「……1週間ですか……他の仕事を誰かに廻して下さるのでしたら、考えますが? ……随分、気前が良いですな。前払いですか?」
男の声はどこか、生返事な空気がした。3分の2程が灰燼に帰したシガリロを灰皿に押し付けると今度はタンブラーを取り、琥珀の液体を弄んだ。
「そんなにシマ荒らしが邪魔ですか? いやいや、良いんですよ。いただけるものさえ出してくれるのでしたら、『バイト』のシフト交替もたまにはいいでしょう……解りました」
男は片目を閉じて、下唇の端を八重歯で噛んだ。
「……了解しました。口座を確認したら件のシマ荒らしを探し出して片付けますよ。『締め切り』は1週間と言いましたかね? ……それでは」
子機を充電器に戻すと、タンブラーのバーボンを一気に飲み干し、全身で溜息を吐いた。
「……詰まらん横槍を入れやがって」
男は不快に唇を歪める。
コイーバミニシガリロの箱を開けると、紙巻煙草より細く短いシガリロを取り出して無造作に咥える。
「……」
シガリロを咥えたまま天井を仰いで、思慮深い顔を造る。
――――何も上手くまとまらない。
――――因果な商売だ。
逡巡。
とうとう、男を飼い馴らす組織こと【白河組】から伝達事項が届けられた。
成威が隠れるセーフハウスはシガリロを咥える彼……ルガーの男が独自のルートで割り出した、誰も知らない情報だ。
男は何が有っても自らが持つ情報を組織に売り渡すつもりはない。
最後の最後まで自分の索敵能力の結果だと主張し、暗黒社会で生きる独自の知恵を墓場まで持っていく覚悟でいる。
彼の素直な心境は、成威に何事もなくできるだけ遠くに逃げて貰いたい気分で一杯だった。
ともすれば娘のような年頃の娘に熱を上げているのかもしれない。
何が、どこが、どうして成威に急速に惹かれていったのかも判然としない。
男にとってはオンナを好くのに理由は必要無い。環境も関係無い。
好きになってしまったものは仕方が無い。
好きの定義が恋しいなのか愛してるなのか、それはどうでもいいことだ。
『俺には必要だから傍で居ろ』。
実に久し振りに込み上げてくる感情。
現実は厳しいもので、敵対する立場でなければ出会うことがなかったに違いない。
「……」
贔屓にしているコイーバミニシガリロではなく、何故かロミオY ジュリエッタのプレミアムシガーが無性に吸いたくなった。
飼い犬の身分である自分には惚れた女に「一緒に遠くに逃げよう」と言う権利も資格も無い。ひたすら、どんな手段でもいいから逃げてくれ! としか願えない。
ところが、この願いすらも今し方、挫かれた。木っ端微塵に近い。挫けそうだ。
そもそも、心が挽回不可能なまでに挫かれて生きる糧も見失っていたところを年上の男に作って貰ったメシが感動するほど美味くて、瞬く間にマイナスのベクトルが正反対に修正されたなど、口が裂けても他人には言えない。
丸一日経った今でも思い返せば、耳まで真っ赤になって小娘のように心臓が高鳴る。成威の世界に男が居座ってしまった証拠だ。
他人に助けられたとか、敵に情けを掛けられたとか、そういうレベルではない。出来るものなら、そういうレベルの話で済んで欲しいものだ。
「仕事道具のインプレッションを纏めたレポートを提出するために、この街ほど理想的な環境は無く、良いレポートが提出できそうだ」という当初の目的は未だに果たせていない。
レポートをさっさと書き認めて郵送すれば全てが終わって後腐れなくトンズラできるというのに、全てが後腐れなく終わるとあの男と会えない『寂しさ』が芽生えている。
いつかは討ち取らねば成らない対象に掻っ攫われた。
今までにもこのような経緯で自滅した例は自分以外で沢山見てきた。
その度に「馬鹿な奴だ」と鼻で笑っていたが、その当事者になってみるとどうしようもなく胸が締め付けられる。
都合良く楽観的な性分がでてきて丸投げしてくれればどんなに楽か。成威本人が冷血非情な人間ならこんなに心が揺れることもないだろう。
動かぬ倒木を9mmウッドチップでどれだけ削っても根本的な解決には至らない。
安易に「あの男を討ち倒せば解決する」と考えることができない。また、それで解決する問題であるとも考えられない。
だから、こう考えた。
実直なまでに当初の目的を果たすことだけを考えよう、あの街の若年ギャングを予定通り標的にして実験台にしよう、自分が生きる上での汚点を全て知る人間として、あの男を『排除』しよう、と。
一端の拳銃使いが惚れた腫れたの問題で足元を掬われた挙句、命まで盗られたのでは末代までの恥だ。
「……」
またも、勝手に一人で赤面する成威。
――――惚れた……だって?
――――私が?
――――あんな奴に?
