犬の矜持

 脚力には自信が有るが引き離される一方だ。
「さ、酒代……」
 岸壁から男が飛び降りたのを見た。
 その直後に小型モーターを搭載したボートが悠然と水面を駆けるのが見えた。ボートには3人乗っていた。ランチからの迎えのボートらしい。
「そ、そんなぁ……」
 泣きそうな声を出して下唇を噛む。
 肩を落としてぺたんと座り込む。
 大きな落胆の溜息を吐くとポケットから携帯電話を取り出して警察と救急に連絡した。
 一応通報の義務が有るのでそれを果たしただけだ。義務が有ると言うことは、この後に警察にこってり油を搾られるということでもある。
 携帯電話をポケットに仕舞って座り込みながら半べその表情で中途半端に消費した弾倉に次々と補弾する。
 背中が物悲しい雰囲気を漂わせて今夜の祝杯が苦い腹癒せに変わるのを窺わせていた。

 後日談。
 予想通り警察には叱られたが、懸賞金を出さないというのとは話が別なので、取り押さえた7人の裁判が有罪であれば、ちゃんと亜美の口座に懸賞金は振り込まれる。
  ※ ※ ※
 「大首」を取り逃がしてから2週間経過した。
 2ヶ月に一度の義務付けられている射撃訓練の為に急行電車で30分程の場所に有る大規模な警察署まで来た。
 25mmクラスのシューティングレンジが特設されており、各分野の司法警察の射撃訓練場になっている。
 民間人でコンシールドライセンス所持者はこのような射撃訓練場を設けている警察署に出向いて30発以上の弾丸を習熟のために消費する。
 勿論、持ち込める最大弾数は50発までだ。
 自衛用拳銃弾の購入窓口は警察署だが、どこの警察署でも簡単に購入できるわけではない。
 公安委員会指定の警察署で各種手続きを行って欲しい弾種と弾数を申告して入荷を待ち、後日再び出頭して受け取らねばならない。
 20ほどのシューティングブースが並ぶ射撃訓練場内では必ず弾倉と薬室から実包を抜いて携行しなければならない。
 射撃訓練の際も咥え煙草で片手をポケットに突っ込んで正規のイヤープロテクターも付けずに発砲すると厳しい罰則の対象となる。
「……」
 シューティングレンジで万が一の暴発に対処するために透明な軟質プラスチックで出来たシューティンググラスを掛ける。
 イヤープロテクターを被り、初めてワルサーPPスーパーをアルミ製のキャリングケースから取り出す。
 スライドは後退してスライドストップが掛かったままだ。
 弾倉は抜いてある。
 空の弾倉を手に取り、巡回する教官に注意されないように慎重に実包を装弾していく。
 7発の9mmポリス弾を装弾した弾倉を挿し込んでスライドリリースレバーを親指で下げる。
 心地良く乾いた金属音と共にスライドが前進して初弾が薬室に送り込まれる。
 撃鉄は倒れた位置で待機する。引き金は通常位置から後退する。つまり、ワルサーPPスーパーは全弾撃ち尽すと弾倉を再装填してスライドを前進させてやれば戦闘体勢が整っている訳だ。
 グリップを右手でしっかり保持する。
 腕と拳銃を持つ手首を真っ直ぐに伸ばした時、人差し指と親指がVの字を形成しVの字の底部にグリップ背面がぴったり押し当てられた状態でないとガク引きを起こす。
 人に拠っては掌と拳銃の相性が悪くこの保持が出来ない場合が有る。そんな時はグリップパネルを薄型に交換するか引き金の通常位置を僅かに後退させるように工具で調節するものだが、日本国内の自衛用拳銃に関する規則では一切の改造行為は違法とされているので諦めるしかない。
 幸いな事に亜美とワルサーPPスーパーの相性は良い方だった。
 亜美は射撃訓練の度に心で笑う。普段の標的は『生きた、動く人間』なのだ。ペーパーターゲットでは無い。
