テニスの王子様
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抱けない顔だ、と数秒で判断した。
人権の無い息の詰まる平日昼間で唯一自由気ままに過ごすことの許される午後12時15分から13時15分までの1時間。他でもない自分自身と会話しながら食事をとることが私の日課だった。
たったの数分で空になった弁当を元通りハンカチで包む。バッグから読みかけの本を取り出そうと隣の椅子に身を乗り出すと、バッグが消えていた。そして代わりに、長すぎて持て余しているとしか思えない脚がフレームインした。えっあれ、いつのまに?
3,4人用の四角いテーブルは学食に300台以上設置されている。この時間に学食を利用する学生は限られていて、つまりなんというか、わりとガッラガラだ。いや今日はこれでもそこそこに混んでいる方かもしれない。でも見知らぬ人と相席を強いられるほど混んでいるわけではないはずだ。
とりあえず、この2年ほどのアルバイトで培った愛想笑いをぎこちなく向けながら会釈をするが、おそらく一切笑えていない。
ゆっくり視線を上げると、何が面白いのか、口元だけに笑みをたたえた整った顔立ちの殿方が座っていた。そして、「こんにちは」となんとなく想像していた通りの低いイケメンボイスで返してくる。
70点、けれど、抱けない顔だ。
彼氏が絶えない、というかアプローチしてくる男が年中絶えないフェロモンのシンボルのような友人がくれたアドバイスを私は常に実践している。
―男に興味持てないじゃなくて、持つんだよ!まず周りを見渡してみ。あの人とチューできる?あの人は?ね、こんな感じで考えれば自然と興味がわくでしょ。
残念ながら私にそのハードルは富士山並みに高く、そのへんのどうでもいい男を見るたびいちいちキスできるか否かを考えたら男性への興味どころか嫌悪感で押しつぶされそうになってしまった。そこで、自分が抱けるかどうか…自分が主導権を握る形を想像する方法に変えることで事なきを得たのだ。
身の程知らず加減は置いておいて私の好きな顔について語らせていただくと、それは吉沢亮だ。または山下智久、もしくは桐山漣だ。わかりやすすぎて自分でも呆れるほどに同じ系統の美青年たち。この3人なら抱けるどころか抱かれても構わない。しかしあんなに国宝級に綺麗な顔をした男性がこんな出荷が断念されたじゃがいものような女を抱いているところなんて想像しただけで絶対に嫌だ。
塩と砂糖を混ぜたような顔、といえば分かり易いだろうか。向井理では塩成分が強すぎるし、千葉雄大では砂糖成分が強すぎる。
目の前にいるこの男は、向井理にこそ一切似ていないものの、塩成分が強すぎることは確かだった。目が開いてないことも、上品なぱっちり二重瞼が好きな私にとってはマイナスにしかならない。よって、整った顔ではあるとは思うものの抱くことはできない。要するに私にとってのこの判定はただ単に顔が好みであるか否かの話だ。だって、顔って重要じゃない?
「あ、はい、こんにちは」
「毎日弁当を持ってきているようだが、自分で作っているのか?」
「そうですけど…」
「そうか。関心だな」
物凄い勢いで心拍数が上がっていくのをどこか冷静に自覚しながら、わざとらしく腕時計を見た。あ~もう時間だ。すみません失礼します~。大噓をついて荷物を70点青年の隣の椅子からひったくり、競歩選手並みのスピードで退散する。
こっわ…絶対宗教勧誘じゃんあれ…
上京ならぬ上神奈川する前、田舎の母から口すっぱく言われていたことを思い出す。ニコニコと愛想良く近づいてくる見知らぬ人間は大体宗教勧誘か怪しいセミナーの人だからね、話聞いてたらあっという間に飲まれちゃうからね。…お母さんありがとう。貴女の言うことに間違いはなかったよ。全く、一人寂しく弁当食ってる女に目を付けるなんて恐ろしい。
だいぶ昼休みは邪魔されたけど、たまには昼寝でもして午後の講義に備えるのもいいかもしれない。今日は9月のわりに天気良いし、日の当たらない席を早めにとってしまおう。運動不足のせいで簡単に上がってしまう呼吸を整え、まっすぐ歩きだした。
昨日の私は、かなり呑気だった。
「ほう、夏目漱石か」
びくりと反射的に後ろを振り向いた。奴が立っている。
さすがにわきあがる嫌悪感が抑えきれず、何か用ですか?と自分でも引くほどに冷たい声で尋ねた。しかしそいつは全く動じることなく、それどころか「失礼。」と隣に腰掛けた。
「あの、何ですかあなた」
「あなたが読んでいる本」
「は?」
「夏目漱石だろう。俺も好きなんだ。しかし文学部でもないのに珍しいな」
