パッションピンクは眠れない(全年齢版)
幾つかの短い遣り取りの後、携帯電話を切った。
寒風が貴子の頬を強く撫でる。防寒具が一式無事だったのは幸いだ。鞄からも紛失している物は無かった。幾らか証拠物件は残してきたが貴子を確実に特定できるものはDNAくらいだ。任意出頭を求められない限り大丈夫だろう。
―――寒いー。
―――お腹減ったー。
―――新しいパンツも頼んだら良かったなー。
後日談。
貴子を誘拐した連中は予想通り敵対組織の三下連中で、敵対組織がアシが付くのを恐れて入会間も無い三下連中だけで強行させたという。
公安も計画だけは入手していたが実行がいつなのかまでは掴みきれていなかった。
全く公安の預かり知らぬ間に事件は粛々と進んで、貴子を攫って返り討ちに遭った連中は貴子の父親が派遣した救出部隊の手によって討ち取られたと思われた。
しかし現場の遺留品が不可解なほどの殺戮を呈しておりどこの勢力にも属さない雇われの殺し屋を使ったと推察された。
目撃者が今のところ誰も名乗り出ておらず、貴子本人を容疑者とするのは難しかった。
結局、貴子もブラックリストに名を連ねかけたが、すんでのところで監視対象から一時、外された。いつもと変わらず、だ。
※ ※ ※
「真田」
「はい。お嬢様」
「どうして付いてくるわけ?」
「お嬢様が心配だからです」
「今回は真田の仕事は無いわよ?」
「それではお傍で見守らせて下さい」
「はぁ?」
オープンカフェがセールスポイントの喫茶店の店内で頬を膨らませた貴子が熱いカフェオレを前に携帯電話で話をしていた。
寒風の吹き溜まりでもある、同店のオープンデッキで真田が携帯電話で話をしていた。
たった3mの距離。
ガラス一枚しか隔てるものが無い距離で二人は携帯電話を介して会話している。二人供、平静を装ってポーカーフェイスでボソボソと喋っていた。
誰もこの二人がこんな距離で会話しているとは思わないだろう。お互いが顔や視線を合わせることも無い。
或る曇り空の日曜日の事である。今期一番の冷え込みだと天気予報で報じていた。所により雪だそうだ。
「私が現場で頭を『スッ飛ばしてる』様を見ながらシコシコしたいわけ? あなたの立派な御子息様なら何度もお相手してあげてるでしょ!」
「お嬢様。真面目に聞いて下さい。今回は話が出来過ぎています。依頼から対象まで完全に調査する必要が……」
「考え過ぎよ。いつもと変わんないじゃない。依頼通り仕事して……写メ撮って……何よ。それでいいでしょ?」
貴子は一方的に電話を切って温くなったカフェオレを味わう事無く嚥下すると席を立った。
真田は切れた電話を暫く耳に当てていたが、貴子が喫茶店を出ると、通話を切って何食わぬ顔で席を立った。
昼下がりの雑踏の中、貴子の左手後方5mの位置に常に真田が居る。
久し振りの仕返し屋の仕事だが、真田が危ないとチェックから外した仕事を面白そうだと依頼を引き受けたのが事の発端だった。
今までにこんな例は無かったわけではないがいつも真田の杞憂に終わっている。
今回も真田の杞憂だと、貴子は一笑に臥して相手にしていない。僅かに齟齬が発生している。
二人がギクシャクしているのはそう言う理由からだ。
今回が本当に真田の杞憂で貴子のいつもの仕事なら全く問題ないのだが……。
「中学生一人を消しただけでこんなに稼げるのなら誰も彼も殺し屋ね」
裸電球の下、灰色のトレンチコートを着た長身でロングヘアの女はスモークグレイのガーゴイルスのサングラスを正す。
ロングヘアの中程ほどから先端にかけて茶髪。赤いルージュが引かれた魅惑的な唇が印象的で筋の通った鼻筋が輪郭を鋭く精悍に引き締め上げている。
サングラスを外さなくとも解る。異性でなくとも振り返る美人だ。
むしゃぶりつきたくなる様な唇がキングエドワードシガリロのセロファンの端を咥えてゆっくり剥いて剥がす。
無造作に千切ったセロファンを床に吐き捨ててキングのシガリロを咥えると、登校中の貴子の顔が写された写真の横でバードアイのストライクエニィホウェアーマッチ――ロウマッチとも言う――を擦りつけて火を点ける。顔元に火種が近付くに連れて、この女の美しくも禍々しい微笑が明るく映る。
シガリロの紫煙を口腔に深く溜めると貴子の写真に甘い煙を吹き付けた。
「……仔ネコ狩りは得意よ……待っててね」
「っくしゅん……風邪引いたかもしれない」
「じゃ、帰りましょう! 風邪は障ります!」
「嫌よ。これが終わったら幾らでも寝込んであげる」