 更に言えばペーパーターゲットの様な静体目標と移動する動体目標では照準の定め方が違うのだ。
 静体目標は照門、照星、標的の順で狙うが動体目標は照星、標的、照門の順で狙いを定める。
 実際に銃を構えれば解る事だが、これは人間の動体視力に大きく関係する。これを直感的に補足するために照門や照星にカラードットが打ち込まれている。
 標的が反撃もせずに動かないのなら悠長に構えればいい。賞金稼ぎの側面を持つ亜美にとってはこんな射撃訓練は欠伸が出る茶番でしかない。
 ただの義務的な射撃訓練。
 亜美は好成績を叩き出して、つまらない教官やスポーツ射撃インストラクターにスカウトを掛けられても面白くもなんとも無いのでわざと10点圏を外して撃った。ひたすら、7点7時から9時を狙って無意味に空薬莢を撒く。
 ライフリングが熱膨張で早く磨耗してしまわないように1発撃つ毎に5秒以上の間隔を空けてリズム良く撃つ。
 1弾倉分が終了すると態々ベンチに腰掛けて疲れた振りをして銃身が冷えるのを待つ。こうしておけば急激なライフリング磨耗に拠る横転弾……キーホール現象が起き難い。
 横転弾と言ってもFNファイブセヴンのタンブリング現象とはまた別の現象だ。
 この射撃訓練自体は大事な意味が有るのかも知れない。だが、今直ぐにでも大量の弾薬が欲しい人間にとっては酷な義務だ。
 ここで30発消費するということは、然るべき手続きをしてしばらくく待たないと弾薬が補充できないという意味だ。
 亜美はそれが憂鬱だった。ここは日本だ。BB弾感覚で夥しい9mmパラベラム弾をバラ撒くアメリカではない。
 全ての弾薬はミネベアでライセンス生産された国産物だ。
 具体例を挙げれば長距離射撃で使用される世界最高級のファクトリーロードの射的用実包1発と国産32ACP弾5発が同じ値段なのだ。
 コンシールドライセンス施行当初、高額納税者しか自衛用拳銃を所望しなかったのは自然な流れだろう。単純計算すれば自衛用拳銃の5分の4が税金だ。
 国民から金を巻き上げる手段に関しては天才的に頭を回転させる議員の先生達には脱帽する。貧乏人は勝手に犯罪に巻き込まれて勝手に死ねとも聞こえる! と非難されても仕方ないだろう。
 日本に全米ライフルマン協会に相当する組織は有るが国政に口出しできる力は無い。精々、猟友会の会員名簿を作成するのが関の山だろう。
 自衛用拳銃所持者の名簿は公安委員会が完全に握っているために政治とは切り離して管理されている。その水面下で絶妙に政争の道具にされている嫌いが有るのは誰もが感じている。
 結局、自衛用拳銃所持者は拳銃所持と引き換えに無理矢理高額な税金を納めさせられているのと変わらない状況にある。
 それを身を以て痛感している亜美はその日の晩、壁に向かってくだを巻くように一人でホルモン焼き屋でバラとハチノスをつつきながら酎ハイを痛飲した。

 2週間後。
「これで良し」
 義務的に小型金庫の様なガンロッカーの鍵を閉める。
 今し方、警察を介して購入した9mmポリス弾とワルサーPPスーパーをガンロッカーに収めた所である。
 射撃訓練に通った日から今まで、弾薬が心許ないので賞金稼ぎは開店休業で警備会社で臨時社員として勤務していた。
 警備会社側としては拳銃所持許可証を持っている亜美を手放したくなかったので高い時給を払ってくれる。
 今ではどこの警備会社も高額所得者専用の警備部門の社員になるための条件として拳銃所持許可証の有無を設定している。
 私立探偵よりも実入りが良いので金欠で空き腹を抱えている時は何度、警備会社に就職しようかと考えたか知れない。
8/10ページ
スキ