いや会話の続きがしたいんじゃなくてですね、と言いかけるが一旦置いておくことにしよう。あとカバーも見ずによくわかったな。
「私のこと、知ってるんですか」
「勿論だ。立海大学情報学部2回生、星谷梨々香」
もうダメだ、時間も思考も停止した。
相手に個人情報が知られている以上どうにもならない。私はどうなるのだろう。よくわからない宗教に入れられ多額のお布施をとられるのだろうか。いや金ならまだしも生贄とかにさせられるのかな。誰か、誰か、
「これは失礼な順序だったな。俺は経済学部の柳蓮二という者だ。よろしく」
全くよろしくしたくないのに差し出された手を握ると、温度があることに意外性を感じる。
「ではまたな」
定規みたいにまっすぐ伸びた背中が去っていくのを呆然と見ること数秒、ハッと我に返った。「またの機会なんてないから!」と叫ぶが振り返りもせず消えていった。
柳蓮二は宣言通り「また」の機会をつくった。つくりまくった。
学食の場所をA棟からC棟に変えても、数日でかぎつけられた。私が存在を無視しても一切気にしていない様子で話しかけてきたり、隣で勝手に本を読み始めたりする。あまりにもスマートにやってのけるため、友人たちに相談してもストーカーだと信じてもらえない。それどころか「惚気ないでよ~」と彼氏と間違えている始末だ。
「遅かったな」
そしてついに今日、講義終了後門の前で待っていた。
速足でその前をすり抜けると、同じスピードでついてくる。もう警察呼ぼうかな。
「待ってくれ。もう暗いから女性一人で帰るのは危険だろう。送る」
「結構です。家知られたくないし」
「では、このあたりで夕飯でも食わないか。もちろん俺の奢りだ」
「それも結構です。そうしていただく義理ありませんから」
柳蓮二は困ったような顔をして見せた。しかし今のこの状況は世界中の誰がどう見たって私の方が困っている。
なんだ、なんなんだこいつは。そうまでして私を宗教団体だかセミナーだかに引き入れたいのか。
「少し…1時間程度話ができるだけでもいいのだが」
この数週間を振り返った。確実に柳蓮二により引っ掻き回された日常。
こいつの性質上、このまま無視し続けても何も変わらない。それならば、今片付けたほうがいいのかもしれない。いや、今片付けるべきだろう。
「わかりました。1時間なら。あと、奢らなくていいから私が店を決めていいかな。」
わかりましたも言い終わらないうちに、「勿論だ」と微笑んだ。
いざというときに助けを求められる…繁華街、
それなりにリーズナブル…チェーン店、
電車に乗るふりをして住所を悟らせない…駅前にある店、
私たちは大学最寄り駅前の某ハンバーガーショップに入った。明るい店内で見る柳蓮二はやっぱり整った顔をしていて、質の良さそうなシャツも相まって育ちの良さそうな雰囲気を醸し出している。ファストフードが似合わない男だ、と思った。
「よく来るのか」
「いや、久々に来た。あんまり外食とかしないんで」
金が無いんだよ金が、と付け足そうとしたがそこから怪しいものを売られる流れになったら困るのでやめた。
私の分まで支払おうとする柳蓮二を押しのけてダブルチーズバーガーセットを頼む。同じものを注文した彼とともに席に着いた。
「今日は星谷の話が聞きたい」
「は?」
「例えばそうだな、最近読んで面白かった本は」
なるほど、柳蓮二は宗教勧誘ではなく街頭調査員だったらしい。
それならば話は早い。適当にアンケートに答えて帰らせていただこう。
「最近っていうか今読んでる途中なんだけど、これですかね」
バッグから読みかけの文庫本を取り出し、テーブルに置いた。
「これは…確か百貨店のコピーライターが執筆した短編集だな」
「そうそう!だからか、ストーリーもいいんだけどタイトルがどれも素敵でね。共感できるかは別として刺さるんだ」
「登場人物の女性一人一人が洋服をきっかけに成長したり前向きになる物語だったな。丁寧で読みやすい文章や構成もまた魅力的だ」
「え、読んだことあるんですか」
「ああ。」
「嘘、え、すごい!結構女の人向けの本かなって思ってたんだけど」
私は休み時間の暇潰しに本を読んでいるだけで、読み進めるのも遅いしジャンルもかなり偏っている。そしてそれだけに、誰かと読んだ本の内容や感想を共有するのは初めての体験だった。
気づいたら時計の短い針が3周していた。爽健美茶にゴロゴロ浮かんでいた氷は解け切っている。
「さて、今日はもう遅い。帰ろう」
柳蓮二の一言がなければ私は延々と話し続けていただろう。
家まで送るというがそこは丁重にお断りし、家路につく。
「楽しかったな…」
