斃れる迄は振り向くな

 暗い辻の中心でどこに誰が潜んでいるのかもしれない恐怖に急激に襲われる。
 銃口の先が小刻みに震え始める。
 目が白み、腹腔を圧迫される。
 喉に異物感が発生。
 呼吸が大きく早くなる。
「く……」
 明らかに過呼吸発作を起こしている。
 咄嗟に右掌を口に当てて、呼吸を整え、心を静めるように自己暗示をかける。
 瞬間的な自己催眠ではないので気休め程度の行動だ。
 これが悪化するのを回避するには、本人が取りたい体勢で1リットル容量の紙袋で口元を軽く覆いながら呼吸をするのが理想的だ。
 戦闘区域のド真ん中でそれが許されようもない。
 ましてや自分一人で戦力不明の敵対勢力と対峙しているのだ。間違えてもユニークモデルRボーリガードから手を離してはならない。
 不確定ながらも今、そこに潜んでいるかもしれない敵戦力は人間の感覚を撹乱させる方法を知っている。
 姿を見せず、視覚から得られる情報を制限させて独特のタバコの臭いで嗅覚を麻痺させ、頻繁な移動を繰り返しながら声が反響しやすい、狭い路地で御託を並べる振りをして聴覚の判断を鈍らせている。
 自分の存在を必要以上にアピールすることで、自分の姿を消してしまう戦法だ。
「!」
 見通しの良い路地の真ん中で、過呼吸に耐え兼ねて膝から崩れた七佳を一撃で仕留める魔手が襲いかからなかった。
 耐え切れず膝を付いてしまった七佳は自分の死が訪れたと覚悟した。
 左手に保持していたユニークモデルRボーリガードの銃口が45度以上、下方を向いた時、一切の敵戦力の情報が遮断……否、消失したことに気が付いた。
 臭いも声も察知できない。
 七佳は震える手でユニークモデルRボーリガードを右脇に挟み、右掌から耐熱軍手を毟るように脱いで、それをペーパーバッグ法の紙袋の代用とした。大した効果は無いが、気分的に安静になっている……気がする。
 視界の端に赤色の灯りが見えたので早く逃げようと立ち上がるが、千鳥足気味で壁に手を付かなければ、またも崩れそうだ。
「止まれ!」
「!」
 路地を出ようとしたところで、目前で急停車したパトカーに七佳の姿が捕捉された。
 ユニークモデルRボーリガードを構えようとするが、異常に重量を感じて手首に力が入らない。
 パトカーの車内から制服警官が正式採用のSIG P230JPを抜いて七佳に銃口を向ける。
 その瞬間だった。
 パトカーは車内から爆発。炎上。
 死に切れずに転がり出た警察官は膝立ちになろうとしたところを9mmパラベラム弾クラスの短機関銃の掃射で土嚢でも撃つように蜂の巣にされた。
 パトカーの車内では逃げ遅れた警察官がシートベルトに固定されたまま荼毘に付されている。
「!?……?」
 何が起きたのか全く理解できない七佳。
 誰がどの方向からパトカーを攻撃したのかも理解できなかった。
 兎に角、この機会を逃がしてはいけない。
 重い足に気合を入れて退散する。

 身の丈180cmの人影はトレンチコートを肩に羽織っていた。
 寒いというのに袖を通してはいなかった。
 足元に転がった9mmパラベラムの空薬莢を一瞥すると、左手で右胸のポケットを探り、両切りのラムセスⅡ世を一本、抜き取った。
 色の薄い唇がそれを咥えると、手品のように指先から伸びたストライクエニィホゥエアー・マッチをトレンチコートの真鍮のボタンに素早く擦り付け、ラムセスⅡ世の先端を炙った。
 馬小屋を髣髴とさせる独特の香りが流れる。
 この紫煙を旨いと感じるか不快だと感じるかは個人の問題だ。
 典型的なトルコ巻タバコ。
 重い紫煙を長く吐き出すと、炎上しているパトカーを何の感慨も無く見つめていた。
 その脇にある路地から這う這うの体で転がり出すように走り去るロングヘアの人影を確認すると、左手で顎の無精髭を掻いて満足そうに唇の端を吊り上げる。
「上手く生き残ってくれよ……」
 呟くと、踵を返した。
 革靴の爪先に40mm×46グレネードランチャーの空薬莢がカツンと当たり、空き缶が蹴り飛ばされる様に転がり、溝に落ちる。


