犬の矜持

「んっ」
 クリスタルゲイザーをグイと一口飲む。
 あまり飲み過ぎても尿が溜まるので喉を軽く潤す程度で止めている。遮蔽物を伝うごとにこのボトルを呷っている。
――――お。
 プレハブの窓に時折人影が見える。
 3ヶ所ある出入り口の内、2ヶ所はドアが付いているが1ヶ所だけドア自体が無く、電灯が消えている薄暗いプレハブ内部が窺える。……どう考えても突入する場所はその1ヶ所しか無い。
 全ての弾薬を携行しているが法規上50発しか所持、携行できない。
 長時間の撃ち合いになったら明らかに分が悪い。そもそも撃ち合うほどの携行弾数ではない。視界に飛び込んできたら『法律を守って、先に撃たせてから』即、引き金を引くしか戦法は無い。
 チームを形成する賞金稼ぎなら様々な戦法が考えられるが、生憎と亜美は賞金稼ぎも個人経営だ。チームを作れば賞金の分け前で一悶着が起きれば面倒だ。分け前の違いから解散したチームをいくつも知っている。
――――兎に角、大首1人に小物7人!
 その金勘定を嚥下してようやくプレハブ内部の動きを場所を変えつつ窺うが連中は窓の外を引っ切り無しに警戒する真似はしなかった。
 完全に閉じ篭って無人を装っている。時折、廃棄されたトイレブースを利用する為にスライドドアが2枚とも取り払われた出入り口から男が出てくる。
 再び亜美は移動する。
 冷や汗を流しながら、トイレブースの裏まで廻り、半鐘のように五月蝿い心臓を押さえる為にクリスタルゲイザーを一口含む。
 窓に自分の体を晒さないように頭を低く屈める。
 両手は徒手のままで出入り口まで近付く。銃を抜いたまま近寄っていれば裁判を起こされた時に殺意の所在を巡って話が拗れる場合が有るのでできるだけ銃は後に抜くようにする。
 今日のホルスターは左腹の辺りにベルトを通して固定している。右手で素早い『抜き』が出来るタイプのホルスターだ。
 いつも通りレザーベストの左内ポケットに予備弾倉を落とし、左ハンドウォームと重なった外部ポケットに弾薬サックを落としている。恐らく本格的な撃ち合いになったら空弾倉に弾薬サックのバラ弾を補弾している暇は無いだろう。
 連中の実質的な戦闘力は誰も亜美一人には敵わないかもしれない。だが、下手な鉄砲が揃っているのが問題だった。
 できるだけ身軽な状況で高飛びする積りだからそれほど強力な火器は携行していないと思い込みたい。それを否定するように頭の中で危険を報せるサイレンが鳴っている。
 コントロールの難しい小型短機関銃でも、射程距離が短いソウドオフした散弾銃でも、弾薬自体の殺傷力は何も変わらない。
 連中が少し冷静になって連携を執れば亜美は途端に窮地に陥る。
 拳銃稼業を生業にする人間は合計8人の中に1人も含まれていないが8挺の火器は単純に脅威だ。
 警察に通報されて賞金が水の泡となるのは避けたいので電撃的に攻勢に転じる必要がどうしてもあった。
 何も殺す必要は無い。無力化するだけの怪我を負わせればそれで済む。
 たった1発の9mmポリス弾でも腹の真ん中に命中すれば重傷で動けなくなるのは必至。腹を外したとしても太腿に命中すれば御の字だろう。
 ライフル弾ではないので被弾した衝撃が血管を瞬間的に圧迫して心臓が破裂する事は無い。ましてや9mmパラベラムより弱装の護身用拳銃弾ならそんな悪魔的な破壊力は絶対に望めない。即ち、オーバーキルは心配しなくていい。
――――さて……と。
 風が自由に吹き込んで埃が渦巻いている出入り口まで来るとリップミラーを取り出して影から突き出して内部を窺う。
 薄暗い。この時間帯――曇り空の昼下がり――の窓から差し込む自然の明かりで光源の確保には困りそうに無かった。
「……」
 リップミラーで更に観察する。
