テニスの王子様
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私は男子が好きじゃない。
クラスの半数を占める奴らは、とにかく自分勝手で子どもで低俗で、関わるとろくなことがない。
それは周りの女の子たちも同じで、男子のすることなすことに苛立ちを覚えているのだと勝手に思っていた。しかし、私のような女はどちらかといえば少数で、このくらいの年ごろであれば男子に恋慕を持つのが一般的なのだと気が付いたのは最近になってからだ。前の席に座っている加藤さんも、同じ部活のゆりちゃんもマキも、みんな思いを寄せる異性がいるらしい。
予冷が鳴るまであと三分。ふと昼休みの教室を見渡せば、床でプロレスごっこをする奴とそれを見て大声で笑う奴。数人で固まってコソコソと持ち込んだゲームをする奴。制服についたグランドの砂をベランダで払う奴。
ああ、汚い。うるさい。全員まとめて消え失せればいいのに。舌打ちしたくなるほどの嫌悪感をぐっと抑え込むために、鞄から英語の課題プリントが入ったファイルを取り出そうと少しかがんだ。
「なあなあ、次の英語のやつちょっとうつさせてくれよ!俺今日あたるんだよ~」
突如右側の至近距離から叩き込まれた雑音に、抑え込んだはずの舌打ちが飛び出してしまった。
「ほんと今日だけは頼む!ジャッカル先輩今日教えてくんなくってよ~」
その音は幸いというか不幸にも本人の耳には届かず、課題転写乞食は繰り返される。奴がしゃべると同時に本人の唾やグランドからくっつけてきた砂が舞っている気がして不快感に拍車がかかった。
「嫌だ」
「なんでだよ!たまにはいいじゃん!!」
ほぼ毎日のように何かしらの教科で課題を移させてくれるようせがんでくるが、一度もそれに応じたことは無い。何の縁だが考えたくもないけれども1年から引き続き2年も同じクラスで、私がそういう女だということはどんな馬鹿でもわかるはずだ。それにもかかわらずこいつは毎日毎日毎日毎日、一切学ばずに配られた状態から一歩も進化していない状態のプリントやワークを片手に私に乞食を続ける。
学ばない。すぐに人に頼る。泣きついて解決すると味を占めて繰り返す。
そもそも男とか女とか以前に、そんな人間が大嫌いだ。
大きな挫折を繰り返して、這い上がることができないまでに絶望を味わえばいいのに、不思議とこういう奴にそんなドラマティックなことは起こらないように世の中はできている。
「ったく・・・ちょっとくらいいじゃねーかよ」
拒絶以外の言葉を発しない私にいつも通り折れ、予冷が鳴り響く教室を横断して同じ部活の男子のプリントを丸写しし始める奴の姿を睨んだ。
思えば、男子という存在に対して嫌悪感を抱くようになったきっかけもこいつだったような気がする。
私は男子が嫌いだ。
もっと言うと、隣の席の切原赤也が大嫌いだ。
こんなに嫌いなのに、神様はなにが楽しいのか何度席替えをしても私の席の縦横斜めのどこかに必ず奴を配置する。勘弁してくれよ。
「おーい星谷、切原起こせー」
授業が始まって10分もしないうちに人のを丸写ししたプリントによだれを垂らして眠りこける切原の背中を仕方なく叩くと「…んあ?」と間抜けな声と共に起き上がる。クラス中が笑うがこちらはちっとも面白くない。
「んだよも~起こすんじゃねえよ」
寝起きが死ぬほど悪くうとうとしている奴に、これから先の人生で急いでるときに限って全部信号が赤になる願掛けを込めて睨みつける。こいつ信号とか無視しそうだけど。もう永遠の眠りについてしまえばいいのに。
「え~でも体育の時とかかっこよくない?」
「ちょっと乱暴だしガサツだけどそこがまた男の子らしくていいよね」
こんなクソ野郎のことを好きだという友人も何人かいるのだから本当に驚く。みんな目に節穴どころかブラックホールでも空いてるんじゃないだろうか。
「いやぜんっぜんわからない。本当にあいつ無理だし」
「いいなー梨々香はいつも切原君と席近くて」
「ちっとも良くないよ!あいつほんとうるさいし汚いし今すぐクラスごと変わりたい」