貴子と真田は石油コンビナートの廃棄された区画の入り口で立っていた。
「寒そう。ってゆーか、寒い」
「カイロなら持っていますが」
「ううん。コレ、有る」
貴子は左懐から掌サイズの印籠型の金属ケースを取り出した。
「何です? それ?」
「お爺ちゃんに貰ったの。白金カイロよ」
「あー。オイルの化学変化で温かくなるって言う」
「そ。使い捨てカイロの時代に凄いエコ精神よ」
「ご隠居はそういう世代の人ですから」
二人は歩みを進めた。この広大な立ち入り禁止区域を根城にしているホームレスの集団に娘を殺された身内からの依頼だった。
有りがちで捻りも変哲も無いよく聞く話だった。
貴子を強く惹き付けたのはその殺しの途中経過だった。
レイプされた上に生きたまま腹を切り開かれて臓腑を鋭利な刃物で切り分けられて、『解体』されたらしい。
死体の周辺に散乱していた血痕や臓器から殺害された被害者のDNAが検出された。
依頼者の話では糸鋸で頭蓋骨を円周上に切断されて脳味噌まで取り出されたらしい。
その事件なら貴子も知っている。現場は違うが同じケースが深夜の河川敷で行われたのを新聞で読んだ事が有る。擬似的な興奮を覚えて唾を飲み込んだものだ。
真田はいつも通り依頼者とメールで遣り取りしたが、抽象的で表現し辛い不快感を抱いていた。それが何を指しているのかは未だに解らないが、兎に角不快。胸騒ぎが止まらず戸惑っているところを貴子に見つけられて、彼女の一声だけでこの依頼を受けてしまった。
「辺りを警戒してきます。俺が先に現場まで斥候に出ますからその後に付いて来て下さい。いいですね?」
「はいはい。解りましたよ」
辟易している顔の貴子。思わず肩を竦めて溜息を吐く。
真田は右手をスタジアムジャンパーの左懐に突っ込んだまま小走りに先を行く。
角を見つける度に立ち止まって背中を壁に当てて折り畳みの小型手鏡で窺っている。
何も起こらないと信じて疑わない貴子から見れば滑稽に映る。
いつも左懐に手を突っ込んでいるところを見るといつものスチェッキンを忍ばせているらしい。
――――スチェッキンにフォアグリップが付いていたら考えてもいいんだけどな……。
自分で想像しておきながら、不細工極まりない自動拳銃の映像が頭に浮かんで苦笑いを止められなかった。
寒風が貴子の頬を強く撫でる。防寒具が一式無事だったのは幸いだ。鞄からも紛失している物は無かった。幾らか証拠物件は残してきたが貴子を確実に特定できるものはDNAくらいだ。任意出頭を求められない限り大丈夫だろう。
―――寒いー。
―――お腹減ったー。
―――新しいパンツも頼んだら良かったなー。
後日談。
貴子を誘拐した連中は予想通り敵対組織の三下連中で、敵対組織がアシが付くのを恐れて入会間も無い三下連中だけで強行させたという。
公安も計画だけは入手していたが実行がいつなのかまでは掴みきれていなかった。
全く公安の預かり知らぬ間に事件は粛々と進んで、貴子を攫って返り討ちに遭った連中は貴子の父親が派遣した救出部隊の手によって討ち取られたと思われた。
しかし現場の遺留品が不可解なほどの殺戮を呈しておりどこの勢力にも属さない雇われの殺し屋を使ったと推察された。
目撃者が今のところ誰も名乗り出ておらず、貴子本人を容疑者とするのは難しかった。
結局、貴子もブラックリストに名を連ねかけたが、すんでのところで監視対象から一時、外された。いつもと変わらず、だ。
※ ※ ※
「真田」
「はい。お嬢様」
「どうして付いてくるわけ?」
「お嬢様が心配だからです」
「今回は真田の仕事は無いわよ?」
「それではお傍で見守らせて下さい」
「はぁ?」
オープンカフェがセールスポイントの喫茶店の店内で頬を膨らませた貴子が熱いカフェオレを前に携帯電話で話をしていた。
寒風の吹き溜まりでもある、同店のオープンデッキで真田が携帯電話で話をしていた。
たった3mの距離。
ガラス一枚しか隔てるものが無い距離で二人は携帯電話を介して会話している。二人供、平静を装ってポーカーフェイスでボソボソと喋っていた。
誰もこの二人がこんな距離で会話しているとは思わないだろう。お互いが顔や視線を合わせることも無い。
或る曇り空の日曜日の事である。今期一番の冷え込みだと天気予報で報じていた。所により雪だそうだ。
「私が現場で頭を『スッ飛ばしてる』様を見ながらシコシコしたいわけ? あなたの立派な御子息様なら何度もお相手してあげてるでしょ!」
