犬の矜持

 どうせ3階には逃げ場は無い。
 窓から飛び降りるしか無いのだ。この建物には伝い降りることができそうな雨樋も無かった。
 半開きのドアの向こうはヘルメットや襤褸切れの様な作業着が乱雑に散らばっている部屋だった。
 寸胴なデザインの建物なので1階から3階まで床面積は変わらない。このフロアに何人居るのか全くの不明。話し声がするのだから2人以上は確かだろう。
「……」
――――ん?
 僅かだが異臭。
 大麻の苦い臭いが漂ってくる。
 麻薬も状況によりけりだ。痛覚が鈍くなるので1発で仕留め難いが動作も緩慢になるので標的にやすい。
 暇を持て余したか恐怖を紛らわせるためかは知らない。判断や動きが鈍くなる、そんな『良い方向』に連中がトリップしてくれていることを強く願った。
 右脇腹のホルスターを掌で摩る。何事か起きれば直ぐにベストの裾を跳ね上げてグリップを握る体勢ができている。
 異臭がする方向へ足音を殺して向かう。
 体は常に左半身。CQB特有のレストポジションで拳銃を握っていれば亜美の殺意が裁判の焦点となる恐れが有るので飽く迄、対峙するまでワルサーPPスーパーは抜かない。
 全ての部屋を巡回したが結局、一番奥まった部屋しか人の気配はしなかった。
 ドア一枚向こうで男2人分の話し声が聞こえる。
 卑猥な雑談で盛り上がっている。鼻を突く大麻の臭いに混じって安っぽいカップ酒の臭いもする。
 律儀に連中が出て来るのを待つ必要は無い。ドアノブに手を掛けた。確か、この部屋の下は簡易汲み取りトイレだ。大して広い部屋ではない。
 深呼吸してからドアを開け放った。
 体を半身にしたままするりと部屋に入り込む。
「大人しくして。撃つわよ」
 女性とは思えない声の低さで凄みを利かせて警告した。右手はかざしたままでワルサーPPスーパーに触れていない。
 そこに居た男2人……何れも30代前半でヤクザ崩れの男たちは、へらへらした顔で下種な笑い声を立てていた。
 数十秒もその男達は亜美を見ていたはずなのに反抗も反撃もしなかった。
 座り込んで大麻煙草を咥えたまま意識をどこか遠くまでスッ飛ばしていた。
――――殴ってやろうかしら
 暴力嗜好が有って亜美はそう考えたわけではない。銃声を抑えるのに有効だと思ったからだったが、先に殴り飛ばして昏倒させたのでは亜美の暴行と暴力性が問われるので戸惑ってしまった。
 連中が少しはまともに反応してくれて撃ち返してくれた方が余程、やりやすかった。
 男が腑抜けな笑い顔のままのろのろと、床に放り出していた安っぽい4インチのリボルバー拳銃を面倒臭そうに握る。フィリピン製の密造拳銃だろうか? 見ただけで解るチープな造りがこの連中には誂えたように、似合っていた。
 銃口が小刻みに震えながら亜美を捕らえる。
 ――――『安心した』わ。
 銃声が2発。狭い室内を席巻する。
 僅かに遅れて空薬莢が冷たい床を転がる。
 男たちはいずれも銃を握っていた右腕の肘下を撃ち抜かれてゴトッと拳銃を滑り落とした。
 その時になって漸く男たちは顔色を恐怖に染めて声にならない悲鳴を挙げた。
 負傷した腕の銃創を押さえて床を火で炙られた芋虫のように転がり回って泣き叫んだ。
 反撃する様子は無かった。銃口を男たちに振りながら落とした拳銃を爪先で部屋の外に蹴り飛ばす
 その部屋から出ると足元の拳銃をもっと遠くに蹴り飛ばして左半身になりながら部屋を素早く移動する。
 今の銃声で他の連中に完全に知られた。
 早く3階へ通じる階段を確保して昇らないと3階で篭城されてしまう。
 安全装置を掛けたワルサーPPスーパーをホルスターに差し込んで、角を曲がる度にリップミラーで安全を確認することを怠らなかった。
 先程の男たちは目標ではなかったが、あれが懸賞金20万円クラスの犯罪者だと思うと鼻で笑ってしまった。所詮、人間的な器は小物なのだ。
 次々に角や部屋を確保していく。
 神経が集中し過ぎて周りの空間が狭くなって見える。
 呼吸や心拍数でさえ数えられるほどにはっきり感じる。なのに不思議と五月蝿いと感じない。その激しい鼓動をリズムとして体が気流に乗って床を滑っている感覚に陥る。
 早く。早く。早く。
 確保。確保。確保。
 2階と3階の階段の踊り場まできた時、リップミラーの死角からワルサーPPK/Sを握った男と抱擁できるくらいの位置で接触した。
「て、てめぇ! 何モン」
 40代前半の無精髭を蓄えた男がワルサーPPK/Sを突き出した。
 だが近過ぎた。亜美はその腕を左脇で挟んで男の左足の甲を踏ん付けて仰向けに転倒させた。2人は踊り場で抱き合う形で倒れる。
 男の方が早く体勢を整えてワルサーPPK/Sの銃口を亜美の顔に向ける!
 亜美は左手でワルサーPPK/Sのスライドを掴みマガジンキャッチを押しながら安全装置を下方に押し下げた。
 弾倉が自重で滑り落ち、ダブルアクションで発砲しようとしていた引き金がフリーポジションになった。これでは幾ら引き金を引いても発砲できない。薬室に実包が入っていないからこその技だ。
 何が起きたか理解できていない男の顎先に渾身の右フックを叩き込む。
 男の黒目が窄み、体から力が抜けていく。脳震盪を起こした男は仰向けに倒れる。
――――3人!
 男の重い体を除けて体を起こす。
