犬の矜持
彼女の根っからの自由な気性は社会の歯車の一つに収まる事を選ばなかった。
実を言うと、私立探偵業が一番安全な職業だった。
万屋的な側面が強く、世間でも私立探偵と云えば便利屋か何かと勘違いされている風潮が有る。
人探しに素行調査は当たり前、粗大ゴミや廃材の引き取り先を探してくれという依頼も有る。排気ガスの排出権を売買している業者を探してくれという高度な調査依頼も有る。
小説のような謎解きは都市伝説級の噂話だ。同業者からもそんな探偵冥利に尽きる依頼は聞いたことが無い。
勿論、暗黒街の入り口である情報屋にも幾つかのネットワークを持っているために警察などの治安組織と衝突する事も有る。亜美は法を守る側の人間だ。暗い世界の魅惑を振り切って今、ここに存在している。そうれでこそプロの賞金稼ぎであると信じている。
――――絶対に今度こそ!
――――捕まえて突き出してやる!
――――それからブルゴーニュの赤ワインでウェルダンのサーロインを食べてやるんだから!
亜美は郊外の採石場跡地付近へ向かうバスの中で祝杯を呷る自分を想像しながら闘志を掻き立てていた。
数週間前に完全に逃がした懸賞金20万円の「大首」がまだ国内に潜伏しているという情報を入手したのだ。
あの日、小型ボートで出迎えられた「大首」は密出国用のランチに乗り込んだと思われていたが、実際は最終的に乗り込む海外渡航の大型貨物船に別件で捜査していた警察が乗り込んで手入れをしている最中だったために止む無く海外密出国は中止となったのだ。
「…………」
亜美は肩の骨と指の関節を鳴らして唇をキッと結んだ。僅かに眉間に皺が寄っている。
国産表示がラベルに記されているミネラルウオーターの500mlボトルの封を切って一口呷る。身体中の熱い闘争心で喉の奥から乾ききっている。緊張とは違った喉の渇きを覚えていた。
いつものように体の動作を妨げ難い活動的なファッション。
ベストの右裾を捲れば、右手で抜き易いようにホルスターがベルトに通されている。左の裾を捲れば予備弾倉の3連ポーチ。内ポケットには弾薬サックを落としてある。
情報屋を介して入手したネタでは「大首」の他に「大首」級の重犯罪者5人と、飯場と事務所を兼ねた大型の建物――安普請でプレハブに毛が生えた程度の拵え――を根城にしていると言う。
何も懸賞金が大きいから銃火器に精通しているとは限らない。
寧ろ他の『反社会的行為』が目立って、逃亡するために護身用として拳銃で武装している場合が多い。小物ほど、強力な火器を携行しているものだ。
都合の良いことにまたしても建物内部で息を潜めて逃がし屋との繋ぎを待っていると言う。
「大首」にどんな罪状が掛けられているのかは忘れた。咄嗟に思い出せない。懸賞金20万円という金額だけが脳裏に焼き付いて離れない。
そんな大物が他に5人。前回同様、逃亡する為だけに集まった集団だろう。それぞれが連携を持っているとは考え難い。
どんな得物を持っているのかまでは解らない。一人に付き最低、拳銃1挺は携行していると考えた方が良い。暗黒社会で拳銃も買えない人間が逃がし屋と繋ぎを取る手段だけを知っているなんて不自然な話だ。
「……」
目の前に錆びたフェンスに囲まれた広大な採石場跡が広がる。
うずたかく積み上げられて小高い山を成す砂利と錆びた資材。
早くも不法投棄のメッカになっているのか、大型家電製品や廃車が無造作に転がっている。
所々に8畳間位の広さの小さなプレハブ小屋が建っているが、窓ガラスは全て取り外されて何れも人の気配が全くしない。外部から窺うに、中は資材や工具を収納しておく倉庫として使われていた様だ。
ベストのハンドウォームにペットボトルを押し込んで、一番大きな建物を目指した。
出来るだけ廃棄されたゴミや砂利山を遮蔽物として警戒しながら近付く。
一度、ポケットから携帯電話を取り出して送受信できる範囲である事を確認する。
――――突入は簡単そうだけど……。
3階建ての建物の窓から外を窺う姿は幾つか確認できたが頻繁ではない。
