斃れる迄は振り向くな

「あんたが満足行く仕事をしてくれれば、もう少しボーナスを出させて貰うさ。兎に角、この娘を指定の場所に引っ張り出してくれ」
 万事屋はテーブルの上に投げ出されていた写真と、写真に写っている人物の行動解析が記された書類を見た。
「柳原七佳ねぇ……この娘を殺す依頼でも舞い込んだのか?」
「個人情報保護のためにその辺は訊ねないでくれ……長生きしたいだろう?」
 半分ほどの長さになったラムセスⅡ世を床に吐き出して爪先で火種を踏む。
「解った。さて、見積もりを作成したいんだが……あんたの名前は?」
 万事屋は老眼鏡を掛けて手元のノートPCを開いた。
「……」
「名前だよ、名前」
 トルコ巻のラムセスⅡ世を咥え様としていた男は、ふと止まって暫く考えた。視線が左手の指に挟まれたトルコ巻に向けられる。
「…………」
「どうしたね?」
「ラムセス」
「は?」
「名前は『ラムセス』で。どうせ、本名で作成した見積もりなんか今までに一度も無いんだろ?」
 自分自身をラムセスと名乗った男はトルコ巻を咥えてレイバンのサングラスを指で押し、直して踵を返す。
「連絡はそこの紙に書いてある通りに頼む」
 ヤニで汚れたマホガニーのドアを開いてラムセスは万事屋の事務所を出た。
   ※ ※ ※
 自分自身が良からぬ企みに巻き込まれているのを全く知らないユニークモデルRボーリガードのオーナーである七佳は、睡眠導入剤のメイラックスに頼った安眠を3日間続けた。お陰で鎌首を擡げてきていた精神疾患が再び鎮まる。
 てっきり、寛解したと思っていた過呼吸が久し振りに再発したので少しばかりパニックに陥った。
 七佳は少し考えてみた。
 何故、あの程度で悪い発作を起こしたのか。
 今までに何度も同じ危機に落ちてきた。それでも発作が再発する直接の引き金には足りなかった。
――――違う!
――――『インスタント・キラー』の「仕事」じゃない。
――――プロだ。『戦闘のプロ』だ。
――――あの『空気』……『戦場の空気』だ。
 途端に、七佳の心拍数が上がってくる。
 アドレナリンが吹き出る感覚と脳内の何かを否定する電流が衝突して、脳裏にカンボジアの泥濘が投影される。
 戦場で発作を克服する瞬間と生死を実感する狭間と世界が一転する瞬間が同時に再現された。
「……戦わないと……『生きること』と戦わないと……」
 七佳の視界が歪む。
 焦点が定まらない。黒い世界が七佳を襲う。
 彼女が経験してきた最悪の戦闘が蘇り、現実世界と区別が無くなる。
 急激に足腰に力が入らなくなり、リビングの床に崩れるように倒れる。
「ヘッドクォーター……全レコンチーム……通達……アルファ、ブラボー……チャーリー、デルタは……『本隊』と合流……エコー、フォックストロット、ゴルフ……ホテル、インディアは撤収チーム……の援護……ジュリエット、キロ、リマは……マイクの……救援を組織……ノヴェンバー、オスカー、パパ……速やかに撤収地点を確保……ケベック……ロメロ……ケベック、ロメロ…通信が繋がら……ない……シェラ……タンゴ、ユニフォーム……ヴィクター、応答……しろ。応答しろ……ウィスキー、エックスレイ、ヤンキー……どうした? ……ズールーのシグナルは……確認できないか……コマンドポスト、指揮……指揮を……アルファからズールー……復唱は……復唱は……」
 見開いた虚ろな瞳は目前で……通信機の向こうで、軍属が伝達する情報で次々と死線を掻い潜って来たチームが壊滅していく様子を映していた。
 120人を超える戦友が指から零れる砂のように現世から脱落していく。
「…………転戦……なんか……じゃない……」
 表情無く床に転がる七佳の瞳に泪の粒が浮き上がり……落ちる。
「…………棄てられた……」
 体を胎児のように丸めて肩を抱く。
「……棄てられた……」
 体が小刻みに震える。
「棄てられた……」
 下唇を噛み締める。
 数回、激しい呼吸をすると、こう、叫んだ。
「くたばれ! アンクルサム!」
 その短い呪詛は、七佳の全ての細胞が搾り出した無念の咆哮だった。
 七佳の意識は混濁の底にフェードアウトする。



 自分が自分を取り戻したのはそれから何時間後だったか?
 置き時計を見ても全く参考にならない。
 頭が、『おかしい』。
 体が冷える。腹が減った。
 熱いシャワーを浴びて冷蔵庫を漁って何か食べる。何を食べたのか覚えていない。
 そもそも、自分が何故、『発作を起こした様』な倦怠感を覚えて床に寝転がっていたのか思い出せない。
 何を考えて何に帰結して……何を思い出して何にどんな感情を抱いていたのか? 一切が解らない。
 喉が渇く。
 冷蔵庫から取り出した、冷たいミネラルウォーターを片手にシャワールームに向かってゆっくり歩き出す。

 何も記憶に残っていないことだけがずっと記憶に残った。
   ※ ※ ※
 大口の依頼!
 顔に殴られた痣を作った若い女性からの怨恨絡みの依頼!
 沈痛な面持ちで縋る視線を七佳に投げかけてオファーを受けるか否かを待っている!
「引き受けた」
 七佳はしばらく考えている振りをしたが、2分程の沈黙の後に依頼を引き受ける返事を返した。
 心の中は躍り出しそうだった。
 ここ暫く、『インスタント・キラー』キラーばかり相手にしていたので、弾薬の枯渇が心配になっていたのだ。
 『インスタント・キラー』キラーに誘い出される際には多額の魅力的な金額が口座に振り込まれるが、実際に応戦してみると、弾薬代やクリーニングリキッド等の消耗品の代金で殆どが消える。
 ユニークモデルRボーリガードのようなマイナー製品ともなると、弾薬は何とかなっても、交換パーツは反吐が出るマフィアに頭を下げて流通ルートを紹介して貰い、足元を見た金額を毟り取られた上に何ヶ月も待たされてようやく、手元に数グラムのパーツが一つ届くだけなのだ。
 暗黒社会を生きる人間にもこの世は冷たい。
 どこの世界にも楽な商売は無い。
 そんな中に有って、今回の依頼は本物の依頼だった。
 少なくとも、七佳の『インスタント・キラー』としての勘は、この依頼を引き受けることに全く、懐疑の念を抱いていなかった。
 早い話が、勘も経験も台所事情も、この依頼を引き受けろ! 
と叫んでいたのだ。
 依頼を受けた瞬間の依頼者の喜びようは正に、殺し屋冥利に尽きる。
 混雑するファミリーレストランの真ん中で七佳の手を取って人目を憚らずシェイクハンド。
 七佳も戸惑った顔をしていたが内心でシェイクハンド。
 七佳は抱き付いて離れようとしない依頼人に困り顔のまま会計を済ませに向かった。
 その隣の席で新聞を読む振りをしていた男は老眼鏡を外して手元のハンドバッグから携帯電話を取り出し、然るべき人間にコールした。
「……ああ。ラムセスの旦那ぁ。ウチで雇った役者に娘が掛かったよ……巧くやってくんな」
 携帯電話に向かってそれだけ喋ると老眼鏡の男……万事屋は冷めたコーヒーを苦い薬でも飲む顔をしながら一気に飲むと席から立ち上がった。
   ※ ※ ※

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