こんな風に必死に苦労を話しても誰も理解してくれないから、私の中の切原との溝は深まるばかりだった。
そして同じクラス歴が3年になった秋の放課後、事件は起きた。
「ねえちょっとは仕事しろよ」
「俺部活行きてえんだけど。いいじゃん明日やるからさあ」
「そう言って昨日もサボったろ。こっちも部活あんだよ、全部押し付けないでほしいんだけど」
4月の委員会決めの日、風邪で休んだ私は一定の時期しか活動しない分全委員の中で最も面倒くさいと名高い学園祭実行委員に任命されていた。しかもよりによってこの切原と二人。最悪だ。このクラスの同窓会あっても絶対行かないからな。
「俺11月から合宿あんの!だからそれまでにいろいろ調整とかあるんだって」
「そんなの知るかよ、日本代表だかなんだか知らないけど今あんたの仕事なんだよこれ」
「わーってるって!明日!明日はやるから!じゃ!」
頭に来た。もう我慢できない。もとから期待なんてしていなかったけどここまで押し付けられて黙っていられるか。
「ほんとふざけんなよワカメ野郎!あんたみたいな奴がプロになんてなれるかよ!」
走り去ろうとする背中に彼の髪型を揶揄した暴言をぶつけた。
その瞬間、切原の動きがぴたりと止まった。まずい、と一瞬思ったが私は悪くない。悪いのは全部こいつなんだから。
「…おいテメエ今なんつった」
ゆっくりと振り向いた切原はいつもの馬鹿面でなかった。背中に嫌な汗が流れるけど後には引けない。
ワカメ野郎、もう一度呟く前に近くの窓ガラスの割れる音が響き渡った。細かい破片が散らばってとっさに顔を守った腕に突き刺さる。痛い。
肌が血みたいに赤くなった切原はそのまま真っ直ぐ獲物めがけて飛びかかってきた。逃げ遅れた私はあっというまに下敷きになり、そのまま意識を失った。
気が付いたら、保健室のベッドの上だった。
切原の両親や部活のもと先輩を名乗る人たちが申し訳なさそうに何度も謝罪してくれた。すっかりしおらしくなった切原本人もバツが悪そうに「悪かった」と頭を下げに来た。
私も外見のことも含めてひどいこと言ったし、悪かった。そうわかっていても素直に言えなかった。怪我をさせた人間と被害者になってしまった以上、気まずさは中学を卒業してもぬぐい切れないままだった。
それ以来、私は男子が嫌いだったのが苦手になってしまった。もともとそんなに話す機会も無かったのだが、あの日のあの瞬間、異性との力の差を思い知らされてしまったからだ。どんなに強がっていても、力ずくなら負ける。そんな当たり前なはずの事実が怖かった。
切原も私も立海の付属高校に進学し、クラスは同じだけど一切かかわらない日々が続いた。数人の親しい女子とだけ関わりながらひっそりと高校生活を送る私に対して、切原はテニスでどんどん有名になっているようで、校内では英雄のような存在だった。海外にも飛んでいるらしく、1か月ほど登校しないこともあった。もしかしたら本当に卒業後はプロになるのかもしれない。
高校3年生の体育祭。私は全学年の前で徒競走で盛大に転び、肘と脚から大量出血した。痛さと恥ずかしさでうずくまっていると、「オイ大丈夫か!」と声をかけられる。顔を上げると、切原が心配そうにのぞき込んでいた。
「うわっすげえ血出てんじゃん!行くぞ!」
えっちょっと大丈夫だから、そう言う前にふわりと体が持ち上げられ、周囲から冷やかすような声が上がる。バカヤロー保健委員だよ!と鎮まらせてから応急処置用のテントに運んでくれた。あの頃同じくらいだった身長はいつのまにか頭2個分も高くなっていて、顔が熱くなった。
水で血を洗い流し、止血させてから消毒液を塗ってくれる。
「随分慣れてるね」
「いろんなとこでいろんな怪我したしさせたしなあ。自然とおぼえるっしょ」
ガラスの破片が刺さったあとがうっすら残る私の左腕をじっと見ながら切原は答えた。
「残っちまってるな。ごめんな。マジで」
覚えてくれていた。
テニスで日本を代表する選手になっても、世界中を飛んでいても。あの日のことを彼は覚えていたし、きっと私と同じくらいの痛みを抱えてくれていた。それだけで十分だった。
