貴(たか)い飛翔

 自分がそれで一番でないのは重々承知していたし、自惚れるつもりも無かった。
 ただ。
 ただ、消え入りたいほど情けなかった。
 『心を折られた』。
 総括すればその一言に限る。
 
 感情が消え失せて空腹だけが残ったある日の夜。
 この頃には夜という概念も遠い国の現象のような遊離感がしていた。
 セーフハウスのカギがピーンと甲高い音を立てて開錠される。ピッキングによる無理矢理な開錠だ。
 ベッドの足元に転がったままのH&K P7M13に手を伸ばすこともなく、虚空を見つめるのと同じ虚ろな瞳で僅かに音がした方向に視線が動く。首までは動いていない。それどころか、彼女はベッドで横たわったまま無気力の最奥に居た。
――――?
 鈍い光の双眸が揺れる。
――――誰?
 自分の隠れ家であるセーフハウスが他者に押さえられたことに対して慄くより、誰が入室してきたのかが気になった。
 空腹と折れた心が彼女に正確な判断をさせる能力を完全に挫いているのだ。
「……」
 勝手に入ってきた人物がルガーP-08アーティラリーモデルを遣う男であるというのに気が付くのは少し後だった。
「……?」
 その人物は勝手にキッチンに入ると、手に提げていたコンビニの袋をブチ撒けて勝手知ったる何とやらのように鍋やフライパンを勝手に取り出し、調理を始める。
「? ……?」
 思考が完全に鈍麻していた成威の瞳が徐々に開かれる。
「……な、何?」
 何日か振りに声帯を通して声が出た。乾いてしゃがれた声だ。
 小気味良い包丁の音が聞こえてきた。酷く懐かしい味噌汁の匂いが漂ってくる。
――――!
 ようやく、キッチンの方から、自室に横たわる自分を見て優しい笑顔を浮かべた男がルガーP-08の男であると認識した。
 ベッドから転げ落ちて、縋り付くようにH&K P7M13をあたふたと手に取った。かなり体力を消耗していたのかスクイーズドコッカーが重く、両手で思いっきり握った。
 匍匐前進をしたいのか屈んで前進したいのか解らない無様な恰好でキッチンの方へ、よたつく足で向かう。
「……」
 自分の心を一撃で叩き折った男が、自分の家の台所を使っている雰囲気で調理している。
 ジャケットを脱いで左脇のルガーP-08アーティラリーが収まった長大なショルダーホルスターが剥き出しだ。
 「動くな!」と警告するより早く、腹の虫が味噌汁の匂いに反応して大きな鳴き声を挙げる。
「ああ、待ってろ。すぐにできる」
 男は味噌汁の味を見ながら、無造作に振り向いて答えた。
――――ああ!
――――チキショウ!
――――チョイ悪の台所姿は腹が立つほど、似合うな!
 手際良く、味噌汁の火加減を見ながら、鯖を焼く男に対してまたも、毒気が瞬間的に抜かれる。
 銃口が震えつつも、構えていたH&K P7M13の銃口はしなびたように下がって行く。
 仮に発砲出来ていたとしても、この4mもない距離で、初弾でこの男を仕留めることができるか否か疑問だった。
 簡易的なテーブルに食餌が乗った食器を並べて男は慈悲の塊が具現化した笑顔で「おまちどうさま。さぁ、食べてくれ」と正座して料理を指した。
 男は成威に空気がよどんだ部屋に不似合いな柔らかい笑顔を見せると立ち上がり、背中を向けて換気扇の傍までいく。尻ポケットからフラスコを取り出して中身を呷った。続けて胸ポケットからシガリロを取り出して火を点ける。一息深く吸うと、作動している換気扇に向かって吹き付けた。
 完全に男は一仕事終えた心地でシガリロを楽しんでいる。
 今、9mmパラベラムを叩き込むのは簡単かも知れない。
「……」
 彼女は……安全装置を掛けてファイアリングピンを静かに前進させるとコッキングを解き、『待て』で止められた犬が放たれたようにテーブルに乗った味噌汁と焼き鯖と白飯を掻き込んだ。
「……」
 H&K P7M13を右手側に置いてひたすら、咀嚼して胃袋に流し込む。
 色気も作法も無い、エサを喰らっている姿同然の品の無い風景だった。
 男は成威を見ず、静かにシガリロを吹かしている。成威など視界に存在していない感じで、アルミ箔で簡易灰皿を作り、そこにシガリロの灰を捨てる。時折、フラスコの中身を呷る。