「!」
 金属音。
 聞き慣れた、乾いた金属音。
――――ああ。いつものヤツか。
 3階で飛び出てきた男が短機関銃をコッキングした。
 後から思えば怖い話だが、全ての神経が冷徹に澄み切った亜美は男を押し除けた体勢、つまり、仰向けに寝そべったまま、ホルスターからワルサーPPスーパーを抜き、安全装置を解除しつつ銃口を階上の男に向ける。
 瞬き1回分位の時間。
 全てがスローモーションに写る世界で、ワルサーPPスーパーのマズルフラッシュの方が早かったのを亜美の目が捉えた。
 放たれた9mmポリス弾はそこにいた男が構えていたウージー短機関銃の機関部に命中して派手に暴ぜた。薬室で暴発したらしい。
 破損した様々なパーツが四方八方に爆散する。
 男の目にも破片が当たったのか、顔を押さえて罵声を上げながらよろめき、仕舞いには階段から転げ落ちた。
 打ち所が悪かったらしく、大人しくなった。脈を取るが気絶しているだけらしい。
――――んー?
――――4人か?
 興奮状態を突き抜けて何もかもが別人の行動であるかのように感じてしまっている亜美。
 非常に危険な状態だ。
 人間的な一定の環境下では理性より動物的な直感でのみ活動する傾向にある。論理だった思考……今の亜美のように数を数えるのが億劫に思えているのだ。
 安全装置も掛けず右手にワルサーPPスーパーを提げて、幽霊のように立ち上がる。
「やりやがったな!」
 別の男がサプレッサー付きのイングラムを構えて飛び出てくる。
 男の引き金と亜美の射撃体勢が重なった。
 連なる速射音。蛇がのたうつように空薬莢が弾き出され、イングラムの銃口は見えない糸で吊り上げられているかのように天井を向き……やがて弾切れのイングラムを抱いた男はその場に崩れた。
 額に9mmポリス弾の射入口がある。その背後の壁には脳髄と脳漿が混じった赤い原色が炸裂していた。
「えーと…5人?」
 ゆっくりした足取りで階段を上り、頭を粉砕された男の顔を確認する。
「違う。コイツ、違う」
 生臭い血臭が亜美を徐々に正常に戻しつつある。
 3階の部屋に踏み込む。
「あっ」
――――いけない!!
 慌ててリップミラーを取り出す。丸で背中を押されて気が付いたみたいな慌てぶりだ。一時的低下していた思考が急速に回復し、今の状況を左脳が整理して彼女に伝えた。
「?」
 異常な静寂。
 丸で誰も居ない様な静けさ。
――――ん、ううん!
――――もう一人!
――――あと、一人……の筈……。
 今更ながらに気が付いて半分空になった弾倉を抜いて新しい弾倉を挿し込む。
 アドレナリンが落ち着き、普段の亜美をかなり取り戻している。
 自分が仕留めたであろう死体や負傷者を確認しに戻ってまた3階に上がったが、反撃の気配どころか人の気配がしない。
 リップミラーを使い各部屋を探索していく。
 3階では一番奥にあたる部屋と思われるドアを見つける。
――――ここまで来たら!
――――キメますか!
 ドアを蹴り破ると同時に前転して部屋に転がり込む。しゃがんだまま銃を四方に振り、期待する「大首」を探す。
 だが。
 部屋の隅のスチールデスクで突っ伏している男の姿が有るだけだ。
「?」
 ワルサーPPスーパーをダブルハンドで構えたまま警戒を最大限に高めて男に近付く。
 安物のスーツ姿の男はピクリとも動かなかった。
「! そんな!」
 亜美は息を飲んだ。
 スチールデスクの上には10cmの長さにカットした太めのストローと10cm四方の鏡と剃刀。そして、開封して半分ほどの量になっていると思われる白い粉。
 男の両手に何も握っていない事を確認して髪を引っ張って顔をこちらに向ける。
 それは、追いかけていた懸賞金20万円の「大首」だった。
 状況と顔色から察するにヘロインの大量吸引で心臓麻痺を起こし、そのまま息を吹き返さなかったらしい。
 土気色の顔。紫が差す唇と目蓋。
 余程の『愛好家』だった様だ。
 既に冷たく脈は無い。
「………」
 遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。
 近辺で居た誰かが通報したのだろう。
 そんな事はどうでもいい。
 亜美の立場で言うのではない。
 こんなにつまらない終わり方はあまりにも可哀想だ。
 亜美の立場で言うのではない。
 犯罪者に情けを掛けているわけではない。
 人間としての最低な最期に悲しみを覚えているのだ。
 
 ただひたすら、亜美の空洞の胸をパトカーのサイレンが虚無に突き抜ける。
 
 事に亜美は今後もこのような寂しく悲しい最期を迎える人間の傍に立つことになる。
 それもこの稼業ならではの辛酸だ。
 それに耐えられないのなら、銃を手放せばいい。
 

 犯罪者だけではく、犯罪者を法的に追う立場の人間も心を病み、社会から落後する現象は近年の社会問題とされている。

 今までもそうだった。
 これからもそうだ。

 なんということは無い。
 賞金稼ぎとしてのいつもの現場だ。


 ただひたすら、亜美の空洞の胸をパトカーのサイレンが虚無に突き抜ける。

《犬の矜持・完》
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