「んっ……」
 七佳は貫頭衣型の寝巻き姿でベッドに倒れたまま2日間寝込んでいた。
 寝巻きは過剰な汗や体臭を吸っている。
 この2日間、実に長い悪夢にうなされている。
 覚醒した状態で見るフラッシュバックに似た悪夢。
 浅く眠っても深く眠っても不快極まりない悪夢が付いて回る。
 カンボジアで転戦していた頃の記憶がそのまま悪夢となって再現されているのだ。
 明晰夢だと認識できても覚醒することができない。
 自分の夢ですら夢として片付けることができない悪夢。
 夢は繰り返される。
 自動小銃を与えられた自分が恐怖に駆られて引き金を引き、気が付けばそれを放り出して泥水の中で過呼吸に襲われて手足が膠着している夢だ。
 それが眠っている限り続く。夢から覚めることも忘れて、夢が生きる空間であると勘違いするほどに長く続く。
 七佳が正常に目を覚ましたのは更に半日後だった。
 暫くは脱水症状でまともに思考は作動しなかった。
 氷をぶち込んだミネラルウォーターで半分に割ったスポーツ飲料を浴びるように飲み、小用を足すために何度もトイレを往復してようやく失った水分の補給を完了した。
 消費したカロリーを手っ取り早く補給するためにレトルトのビーフシチューを温めることもせずにレトルトパックに直接プラスプーンを挿し込み、胃袋に掻きこむ。最後に過量の各種サプリメントを嚥下する。
 発汗の作用で、まともな疲労を感じるまで微温湯の湯船に身を沈める。
 風呂から上がり、眠り過ぎからくる偏頭痛を黙らせるためにポンタールを服用して効果が出るまでセロリを根っこから齧った。
 一心不乱に悪夢から覚めたあとの処理に時間を費やす。
 一連の行動が全て何らかの特効薬でもあるかのように。
 遅れて回復した脳味噌にゆっくりと深い安眠を提供するためにメイラックスを飲んで再びベッドに倒れ込む。
 心地良い眠気を覚えた際に思い出したことは部屋のどこかに置いたユニークモデルRボーリガードのクリーニングだった。
  ※ ※ ※
「エキストラを用意してくれ。釣りのタネは幾ら掛かっても構わない。この娘を引き摺り出せるネタが他にあるのなら何でも言っくれ」
 飼葉を焦がした匂いを引き連れて、その男は喋り出した。
 依頼を引き受ける非合法な万事屋は鼻に慣れないトルコ巻に、露骨に顔を歪める。
 この寒い中、トレンチコートに袖も通さず肩に羽織っただけの恰好。
 鈍い色をした昼時にレイバンのサングラスを掛けたオールバックの30代後半と思われる男は、不健康な顔付きの割りに血色の良い唇を緩めて万事屋の男を見据えると咥え煙草で不敵に笑う。少なくとも口元は笑っていた。
「勿論、全額前払いで払わせて貰う」
 男の左手がスラックスのポケットから二つ折りにした小切手を抜き出した。
 万事屋は自分が座っている事務デスクの裏にガムテープで貼り付けていたグレンデルP10に手を伸ばそうとしていたが、その手を引っ込めた。
 トルコ巻を咥える男の手から小切手をゆっくりした動作で受け取った。この咥え煙草の男が信用できないのだ。
「!」
 万事屋は小切手の額面を見て目を剥いた。明らかに通常料金より2桁多い。
8/14ページ
スキ