「少し落ち着いたか?」
 椅子に座って白飯を釜ごと抱いて杓文字で掻き込んでいると、男は満足な笑顔で成威を見た。
「……うん……」
 成威は口の周りに飯粒をくっつけながら、満たされた欠食児童のように頷いた。
 軽く、鯖一匹分は食べたし味噌汁も鍋半分以上を平らげた。飯に至っては何合食べたか解らない。自分でも自分の腹がこれだけの量を収めることができたのだと、後で驚いた。
 男は3本目のシガリロに火を点ける。腹の虫が収まった欠食児童を見た。
「……何で?」
「ん?」
「何で、こんなことするのさ?」
 男に出して貰ったお茶――これは男の持参した焙じ茶――が入ったマグカップを見ながらストレートに聞いてみた。
「敵に塩を送るっていうか……こんな『下らない最期』はお前には相応しくない。ちゃんと、戦って死ぬべきだ」
「……」
 成威は更に怪訝な顔をする。
「お前の腕は戦う腕だと思うんだ。空腹で犬死はくだらないにもほどがある」
「それは……私とアンタがカタを付けようって言うの?」
「そう解釈してくれても構わない。俺かも知れないし、俺以外の誰かかも知れない。兎に角、平凡な死に方はお前の死に方じゃない。顔を見れば解る。ドンパチしながらでなきゃ、死に切れない顔をしてる」
 唇を吊り上げて冗談めかして言う男。
「兎に角、今日一日は大人しくしていろ。短時間にそれだけまとめて腹に詰め込んだらもうすぐ血糖値スパイクで頭が働かなくなる。俺を撃ちたいのなら、改めて機会を与えてやる。だから、今日は何もするな。長い食休みを取れ」
 即席のアルミ箔灰皿に3本目のシガリロを押し付けると、灰皿を丸めてズボンのポケットに押し込んだ。
「俺は帰る。【白河組】や情報筋にはココのことは一言も喋っていない。安心して安め」
 ジャケットの袖に手を通し、男女の事後の雰囲気を漂わせながらスタスタとセーフハウスから出て行く。
 成威が聞きたいことは半分も聞いていない。なのに、男がセーフハウスを去るまで成威は何も声を掛けることができなかった。
「……」
 あの男の最大の武器は他人の心の間合いにスルリと入り込んでくる馴れ馴れしさかも知れない、と思い始めた。

 結局、大人しくその日一日は寝て過ごした。H&K P7M13を常に抱いていたが、男が言う通りに、何も襲撃は無かった。
 やがてスタミナも思考も回復し、翌日には早速、別のセーフハウスへ移動して今後の計画を立てる事に没頭した。
   ※ ※ ※
「ドットポイントを変えてみるか」
 山間部にて9mmウッドチップを用いた射撃訓練の最中にふと呟く。
 夜間での銃撃戦がこれから頻発することを考えれば、黄色とオレンジのドットが打ち込まれたサイトより蛍光色のライトグリーンとレッドを打ち込んだサイトの方が有利かも知れないと考た。
 ルガーの男がどうやってセーフハウスを割り出したかは聞きそびれた。
 あの街のどこに隠れていようが、最早関係なくなったのは確実だ。丁寧にピッキングまで修得しているとなるとカギを用いた物理的な防犯も役に立たない。セーフハウスも鍵も役に立たないぞ、というアピールをしていたのかもしれない。
――――でも……。
「……何だろう?」
 何か『痛い』。
 心の片隅のほつれをチクチクと刺される小さな痛み。
 この先、あの男との衝突は避けられないだろう。
「……ああ。ウゼェなぁ。何だよ……全く」
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