そして思考が延々とループ。
どんな苦境も一人で生きてきた成威には背中を預けられるかもしれない存在を探す暇などなかった。必要だと感じる隙もなかった。それがここにきて形の違うシッペ返しで襲われている。
「ああっ! もうっ!」
山中にて一人で赤面するやら青褪めるやら忙しい成威。
H&K P7M13の心地良い反動も命中精度も全てを雨散霧消させるには役不足だった。
男女間における色事の経験不足とも置き換えられる。
口にするのも恥かしい愛の力とやらが形を成して現れたとするなら、それはあの男が作ってくれた一食分の食餌であり、それによって違うことなく成威の心は一瞬で全快した。
どれだけ否定しても変わらぬ事実にケリをつけるという考え自体が間違いである! ……とも言い切れない。
今までに一体どれだけ、あの男が背中を見せた?
どれだけ、無防備な笑顔でH&K P7M13を握る成威を包み込んだ?
いずれにしても一発必中の距離でH&K P7M13の引き金に何の力学的作用も命令しなかったではないか。
この後、さらに自分が世間一般でいうところのヘタレだと考えに及び、腰抜け加減に嫌気が差すことになった。
※ ※ ※
窓には薄いカーテン。
直射日光が柔らかく遮られている。室内は8畳ほどの広さで洋室拵えだ。家具は大型液晶テレビとソファセットにクローゼットが有るだけで、室内を彩る装飾的な調度品は無い。
その4人掛けソファに横柄に腰掛ける男が一人。
テーブルの上にはワイルドターキーとトリプルショットのタンブラー。それに煙の立つコイーバミニシガリロが挟まれた小さな陶器の黒い灰皿。
「さぁ。こちらでは何も掴んでいませんが」
左脇にルガーP-08アーティラリーモデルが収まるショルダーホルスターを装着した男が手元に寄せた固定電話の子機で話をしている。
「あの……女のシマ荒らしですが、こちらでは大して有効な情報は掴んでいません。それに俺はクソガキ連中の後始末を任されただけで、居場所を特定しろとは命令されてないんで……いくらかボーナスを出してくれるのでしたら考えますけどね……そりゃぁ、無理ですな。俺の体は一つしか有りませんよ。優先順位をつけて仕事を片付けないと……」
男は話をしながらコイーバのシガリロを指に挟んだ。
「どうぞどうぞ。あなた方であれだけの手練を仕留められるとは思いませんが……ほう……で? ……それはそれは……」
男はシガリロを吹かすと肩を竦めて顎の不精髭を掻いた。
「……1週間ですか……他の仕事を誰かに廻して下さるのでしたら、考えますが? ……随分、気前が良いですな。前払いですか?」
男の声はどこか、生返事な空気がした。3分の2程が灰燼に帰したシガリロを灰皿に押し付けると今度はタンブラーを取り、琥珀の液体を弄んだ。
「そんなにシマ荒らしが邪魔ですか? いやいや、良いんですよ。いただけるものさえ出してくれるのでしたら、『バイト』のシフト交替もたまにはいいでしょう……解りました」
男は片目を閉じて、下唇の端を八重歯で噛んだ。
「……了解しました。口座を確認したら件のシマ荒らしを探し出して片付けますよ。『締め切り』は1週間と言いましたかね? ……それでは」
子機を充電器に戻すと、タンブラーのバーボンを一気に飲み干し、全身で溜息を吐いた。
「……詰まらん横槍を入れやがって」
男は不快に唇を歪める。
コイーバミニシガリロの箱を開けると、紙巻煙草より細く短いシガリロを取り出して無造作に咥える。
「……」
シガリロを咥えたまま天井を仰いで、思慮深い顔を造る。
――――何も上手くまとまらない。
――――因果な商売だ。
逡巡。
とうとう、男を飼い馴らす組織こと【白河組】から伝達事項が届けられた。
成威が隠れるセーフハウスはシガリロを咥える彼……ルガーの男が独自のルートで割り出した、誰も知らない情報だ。
男は何が有っても自らが持つ情報を組織に売り渡すつもりはない。
最後の最後まで自分の索敵能力の結果だと主張し、暗黒社会で生きる独自の知恵を墓場まで持っていく覚悟でいる。
彼の素直な心境は、成威に何事もなくできるだけ遠くに逃げて貰いたい気分で一杯だった。
ともすれば娘のような年頃の娘に熱を上げているのかもしれない。
何が、どこが、どうして成威に急速に惹かれていったのかも判然としない。
男にとってはオンナを好くのに理由は必要無い。環境も関係無い。
好きになってしまったものは仕方が無い。
好きの定義が恋しいなのか愛してるなのか、それはどうでもいいことだ。
『俺には必要だから傍で居ろ』。
実に久し振りに込み上げてくる感情。
現実は厳しいもので、敵対する立場でなければ出会うことがなかったに違いない。
「……」
贔屓にしているコイーバミニシガリロではなく、何故かロミオY ジュリエッタのプレミアムシガーが無性に吸いたくなった。
飼い犬の身分である自分には惚れた女に「一緒に遠くに逃げよう」と言う権利も資格も無い。ひたすら、どんな手段でもいいから逃げてくれ! としか願えない。
ところが、この願いすらも今し方、挫かれた。木っ端微塵に近い。挫けそうだ。