犬の矜持

 古くからの友人たちの証言では、亜美という人物は呑み会の席ではキス魔になったり脱ぎ癖が出たりと可愛らしくも傍迷惑な存在らしい。
 打ち震える鐘の中から出てきたように痛む頭を掻きながら重い足を引き摺って冷蔵庫まで来ると半分程になっているボルヴィックを取り出して無造作に呷る。
「……」
 不意に視線を振る。
 その先にはリビングが有ったのだが、見事なまでに酒盛りの後だった。
 後頭部を掻いてコメカミを引き攣らせるが全く思い出せない。
 これではまるで『何人かと酒盛りをした後に流れで一発、許しちゃいました』という図式しか浮かんでこない。
 若しもゴミ箱に使用済みのゴム製品が捨てられていたら迷わず9mmポリスでコメカミを撃ち抜く所存だ。それも単発ではなく、ハンマーシアーを削って違法にフルオート化したワルサーPPスーパーで頭部が原形を留めないほどに。
 折角、良い気分のまま、惰眠を貪ってやろうと決めていたのに結局いつもの時間に起きてしまった。
 アルコールで乾いた喉をボルヴィックで癒したら急に尿意を催し、大きな欠伸をしながらトイレに入った。

「さて……」
 シャワーで寝汗を洗い落とし、トマトジュースと5枚切り食パンのトースト2枚だけの簡単な朝食を終えた。
 やる気が無くなったらそこで休業な商売柄、一応表看板には【営業中】のプレートを掲げる。
 都道府県知事の認可が必要な興信所と違って私立探偵は自分で勝手に名乗って商売できる気軽な何でも屋だ。
 だから兼業している私立探偵の地位は低く、残念ながら暗黒社会と深い繋がりを持つ人間が多い。明るい世界を歩くより暗い世界を渡り歩いた方が収入が多いのは当たり前だからだ。
 亜美は辛うじて明るい世界を歩く人間だ。
 自分が拳銃を所持することを認められた人間であるという自負が彼女の心に堅く強い安全装置を掛けている。
 普段、拳銃は金庫のように頑強な小型ガンロッカーに仕舞ってある。仕事上でも私立探偵として仕事をしている時は必要無ければ拳銃は携行しない。
 自宅のオフィススペースに出てパソコンを立ち上げてメールを確認するが相変わらず依頼が皆無。
 宣伝費用を捻出するほど儲かっていない。
 溜息を吐いて警察庁のホームページを覗いて掲示する懸賞首を確認する。
 先ほどとは少し違ったニュアンスの溜息を吐く。
 かなりの重犯罪者が羅列されているのに懸賞金が命を賭けるにはリスクが大き過ぎるのだ。
 そして、どうやら今日も拳銃を携えてそのリスクを自分から背負わなければならないという事実を受け入れた。
  ※ ※ ※
――――頑張れ自分!
