貴(たか)い飛翔

 激痛と供に突き出た指の付け根が、ルガーのマガジンキャッチを押してグリップから弾倉が抜け落ちる。
 お互いの拳銃に装填されている弾薬は1発だけ。
 空かさず、成威の左肘打ちが男の鳩尾に叩き込まれる。
「ぐっ」
 歯を喰い縛った男は込み上げる物を飲み込むと右肘を成威の脳天に落とす。
「がっ!」
 ハンマーで殴られた一撃を感じて意識を失いかける。奥歯を噛み締めて耐えると左膝蹴りを男の腹部にめり込ませる。男の苦し紛れの左手刀は成威の右肩の骨に罅を入れた。
 体がダウン気味に深く沈んだ成威は男の脛に左の握り拳を執拗に叩き込む。
「!」
 男の右膝が成威の顔面を掬い上げ、右肘を延髄付近に落とす。
 脳髄を衝撃でシェイクされ続けて吐き気がしてくる。目の焦点が合わない。
 今にも崩れそうな体勢を立て直す駄賃と言わんばかりに、右踵の重い踏み込みで男の左爪先を踏みつける。男は歯を食いしばる。足の指の骨が何本かに罅が入った音を聞いたのだ。
「アアアアッ!」
「このっ!」
 下から突き上げる成威の頭突きと上から打ち下ろす男の額のヘッドバッドが正面衝突する。
「……」
「……」
 言葉も発することができない衝撃が二人の意識を一瞬だけ停止させた。
 硬直したまま動けない二人。
「……」
「……」
 眼球だけがぎょろりと剥いてお互いを睨む。
 スローモーションで映像を見るように男の左手が成威の胸倉を掴んだ。
 成威の左腕も伸ばされるが、空を掴んだだけで空振りに終わる。
 びりっ。
 力無く崩れ始めた男は膝を地につけまいと耐える。
 その時、成威の胸倉を掴んだ左手が、先の銃撃戦で既に破れていた彼女のトレーナーをさらに引き裂いた。
 深く掴んでいたのか、その下に着ていたシャツも乱暴に破ってしまい、フロントホックのブラも解放してしまう。
 素晴らしい肉付きと美しいラインをした豊満なバストが大きく揺れて外気に晒される。
「……」
 布切れを左手に握ったままの男は半歩踏み出して上体を持ち直した。
「……」
 露になった胸を隠そうともせず、成威は前髪の間から垂れてきた流血で汚れた額を半歩踏み出してきた男の胸に埋めた。
 たった半歩の距離。
 この僅かな間合いで、二人は頑なに右手の銃を離さず、右手の銃を使う機会を伺いながら、単純な殴り合いだけで過ごしてきた。
 二人はこの距離を焦がれていた。
 致命的な一撃を叩き込めるという意味ではなく。
 心の群雲を晴らすことができる絶対の距離。
 厳密に数えればこの15日間で最も安息な時間だった。
 女を胸に抱く。
 男の胸に抱かれる。
「『初めまして……さようなら』……」
「……」
 お互いの左掌が重なり合う。
 指先が自分以外の体温を感知した。
 次の瞬間、互いに掌を渾身の力で押し合い、両者、反発して大きく離れる。フラつく足取りで5歩づつ下がった。合計10歩の距離。
 命の遣り取りをするのには充分な距離。
 2つの銃口がお互いの心臓を狙う。
 二人供体勢を崩して今にも倒れ込みそうな消耗。
 それでも引き金を引いた。
「……」
「……下手」
 成威の左肩を銃弾が掠める。
 皮膚を削られただけだが、衝撃で体をコマのように回転させながら、地面に仰向けに倒れた。
「名前くらい、聞いてくれても良かったんじゃない? 男の方から名乗るのが礼儀よ……」
 いつの間にか月が昇っている。
 体が動かない。首が痛い。
「……悪い。今度からそうする」
 カチンとライターの蓋が閉じる音がする。
 シガリロを唇の端に咥えた男はそれきり喋らなくなった。
 仰向けに転がったまま、男は月夜の晩に生命が終焉した。
 男の左胸の痕からドス黒い血が溢れみるみるうちに血の池に浮かぶ。
 二人の結末にオチなんて無い。
 生きるか死ぬか。それが全てだ。

 つまらない感情に振り回されたものだ、と成威は鼻で嗤った。
   ※ ※ ※
「レポート読んでくれた? 未だ届いていない? だから電子メールを導入しなさいよ!」
 3ヵ月後、体の傷が癒えた成威は国際空港のロビーで公衆電話に向かって叫んでいた。
 命からがらの脱出劇を展開して、今日ようやく国際便に乗って国外逃亡が図れる。
 受話器を置き、大型ボストンバッグを手に取ると人込みに紛れる。
――――だから、何となく行き先を決めるのは嫌いなの!
――――特に日本は! 好きなことも嫌いなことも高低差が激しいから大嫌い!
 二つの銃痕が開いたフラスコをバッグの生地越しに撫でながら口を尖らせてツカツカと歩く。
――――何だか、傷心旅行みたいじゃないの!

 ある日の空港での出来事。
 一匹の女豹は、爪も牙も隠して暫く惰眠を貪ろうと思案していた。


《貴い飛翔・了》
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