出入り口は1ヶ所だけ。非常階段の類は取り払われており、それへ通じるはずのドアだけが確認できる。
1階部分を1周したが出入り口は矢張り1ヶ所のみ。
本当ならばもう1ヶ所有ったのだが、外部から鎖で堅牢に封鎖されている。内部から人力で破るのは不可能だ。
空を仰ぐ。日が傾き始めた。
夕陽に変わるまでにカタを付けなければ不利だ。
逃げられるかもしれないし数で圧倒されて窮地に立たされるかもしれない。わざわざ蛍光灯を点けてからドンパチの続きをしてくれるような紳士が居るとは思えない。
出入り口はスライドドアが一枚だけだった。もう一枚は拉げて建物の壁に立て掛けられている。ラッカーの落書きがされている事から、はるか前からここを根城にしていた何物かが居たらしい。
嘗ては暴走族か不良の溜まり場だったのだろう。
ホルスターからワルサーPPスーパーを抜いて安全装置を解除する。スライドを引いてからスライドストップを掛けて弾薬サックから取り出した実包を薬室に直接指で送り込んでスライドリリースレバーを下げる。これでこのワルサーPPスーパーは8発の実包を装弾している事になる。
気が逸ったか、悋気が勝ったか。
亜美は出入り口に向かって猛然と駆け出した。
たった10数mの距離。
建物の壁に背を預けてリップミラーを素早く翳して出入り口から見える内部の範囲を頭に叩き込む。
「……」
ここに到達するまでに建物からは一切の銃声は無い。足音が忙しくなる様子も無い。
取り敢えずはクリア。
連中が全員ノミの心臓でガタガタ震えていることを願うのは早合点というものだ。
警戒しながら建物内部に踏み込む。
事務所らしき部屋が2ヶ所と仮眠室らしき部屋とちょっとした資材倉庫が有っただけ。
使用感が有る簡易汲み取り式トイレと給湯室。連中はこのトイレを使用しているのだろう。
給湯室は砂埃だらけで人間が使用した形跡は無い。蛇口に指紋が付いているが、水が出るかどうか試したのだろう。
2階へ通じる階段は1箇所のみ。人間2人が横に並んでも肩が擦れ違わない程の幅だ。
電灯の類は全て死んでいる。電源自体供給されていない。従って、これだけの規模の建物で電灯が無いということは建物中心部では日の光が差し込まずに難儀する。
――――合計6人!
それを何度も念じる。心の中で繰り返す。
法規を守るという意味で1階の探索では拳銃を抜かなかった。
安全装置を解除したワルサーPPスーパーをホルスターに差し込んでグリップを握っていただけだ。勿論、これは非常に危険な運用方法で暴発の可能性が高い。咄嗟に撃って射殺しても、自分が訴えられた場合、裁判で少しでも有利にするための揚げ足を取った行動だ。
2階へ通じる階段に足を掛けてみる。全体重を掛けても軋み一つしない、しっかりとした造りだった。体を左半身にして壁際に背を当てながら20段ほどの階段をゆっくり1段飛びに昇って行く。
昇り切る前にリップミラーを取り出し、半開きのドアの隙間に挿し込んで部屋の内部を映し出す。
「……!」
人は居ないが奥の方で話し声が聞こえる。
この階段を昇り切れば今度は3階へ通じる階段なのだが2階から制圧する事にした。
実を言うと、私立探偵業が一番安全な職業だった。
万屋的な側面が強く、世間でも私立探偵と云えば便利屋か何かと勘違いされている風潮が有る。
人探しに素行調査は当たり前、粗大ゴミや廃材の引き取り先を探してくれという依頼も有る。排気ガスの排出権を売買している業者を探してくれという高度な調査依頼も有る。
小説のような謎解きは都市伝説級の噂話だ。同業者からもそんな探偵冥利に尽きる依頼は聞いたことが無い。
勿論、暗黒街の入り口である情報屋にも幾つかのネットワークを持っているために警察などの治安組織と衝突する事も有る。亜美は法を守る側の人間だ。暗い世界の魅惑を振り切って今、ここに存在している。そうれでこそプロの賞金稼ぎであると信じている。
――――絶対に今度こそ!
――――捕まえて突き出してやる!
――――それからブルゴーニュの赤ワインでウェルダンのサーロインを食べてやるんだから!