「私こそ、ひどいこと言ってごめん。あの時それを言えなくて、ごめん」
やっとあの日から抜け出すことができた。委員会の仕事をサボらなくなり、傷の手当てが上手くなった切原に私も追いつけるようにしなければならない。
わだかまりが解けてから、切原のテニスの試合も友人たちと観に行くようになった。泥臭くて、楽しそうにボールを追いかける切原を見ているとなんでもできる気がした。大学は女子大の外部受験を考えていたけど、共学でもいいかもしれない。そう考えなおしてそのまま立海大学への進学が決まった。
卒業式の日、プロになるため渡米が決まった切原の席まわりにはサインを求める生徒が列をつくっていた。最後くらいいいかもしれない。そう思って卒業アルバムの空きスペースを用意して列に並んだ。
「ハイハイ次の人―…ってアレ」
切原は意外そうに私の顔を見て、照れくさそうに頭をかいた。そして卒業アルバムを受け取ると、がりがりと前の人より明らかに長い時間をかけて文字を書き込んだ。
名前覚えてたんだね、とか字汚いな、とかそんな可愛くないことを言おうとしたのに、間違えて「ありがとう」と言ってしまった。 そんな私の顔を見た切原が慌ててポケットからぐしゃぐしゃのティッシュを差し出す。教室内が笑いに包まれ、いつのまにか私も切原もつられて笑っていた。6年間同じ教室に押し込められていた私たちは、少しだけ大人になって同時に別々の場所へ旅立った。
久しぶりに高校の卒業アルバムを開くと、切原選手のサインと汚い文字が色あせないまま踊っている。
『星谷梨々香。お前のおかげで他人の痛みとか考えるようになった。世界のどこにいても忘れねえ。元気でな』
あれから十年以上の時が経った。今日も切原は小さな画面の中であの頃と同じように楽しそうにテニスボールを追いかけている。 きっと、他人の痛みを理解することも忘れないまま。
「それ、オークションで売るんじゃねえぞ!」
だから私も、そんな切原の言葉を律義に守り続けている。
クラスの半数を占める奴らは、とにかく自分勝手で子どもで低俗で、関わるとろくなことがない。
それは周りの女の子たちも同じで、男子のすることなすことに苛立ちを覚えているのだと勝手に思っていた。しかし、私のような女はどちらかといえば少数で、このくらいの年ごろであれば男子に恋慕を持つのが一般的なのだと気が付いたのは最近になってからだ。前の席に座っている加藤さんも、同じ部活のゆりちゃんもマキも、みんな思いを寄せる異性がいるらしい。
予冷が鳴るまであと三分。ふと昼休みの教室を見渡せば、床でプロレスごっこをする奴とそれを見て大声で笑う奴。数人で固まってコソコソと持ち込んだゲームをする奴。制服についたグランドの砂をベランダで払う奴。
ああ、汚い。うるさい。全員まとめて消え失せればいいのに。舌打ちしたくなるほどの嫌悪感をぐっと抑え込むために、鞄から英語の課題プリントが入ったファイルを取り出そうと少しかがんだ。
「なあなあ、次の英語のやつちょっとうつさせてくれよ!俺今日あたるんだよ~」
突如右側の至近距離から叩き込まれた雑音に、抑え込んだはずの舌打ちが飛び出してしまった。
「ほんと今日だけは頼む!ジャッカル先輩今日教えてくんなくってよ~」
その音は幸いというか不幸にも本人の耳には届かず、課題転写乞食は繰り返される。奴がしゃべると同時に本人の唾やグランドからくっつけてきた砂が舞っている気がして不快感に拍車がかかった。
「嫌だ」
「なんでだよ!たまにはいいじゃん!!」
ほぼ毎日のように何かしらの教科で課題を移させてくれるようせがんでくるが、一度もそれに応じたことは無い。何の縁だが考えたくもないけれども1年から引き続き2年も同じクラスで、私がそういう女だということはどんな馬鹿でもわかるはずだ。それにもかかわらずこいつは毎日毎日毎日毎日、一切学ばずに配られた状態から一歩も進化していない状態のプリントやワークを片手に私に乞食を続ける。
学ばない。すぐに人に頼る。泣きついて解決すると味を占めて繰り返す。