「お嬢様。真面目に聞いて下さい。今回は話が出来過ぎています。依頼から対象まで完全に調査する必要が……」
「考え過ぎよ。いつもと変わんないじゃない。依頼通り仕事して……写メ撮って……何よ。それでいいでしょ?」
貴子は一方的に電話を切って温くなったカフェオレを味わう事無く嚥下すると席を立った。
真田は切れた電話を暫く耳に当てていたが、貴子が喫茶店を出ると、通話を切って何食わぬ顔で席を立った。
昼下がりの雑踏の中、貴子の左手後方5mの位置に常に真田が居る。
久し振りの仕返し屋の仕事だが、真田が危ないとチェックから外した仕事を面白そうだと依頼を引き受けたのが事の発端だった。
今までにこんな例は無かったわけではないがいつも真田の杞憂に終わっている。
今回も真田の杞憂だと、貴子は一笑に臥して相手にしていない。僅かに齟齬が発生している。
二人がギクシャクしているのはそう言う理由からだ。
今回が本当に真田の杞憂で貴子のいつもの仕事なら全く問題ないのだが……。
「中学生一人を消しただけでこんなに稼げるのなら誰も彼も殺し屋ね」
裸電球の下、灰色のトレンチコートを着た長身でロングヘアの女はスモークグレイのガーゴイルスのサングラスを正す。
ロングヘアの中程ほどから先端にかけて茶髪。赤いルージュが引かれた魅惑的な唇が印象的で筋の通った鼻筋が輪郭を鋭く精悍に引き締め上げている。
サングラスを外さなくとも解る。異性でなくとも振り返る美人だ。
むしゃぶりつきたくなる様な唇がキングエドワードシガリロのセロファンの端を咥えてゆっくり剥いて剥がす。
無造作に千切ったセロファンを床に吐き捨ててキングのシガリロを咥えると、登校中の貴子の顔が写された写真の横でバードアイのストライクエニィホウェアーマッチ――ロウマッチとも言う――を擦りつけて火を点ける。顔元に火種が近付くに連れて、この女の美しくも禍々しい微笑が明るく映る。
シガリロの紫煙を口腔に深く溜めると貴子の写真に甘い煙を吹き付けた。
「……仔ネコ狩りは得意よ……待っててね」
「っくしゅん……風邪引いたかもしれない」
「じゃ、帰りましょう! 風邪は障ります!」
「嫌よ。これが終わったら幾らでも寝込んであげる」
貴子と真田は石油コンビナートの廃棄された区画の入り口で立っていた。
「寒そう。ってゆーか、寒い」
「カイロなら持っていますが」
「ううん。コレ、有る」
貴子は左懐から掌サイズの印籠型の金属ケースを取り出した。
「何です? それ?」
「お爺ちゃんに貰ったの。白金カイロよ」
「あー。オイルの化学変化で温かくなるって言う」
「そ。使い捨てカイロの時代に凄いエコ精神よ」
「ご隠居はそういう世代の人ですから」
二人は歩みを進めた。この広大な立ち入り禁止区域を根城にしているホームレスの集団に娘を殺された身内からの依頼だった。
有りがちで捻りも変哲も無いよく聞く話だった。
貴子を強く惹き付けたのはその殺しの途中経過だった。
レイプされた上に生きたまま腹を切り開かれて臓腑を鋭利な刃物で切り分けられて、『解体』されたらしい。
死体の周辺に散乱していた血痕や臓器から殺害された被害者のDNAが検出された。
依頼者の話では糸鋸で頭蓋骨を円周上に切断されて脳味噌まで取り出されたらしい。
その事件なら貴子も知っている。現場は違うが同じケースが深夜の河川敷で行われたのを新聞で読んだ事が有る。擬似的な興奮を覚えて唾を飲み込んだものだ。
真田はいつも通り依頼者とメールで遣り取りしたが、抽象的で表現し辛い不快感を抱いていた。それが何を指しているのかは未だに解らないが、兎に角不快。胸騒ぎが止まらず戸惑っているところを貴子に見つけられて、彼女の一声だけでこの依頼を受けてしまった。
「辺りを警戒してきます。俺が先に現場まで斥候に出ますからその後に付いて来て下さい。いいですね?」
「はいはい。解りましたよ」
辟易している顔の貴子。思わず肩を竦めて溜息を吐く。
真田は右手をスタジアムジャンパーの左懐に突っ込んだまま小走りに先を行く。
角を見つける度に立ち止まって背中を壁に当てて折り畳みの小型手鏡で窺っている。
何も起こらないと信じて疑わない貴子から見れば滑稽に映る。
いつも左懐に手を突っ込んでいるところを見るといつものスチェッキンを忍ばせているらしい。
――――スチェッキンにフォアグリップが付いていたら考えてもいいんだけどな……。
自分で想像しておきながら、不細工極まりない自動拳銃の映像が頭に浮かんで苦笑いを止められなかった。