 1階部分には殆ど人の気配を感じない。時々2階で物音がする程度だ。「だから1階に人は居ない」と早合点するのは間違いだ。
 息を殺して1階に隠れている対象も居るかもしれない。
 リップミラーを左手に保持したまま右手を左脇腹を押さえるような恰好でプレハブ内部に一歩踏み込む。
 クッションの効いたラバーソールを採用したスニーカーのお陰で砂利を踏む音すら殺してしまう。
 角を見つければ、曲がる前には必ずリップミラーで確認する。
 スチールデスクやスチールロッカーが乱雑に並ぶ空間。嘗ては人が頻繁に出入りしていた部屋であることを物語っている。
 ドアは2ヶ所。外部からの観察ではこの2ヶ所のドアの内一つが2階へ通じる階段が有る廊下に出られるようになっている。
 1階部分の探索に全力を傾ける。1階のクリアを確保すれば安心して2階へ上がる事が出来る。それを怠って階段部分で1階と2階から挟撃を受ければ亜美の命は風前の塵に等しくなる。
 意を決して2ヶ所あるドアの1つを開ける。銃弾は飛んでこない。リップミラーで探索しても人の気配や隠れる場所すら見当たらない空間だった。
 常に心臓を凍った手で握られている気分で次々とドアを開ける。2階の人間が降りてきても不審がられないようにドアをきっちり閉める。
 最初に突入した出入り口から一番奥の1階給湯室まで安全を確保する。給湯室は埃だらけで人が使った形跡は無い。蛇口にも埃が付いている。だれもこの給湯室の水道を使っていない。蛍光灯も外されている。
 2階で足音や物音がする度に猫のように身を縮ませて息を殺す。ドアを開閉するたびに歪んだアルミ枠がサッシを削り金属同士が擦れる嫌な音を立てる。
――――誰!?
 2階から降りてくる足音。
 調子の外れた口笛を吹きながら、無警戒に大きな足音を立てて廊下を歩き外に出た。
 給湯室付近の窓からリップミラーでその足音の主を探る。茶髪の30代近い男がトイレブースに入る姿が直ぐに確認できた。
 どうやら、このプレハブに亜美という闖入者がいることに気が付いていない。僥倖。
 その男がトイレブースから出てきて再び駆け足気味で階段を昇って行く。
 男が階段を昇降してくれたお陰で階段の軋み具合が分かった。
 亜美程度の質量が階段を移動しても大した雑音を立てないだろうと判断できた。
 給湯室に到着したのとは違うルートで1階部分を警戒しながら前進する。リップミラーが手放せなくなっている。
 結局、スチールデスクが並ぶ事務所だと思われる空間に戻ってきてもう一つのドアを凝視する。
 ここからが本番だ。
 クリスタルゲイザーを軽く呷ってポケットに押し込む。
 左腹辺りを右掌でかざす恰好で左手でドアノブを握る。
 アルミの冷たく安っぽい感触が亜美の掌を伝って大袈裟に肺の空気を押し出した。
 ドアを開けて出来るだけ足音を殺す。体重で軋む音さえも、下半身の筋骨のクッションで緩和させて音を殺す。
 階段の3分の2ほどを昇ったところで談笑しながらやって来る2人分の気配を感じた。
 もう、隠れる場所は無い。急いで引き返すにしても手遅れだ。
「! 何だ!」
 策を講じる間も無く男たちの姿を視界に納める。男たちも亜美の姿を視界に捉える。
 紺色のジャンパーを着た20代後半くらいの痩せた男はジャンパーのジッパーを下ろして懐に手を突っ込んだ。茶色のセーターを着た30代後半の不健康そうな顔をした口髭の男は後ろ腰に右手を回した。
 2人供、4インチ銃身の酷く鈍い銀色をした密造リボルバー拳銃をあたふたと抜き、ロクに照準も定めず銃口を亜美に向けた。
 亜美は足場である階段のその場で高くジャンプして空中で身を小さく屈めた。
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