亜美は郊外の採石場跡地付近へ向かうバスの中で祝杯を呷る自分を想像しながら闘志を掻き立てていた。
数週間前に完全に逃がした懸賞金20万円の「大首」がまだ国内に潜伏しているという情報を入手したのだ。
あの日、小型ボートで出迎えられた「大首」は密出国用のランチに乗り込んだと思われていたが、実際は最終的に乗り込む海外渡航の大型貨物船に別件で捜査していた警察が乗り込んで手入れをしている最中だったために止む無く海外密出国は中止となったのだ。
「…………」
亜美は肩の骨と指の関節を鳴らして唇をキッと結んだ。僅かに眉間に皺が寄っている。
国産表示がラベルに記されているミネラルウオーターの500mlボトルの封を切って一口呷る。身体中の熱い闘争心で喉の奥から乾ききっている。緊張とは違った喉の渇きを覚えていた。
いつものように体の動作を妨げ難い活動的なファッション。
ベストの右裾を捲れば、右手で抜き易いようにホルスターがベルトに通されている。左の裾を捲れば予備弾倉の3連ポーチ。内ポケットには弾薬サックを落としてある。
情報屋を介して入手したネタでは「大首」の他に「大首」級の重犯罪者5人と、飯場と事務所を兼ねた大型の建物――安普請でプレハブに毛が生えた程度の拵え――を根城にしていると言う。
何も懸賞金が大きいから銃火器に精通しているとは限らない。
寧ろ他の『反社会的行為』が目立って、逃亡するために護身用として拳銃で武装している場合が多い。小物ほど、強力な火器を携行しているものだ。
都合の良いことにまたしても建物内部で息を潜めて逃がし屋との繋ぎを待っていると言う。
「大首」にどんな罪状が掛けられているのかは忘れた。咄嗟に思い出せない。懸賞金20万円という金額だけが脳裏に焼き付いて離れない。
そんな大物が他に5人。前回同様、逃亡する為だけに集まった集団だろう。それぞれが連携を持っているとは考え難い。
どんな得物を持っているのかまでは解らない。一人に付き最低、拳銃1挺は携行していると考えた方が良い。暗黒社会で拳銃も買えない人間が逃がし屋と繋ぎを取る手段だけを知っているなんて不自然な話だ。
「……」
目の前に錆びたフェンスに囲まれた広大な採石場跡が広がる。
うずたかく積み上げられて小高い山を成す砂利と錆びた資材。
早くも不法投棄のメッカになっているのか、大型家電製品や廃車が無造作に転がっている。
所々に8畳間位の広さの小さなプレハブ小屋が建っているが、窓ガラスは全て取り外されて何れも人の気配が全くしない。外部から窺うに、中は資材や工具を収納しておく倉庫として使われていた様だ。
ベストのハンドウォームにペットボトルを押し込んで、一番大きな建物を目指した。
出来るだけ廃棄されたゴミや砂利山を遮蔽物として警戒しながら近付く。
一度、ポケットから携帯電話を取り出して送受信できる範囲である事を確認する。
――――突入は簡単そうだけど……。
3階建ての建物の窓から外を窺う姿は幾つか確認できたが頻繁ではない。
出入り口は1ヶ所だけ。非常階段の類は取り払われており、それへ通じるはずのドアだけが確認できる。
1階部分を1周したが出入り口は矢張り1ヶ所のみ。
本当ならばもう1ヶ所有ったのだが、外部から鎖で堅牢に封鎖されている。内部から人力で破るのは不可能だ。
空を仰ぐ。日が傾き始めた。
夕陽に変わるまでにカタを付けなければ不利だ。
逃げられるかもしれないし数で圧倒されて窮地に立たされるかもしれない。わざわざ蛍光灯を点けてからドンパチの続きをしてくれるような紳士が居るとは思えない。
出入り口はスライドドアが一枚だけだった。もう一枚は拉げて建物の壁に立て掛けられている。ラッカーの落書きがされている事から、はるか前からここを根城にしていた何物かが居たらしい。
嘗ては暴走族か不良の溜まり場だったのだろう。
ホルスターからワルサーPPスーパーを抜いて安全装置を解除する。スライドを引いてからスライドストップを掛けて弾薬サックから取り出した実包を薬室に直接指で送り込んでスライドリリースレバーを下げる。これでこのワルサーPPスーパーは8発の実包を装弾している事になる。
気が逸ったか、悋気が勝ったか。
亜美は出入り口に向かって猛然と駆け出した。
たった10数mの距離。
建物の壁に背を預けてリップミラーを素早く翳して出入り口から見える内部の範囲を頭に叩き込む。
「……」
ここに到達するまでに建物からは一切の銃声は無い。足音が忙しくなる様子も無い。
取り敢えずはクリア。
連中が全員ノミの心臓でガタガタ震えていることを願うのは早合点というものだ。
警戒しながら建物内部に踏み込む。
事務所らしき部屋が2ヶ所と仮眠室らしき部屋とちょっとした資材倉庫が有っただけ。
使用感が有る簡易汲み取り式トイレと給湯室。連中はこのトイレを使用しているのだろう。
給湯室は砂埃だらけで人間が使用した形跡は無い。蛇口に指紋が付いているが、水が出るかどうか試したのだろう。
2階へ通じる階段は1箇所のみ。人間2人が横に並んでも肩が擦れ違わない程の幅だ。
電灯の類は全て死んでいる。電源自体供給されていない。従って、これだけの規模の建物で電灯が無いということは建物中心部では日の光が差し込まずに難儀する。
――――合計6人!
それを何度も念じる。心の中で繰り返す。
法規を守るという意味で1階の探索では拳銃を抜かなかった。
安全装置を解除したワルサーPPスーパーをホルスターに差し込んでグリップを握っていただけだ。勿論、これは非常に危険な運用方法で暴発の可能性が高い。咄嗟に撃って射殺しても、自分が訴えられた場合、裁判で少しでも有利にするための揚げ足を取った行動だ。
2階へ通じる階段に足を掛けてみる。全体重を掛けても軋み一つしない、しっかりとした造りだった。体を左半身にして壁際に背を当てながら20段ほどの階段をゆっくり1段飛びに昇って行く。
昇り切る前にリップミラーを取り出し、半開きのドアの隙間に挿し込んで部屋の内部を映し出す。
「……!」
人は居ないが奥の方で話し声が聞こえる。
この階段を昇り切れば今度は3階へ通じる階段なのだが2階から制圧する事にした。