 懸賞首の情報を手に入れるために立ち寄った店。
 少しばかり気合を入れる。
 今日はいつものショルダーホルスターではなく後ろ腰に銃を斜めにして差し込むタイプのバックウエストホルスターを装着している。
 予備の2本の弾倉はレザーベストの内ポケットに落としている。
 コンシールドライセンスカード……自衛用拳銃携行許可証の所持を確認し、革の弾薬サックに納まった20発のバラ弾を重量で確認した。
 午後8時の繁華街の雑踏に紛れてぽつんと存在するクラブバー。
 20段ほどの階段を降りて真正面のドアを開ければ情報を握る人間に接触できる。
 前もってアポを取っていない。伝の有る情報屋からの紹介でも無い。
 たまたま入手した情報を手繰り寄せていたらこの店がヒットしたのだ。
 懸賞金20万円の大首の隠れ家に辿りつくためにはどうしてもここへ来なければならない。
 重要な情報を握る人物達……懸賞首と同等クラスの犯罪者がたむろしているのだ。
 大きく息を吸って深呼吸をする。唇を引き締めて階段を降りる。
 店内。
 早速鼻が曲がりそうな悪臭に出迎えられた。どんなに空調と空気清浄機が整っていても阿片や大麻のヤニがこびり付いた悪臭は浄化できない。
 店内は静かなジャズが有線放送で流れていた。それぞれのボックス席では2、3人の客が手巻きの大麻煙草を吹かしながら卑猥な単語を並べた下種な会話で盛り上がっている。
 亜美が入店してもカウンター向こうのバーテンしかその姿をまともに確認していなかった。
 集められる情報を早く掻き集めてこの場を去りたかった。
 ストゥールに座ってコーヒーをオーダーした。
 一杯引っ掛けたかったが、敵の陣地で酒を呷って悪い癖が出たら仕事どころではなくなるのでノンアルコールを選択した。
 途端、寒気がした。
 背中のボックス席で座っていた男が突然立ち上がり、中国製と思しきマカロフを右手に提げながら大股でやってきて亜美の左隣の席にどすんと座る。
「な、何?」
 唐突な男の振る舞いに完全にイニシアティブを握られた状態。目を白黒させて体が硬直する。
「ここに何の用だ! 賞金稼ぎ!」
 そんなに大声で話さなくとも充分に聞こえるのにこの熊髭の30代後半と思われる男は大麻とアルコールの混じった口臭を吐き散らして亜美を見据えた。
 目の焦点が完全に飛んでるくせにギラギラした眼光は刺すように鋭い。
 こんな輩はたまに居る。
 非合法薬物が体と脳を侵食している間だけ異常に勘が鋭くなる人間が。
 自分の実力以上に感覚が冴え渡り、無視したい状況でも理性の箍がずれているためにどんな些細な出来事でも看過できなくなるのだ。
 亜美はその男が手で弄ぶようにぶら提げている拳銃の銃口が自分の体を捕らえる度に心臓を冷たい手で掴まれる思いだった。
 そんな恐怖を眉の端にも表さず亜美は何も見ていない素振りをしているバーテンが出したコーヒーカップを手に取った。
「どうして私が賞金稼ぎだと? 賞金稼ぎだと何か不都合があるの?」
 冷える肝を温め直すつもりで強い態度で亜美は反抗的に出た。
「デカは偉そうに手帳を見せて俺達を脅す。だけどお前はここに来るのが初めてのくせに酒を頼まずにそんなモンを頼んだ」
 銃口がコーヒーカップを指す。
――――!
 背後で幾つかの気配が行動したのを感じた。
「腹、据えてこんな所でそんなモンを頼む人間は『仕事中』の人間だけだ。つまりお前は賞金稼ぎだ!」
 理論は飛躍しているが賞金稼ぎである事実は当っている。
「あの……」
 言葉を追い返してやろうと口を開いた時、男は拳銃の安全装置を解除して見た目以上に素早く正確に、亜美のコメカミに銃口を押し付けた。
 亜美は右肩を大きく右後方に捻って右手を後ろ腰に滑り込ませてベストの裾を跳ね上げた。
 その隙に右手はワルサーPPスーパーを後ろ腰のホルスターから抜き安全装置を解除して躊躇せず40cmの近距離から9mmポリスを1発撃ち込む。放たれた弾丸は男の腹に命中する。わざと即死しにくい贅肉を撃つ。
 熊髭の男は先に銃口を向けた、自分の優位性を自慢するのに満足して、その後に目の前の女がどのような行動に出るか想像していなかった。
 空かさず、亜美の左手が閃き男のマカロフの右スライド後方に取り付けられた安全装置兼デコッキングレバーを下げて撃発を防いだ。
 弾き出された熱い空薬莢が亜美の背中に当り、床を転げる。
 唸りながら腹を押さえて崩れる男の背中に数発の銃弾が叩き込まれる。
 亜美が男を狙ったものではなく、誰かが亜美を狙ったものだ。
 それらの銃弾は宙を穿数に命中した。亜美の盾になるように崩れていた男に命中した。
 亜美はストゥールから跳ね飛ぶとカウンターをひらりと越えて頭を伏せた。迷惑そうな顔をしたバーテンと目が合う。
「ごめんなさい。できるだけ早く終わらせるから」
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