そもそも男とか女とか以前に、そんな人間が大嫌いだ。
大きな挫折を繰り返して、這い上がることができないまでに絶望を味わえばいいのに、不思議とこういう奴にそんなドラマティックなことは起こらないように世の中はできている。
「ったく・・・ちょっとくらいいじゃねーかよ」
拒絶以外の言葉を発しない私にいつも通り折れ、予冷が鳴り響く教室を横断して同じ部活の男子のプリントを丸写しし始める奴の姿を睨んだ。
思えば、男子という存在に対して嫌悪感を抱くようになったきっかけもこいつだったような気がする。
私は男子が嫌いだ。
もっと言うと、隣の席の切原赤也が大嫌いだ。
こんなに嫌いなのに、神様はなにが楽しいのか何度席替えをしても私の席の縦横斜めのどこかに必ず奴を配置する。勘弁してくれよ。
「おーい星谷、切原起こせー」
授業が始まって10分もしないうちに人のを丸写ししたプリントによだれを垂らして眠りこける切原の背中を仕方なく叩くと「…んあ?」と間抜けな声と共に起き上がる。クラス中が笑うがこちらはちっとも面白くない。
「んだよも~起こすんじゃねえよ」
寝起きが死ぬほど悪くうとうとしている奴に、これから先の人生で急いでるときに限って全部信号が赤になる願掛けを込めて睨みつける。こいつ信号とか無視しそうだけど。もう永遠の眠りについてしまえばいいのに。
「え~でも体育の時とかかっこよくない?」
「ちょっと乱暴だしガサツだけどそこがまた男の子らしくていいよね」
こんなクソ野郎のことを好きだという友人も何人かいるのだから本当に驚く。みんな目に節穴どころかブラックホールでも空いてるんじゃないだろうか。
「いやぜんっぜんわからない。本当にあいつ無理だし」
「いいなー梨々香はいつも切原君と席近くて」
「ちっとも良くないよ!あいつほんとうるさいし汚いし今すぐクラスごと変わりたい」
こんな風に必死に苦労を話しても誰も理解してくれないから、私の中の切原との溝は深まるばかりだった。
そして同じクラス歴が3年になった秋の放課後、事件は起きた。
「ねえちょっとは仕事しろよ」
「俺部活行きてえんだけど。いいじゃん明日やるからさあ」
「そう言って昨日もサボったろ。こっちも部活あんだよ、全部押し付けないでほしいんだけど」
4月の委員会決めの日、風邪で休んだ私は一定の時期しか活動しない分全委員の中で最も面倒くさいと名高い学園祭実行委員に任命されていた。しかもよりによってこの切原と二人。最悪だ。このクラスの同窓会あっても絶対行かないからな。
「俺11月から合宿あんの!だからそれまでにいろいろ調整とかあるんだって」
「そんなの知るかよ、日本代表だかなんだか知らないけど今あんたの仕事なんだよこれ」
「わーってるって!明日!明日はやるから!じゃ!」
頭に来た。もう我慢できない。もとから期待なんてしていなかったけどここまで押し付けられて黙っていられるか。
「ほんとふざけんなよワカメ野郎!あんたみたいな奴がプロになんてなれるかよ!」
走り去ろうとする背中に彼の髪型を揶揄した暴言をぶつけた。
その瞬間、切原の動きがぴたりと止まった。まずい、と一瞬思ったが私は悪くない。悪いのは全部こいつなんだから。
「…おいテメエ今なんつった」
ゆっくりと振り向いた切原はいつもの馬鹿面でなかった。背中に嫌な汗が流れるけど後には引けない。
ワカメ野郎、もう一度呟く前に近くの窓ガラスの割れる音が響き渡った。細かい破片が散らばってとっさに顔を守った腕に突き刺さる。痛い。
肌が血みたいに赤くなった切原はそのまま真っ直ぐ獲物めがけて飛びかかってきた。逃げ遅れた私はあっというまに下敷きになり、そのまま意識を失った。
気が付いたら、保健室のベッドの上だった。
切原の両親や部活のもと先輩を名乗る人たちが申し訳なさそうに何度も謝罪してくれた。すっかりしおらしくなった切原本人もバツが悪そうに「悪かった」と頭を下げに来た。
私も外見のことも含めてひどいこと言ったし、悪かった。そうわかっていても素直に言えなかった。怪我をさせた人間と被害者になってしまった以上、気まずさは中学を卒業してもぬぐい切れないままだった。
