駆けろ! 狼

 昼食であるMREのメインディッシュパックに先割れスプーンを突っ込んでそれを右手に持ったまま左手でノートPCのキーを叩く。
 メインディッシュパックのメニューはミートボール入りビーフシチュー。ノートPCの付近には開封したベジタブルクラッカーと未開封のパウンドケーキパックが無造作に転がっている。
「ふむ……」
 遠いコネの伝で回ってきた仕事依頼が舞い込んでいる。
 組織を裏切った人間を消して欲しいというごく有り触れた仕事だった。
 組織自体は大きなものではなかったが、裏切った人間は逃亡資金として約1億円と末端価格2億円相当の合成麻薬をかすめてトンズラしたという。
 逃亡先も判明している。
 敵対組織の傘下に収まっている密売組織だ。そこへ手土産のつもりで合成麻薬を持ち込んで保護を頼み込んだらしい。
 どんな経緯が有ったのかは知らないが、深入りしてまで報酬に欲を出すほどの依頼では無いと判断した。
 理由は簡単。
 この仕事を持って来た依頼人はこれまでも贔屓にしてくれている小さな組織で麻薬の密売くらいでしかシノギを集められない弱小ぶりだからだ。
 持ち逃げされた麻薬と金は諦めても、意地でも殺害して見せしめにしなければ組織の面子が立たないのだ。リーダーが、恐怖政治でしか締め付けができない程度の求心力しかない。
 素うどんのようにシンプル。
 依頼受諾の返信メールを送って更に詳しい情報の返信が返って来るまでにMREを平らげる。
 返信メールが届くまでに半日ほど掛かったが、パソコン用語のいろはも知らない機械音痴なので、地道に麻薬を売り捌く仕事しかできない連中だ。何も怪しいところは無い。これもよくあることだ。報酬もこちらが提示した金額のギリギリラインしか払えないと言う。……地道な暴力稼業だ、と自分に呟く。
「……」
 シガリロを咥えて窓際に立つ。いつもの癖で後頭部を掻く。
――――さて。仕事仕事

 携帯電話に転送した依頼内容と詳細情報を何度も閲覧して頭に叩き込む。
 浅葱色をした春物の薄いジャケットを羽織り、ショルダーホルスターの左脇にコルトダイヤモンドバックを収めている。
 薄い灰色のスラックスに履き慣れたスニーカー。
「……」
 仕事の現場を前にしてモンテクリストクラブを噛み締めるように味わう。
 標的は小物でも命の危険度が低くなるわけではないので、体内の様々な分泌液が溢れ返って沸騰していくのを感じる。これをクールダウンさせるのに一服は欠かせない。
 現場は廃船解体場の付近に繋留されている中国船籍の錆びた小型タンカー。
 十年近く前に近海で座礁してこの港湾部の廃船繋留場に曳航されてきたが船のオーナーが廃船処理費用を払えないという理由で放置されたまま朽ちている。
 潮風に晒され続けて酷い錆びが浮いている。乗り込むための唯一のステップも錆びだらけだ。
 防錆処理が始めから施されていないのかと呆気に取られる。
 突入の際にステップを一歩昇った瞬間、錆びで足元が抜けるのでは? と早くも心配だった。
 依頼を受けてから約2日後のこと。黄昏時には早い時間だった。
 約一日掛けてこの船に出入りする人間の数や風体を観察していたが、結構な人数に軽く口笛を吹いた。
 標的が逃げ込んだ組織ではVIP扱いを受けているらしい。
 麻薬という鼻薬が効いているのだろう。逃走資金の1億円も差し出したのかもしれない。
 決まった顔触れの第三国人と日本人がそれぞれ6人ずつ交代で出入りしている。標的の男が船上に顔を出した事は今のところ一度だけだった。
 下船はせず、煙草を2本吸っただけで直ぐに船内に戻った。
 船の内燃機関は完全に沈黙しているはずなのに夜になると灯りが点った。持ち運びできる小型の発電機でも用意しているらしい。
 船内にどれだけの数が潜伏しているかは不明。定期的に6人ずつがシフトを組んで気晴らしのために下船している。
 それに加えて標的が1人。
 敵の殲滅が目標ではない。標的の殺害が目的だ。雑魚に構っている暇は無いが狭い船内では挟撃を防ぐためにも殆ど全ての戦力を速やかに沈黙させるのが吉だ。
 今回は狭く内壁が固い金属部分が多いと想定してシルバーチップホローポイント弾を大量に用意してきた。
 いつもの弾丸では壁を撃ち抜いてその向こうの人間を殺傷させる事は無理だと思ったからだ。最近では真鍮にテフロン加工が施されたKTW弾が製造中止になったので優れた徹甲弾が手に入らない。
 現代の拳銃弾の主流は対人停止力に主眼が置かれているので無駄な侵徹力を持つ徹甲弾はあまり研究されていない。
 シルバーチップホローポイント弾を選んだもう一つの理由は跳弾し難いこと。
 直ぐに変形して金属のような硬い物に当たるとへばり付くかバラバラに砕け散るので自分で撃った弾丸が自分に返って来る危険性が低い。
 勿論それは射弾角の問題で平坦な金属面に対して一定以上の浅い角度で命中すればシルバーチップホローポイント弾でも跳弾に化けてしまう。
 朋絵はスポンジ状の耳栓を取り出して耳に詰める。
 狭い船内で激しい撃ち合いに発展した場合、耳を聾する発砲音で軽い朦朧状態に陥る事や鼓膜が破れることがある。それに何度もこんな狭い場所で鉄火場を経験していれば耳に障害が残って不自由な生活を余儀なくされる。
 夕陽が完全に埋没するまでにけりを付けたい。
 左脇にコルトダイヤモンドバックを仕舞ったまま新しくシガリロを咥えて火を点けながら船の墓場の相を呈する繋留所一帯を見下ろした。
「さて……」
 先程、交替があった。シフト交替の時間をざっと計ったところ、4時間交替らしい。
 時間的にも丁度、カタが付く頃だ。尤も、援軍を呼ばれては堪ったものではないので、さっさと終わらせたい。
 一歩ずつ踏み出す。
 大胆にも遮蔽物も何も利用せず迷う事も躊躇うことも無く目標の廃船目指して歩き出す。
 スラックスのポケットに手を突っ込んだまま澄ました顔で廃船のステップに近付く。
 今日は早く片付けて、久し振りに鮨屋で一杯やりながら板さんのお任せコースでジャンクフード慣れした味覚を叩き直してやりたい。
 船内の窓から朋絵の姿は確認されているかもしれないが全くお構いなしだ。
 国外逃亡を図っているらしいターゲットは迎えの船が来るまでこの船から離れる確率は低い。
 連中にはターゲットを守りつつ応戦という選択肢しか残っていない。逃げるという選択肢は有るが自分達の箔に瑕を付けたくないというのなら、命懸けで朋絵に対して反撃を試みるだろう。
 今時、そんな根性の座ったヤクザ者が居ればの話だが。

 スラックスにポケットを突っ込んだまま短い髪を潮風に靡かせてステップを昇っていく。潮錆びが剥げた部分だけ踏んでいれば安全だ。
「……」
 海に向かって3分の2程が灰燼に帰したシガリロを吹いて捨てる。
 甲板に踏み込む。連中が度々出入りしていたドアの付近で漸くコルトダイヤモンドバックを抜いて悠長にスイングアウトする。
 実包の尻に異常が無いことを確認するとシリンダーを戻して船内の窓に姿が見えないように頭を屈めて他の出入り口を探す。
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