それ以来、私は男子が嫌いだったのが苦手になってしまった。もともとそんなに話す機会も無かったのだが、あの日のあの瞬間、異性との力の差を思い知らされてしまったからだ。どんなに強がっていても、力ずくなら負ける。そんな当たり前なはずの事実が怖かった。
切原も私も立海の付属高校に進学し、クラスは同じだけど一切かかわらない日々が続いた。数人の親しい女子とだけ関わりながらひっそりと高校生活を送る私に対して、切原はテニスでどんどん有名になっているようで、校内では英雄のような存在だった。海外にも飛んでいるらしく、1か月ほど登校しないこともあった。もしかしたら本当に卒業後はプロになるのかもしれない。
高校3年生の体育祭。私は全学年の前で徒競走で盛大に転び、肘と脚から大量出血した。痛さと恥ずかしさでうずくまっていると、「オイ大丈夫か!」と声をかけられる。顔を上げると、切原が心配そうにのぞき込んでいた。
「うわっすげえ血出てんじゃん!行くぞ!」
えっちょっと大丈夫だから、そう言う前にふわりと体が持ち上げられ、周囲から冷やかすような声が上がる。バカヤロー保健委員だよ!と鎮まらせてから応急処置用のテントに運んでくれた。あの頃同じくらいだった身長はいつのまにか頭2個分も高くなっていて、顔が熱くなった。
水で血を洗い流し、止血させてから消毒液を塗ってくれる。
「随分慣れてるね」
「いろんなとこでいろんな怪我したしさせたしなあ。自然とおぼえるっしょ」
ガラスの破片が刺さったあとがうっすら残る私の左腕をじっと見ながら切原は答えた。
「残っちまってるな。ごめんな。マジで」
覚えてくれていた。
テニスで日本を代表する選手になっても、世界中を飛んでいても。あの日のことを彼は覚えていたし、きっと私と同じくらいの痛みを抱えてくれていた。それだけで十分だった。
「私こそ、ひどいこと言ってごめん。あの時それを言えなくて、ごめん」
やっとあの日から抜け出すことができた。委員会の仕事をサボらなくなり、傷の手当てが上手くなった切原に私も追いつけるようにしなければならない。
わだかまりが解けてから、切原のテニスの試合も友人たちと観に行くようになった。泥臭くて、楽しそうにボールを追いかける切原を見ているとなんでもできる気がした。大学は女子大の外部受験を考えていたけど、共学でもいいかもしれない。そう考えなおしてそのまま立海大学への進学が決まった。
卒業式の日、プロになるため渡米が決まった切原の席まわりにはサインを求める生徒が列をつくっていた。最後くらいいいかもしれない。そう思って卒業アルバムの空きスペースを用意して列に並んだ。
「ハイハイ次の人―…ってアレ」
切原は意外そうに私の顔を見て、照れくさそうに頭をかいた。そして卒業アルバムを受け取ると、がりがりと前の人より明らかに長い時間をかけて文字を書き込んだ。
名前覚えてたんだね、とか字汚いな、とかそんな可愛くないことを言おうとしたのに、間違えて「ありがとう」と言ってしまった。 そんな私の顔を見た切原が慌ててポケットからぐしゃぐしゃのティッシュを差し出す。教室内が笑いに包まれ、いつのまにか私も切原もつられて笑っていた。6年間同じ教室に押し込められていた私たちは、少しだけ大人になって同時に別々の場所へ旅立った。
久しぶりに高校の卒業アルバムを開くと、切原選手のサインと汚い文字が色あせないまま踊っている。
『星谷梨々香。お前のおかげで他人の痛みとか考えるようになった。世界のどこにいても忘れねえ。元気でな』
あれから十年以上の時が経った。今日も切原は小さな画面の中であの頃と同じように楽しそうにテニスボールを追いかけている。 きっと、他人の痛みを理解することも忘れないまま。
「それ、オークションで売るんじゃねえぞ!」
だから私も、そんな切原の言葉を律義に守り続けている。
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