ふと脳裏に浮かんだ柳蓮二の顔面点数が、75点くらいに上がっている気がして慌ててホーム画面の吉沢亮を見た。美しい。
でも、また一緒に食事に行くくらいならいいかもしれない。
そう思ってしまってから、自分でも驚くくらいに柳蓮二に対するガードが緩んでいった。友人に「彼氏、また来てるよ」と言われても否定するのも面倒になった。週に2回は外食をするようになった。その向かいの席には必ず柳蓮二がいて、いろんな話をした。あらゆることの知識が豊富でちょっとウンチクっぽいときもあるけど、茶化す間もなく話に引き込まれてしまう。連れていかれる店も、悔しくなるくらい雰囲気も味も良かった。
柳蓮二と過ごす時間はあっという間に過ぎていく。そう気が付いたのは、相変わらず定規みたいな背中が離れていくのがなんだか寂しくて、見えなくなるまで見送ったときだった。
そんなある日、柳蓮二はいつもみたいにこれまた洒落た洋食屋に連れて行ってくれた。ひとしきり話して笑って、さて帰るかと席を立った。
トイレから戻ると、柳蓮二が会計を済ませて私が出てくるのを待っていた。いそいそとバッグから財布を取り出す。
「ごめんお待たせ!いくらだっけ?」
「気にするな。このくらい」
「いや気にするよ、学生同士だし。えーっと確か1800円だったよね」
「本当に構わない」
「ダメだよ、そういうのはいつか彼女にでもしなって」
「ならば、恋人になればいい」
「ん?」
「恋人になればいいだろう」
本当に今日はどうしたんだよ、そう茶化そうとしたのに珍しく開眼している目がそれを許さなかった。
「えっと、柳蓮二、あの」
「お前が好きなんだ。初めて見たときからずっと」
「え、え、」
「俺の恋人になってくれないか」
「嘘だ」
「そんなわけあるか」
「だって、そんな」
柳蓮二がそんなこと言うはずがない、だってあんた、いつだったか計算高い女が好きって言ってたじゃん。
最初こそ気持ち悪かったけど、柳蓮二は良い奴だ。頭が良くて話が面白くて優しくてさりげなくて、やることなすこと全部腹立つくらい上手くいってて。顔も今じゃ100点なんてとっくに超えてる。
そんな柳蓮二が、私のことなんて好きなわけない。
「飲みすぎなんじゃない?あ、今日は飲んでなかったっけ…はは、どっちでもいいか」
「…星谷」
「ごめん、今日は帰る」
柳蓮二は追ってこなかった。
2週間経って街中がすっかりジングルベルな雰囲気になった今も、連絡すら来ていない。いままでなら翌日には校門前で待ち構えていただろうあいつの姿はいつになっても現れず、拍子抜けした。なんだよ、あんなにしつこかったわりにはあっさりしてるじゃないですか。
「最近彼氏こなくない?喧嘩?」
「いやだから彼氏じゃないんだってば、ストーカーだって」
「ふーん。そのわりに元気ないね」
「バイトが書き入れ時なんで」
疲れてるんだよ、と机に突っ伏す。今日も明日も、来週のクリスマスイブもシフトが入っている。今年も随分と稼げそうだ。
「ねえこれだよね、あんたの彼氏」
「彼氏じゃないって…ん!?」
スマホ画面に映るのは、ジャージを着てラケットを持ち、ついでにオーラを背負って立つ柳蓮二の姿だった。
見出しにはUー20日本代表、世界屈指のデータテニスプレイヤーの文字。
「あんだーとぅえ、ん?日本代表?は?」
そんなこと一言も言ってなかったじゃないか。
「まさか知らなかったの?」
「知らないよ!テニス別に詳しくないし、あいつ全然自分で言わないし!」
「好きな女に『俺実は日本代表なんだぜ~』って自分でわざわざ言うのカッコ悪くない?」
「それはそうかもしれないけどっ!」
「あ~やっぱ告白されてたんだ」
クソ、はめられた。
「で、逃げたんでしょ」
なんでわかる。
「まあ私も高校からしか知らないけど。柳くん、当時からめっちゃモテてたよ。そんな人がさ、あんたみたいな冗談通じない女からかうためだけに弄んだり告ったりするかね?本当はわかってんじゃないの?」
柳蓮二がそんなことする奴じゃないということくらい本当はわかっている。本気で好いてくれていることくらいわかっている。
そして、私自身が柳蓮二に恋をしていることだってとっくにわかっている。
「…ただ怖いだけだよ」
だってそんな素敵な人が、私と釣り合うわけがない。容姿はおせじにも綺麗とは言えなくて、頭だってせいぜい平均レベルで、スポーツだって芸術だって何一つ才能を持ち合わせていない、卑屈な普通の女子大生。
大体私、柳蓮二のことをほとんど何も知らない。テニスが強いことも、薄々そうだとは思っていたけど、女の子からモテることも。そこそこの時間を共にしていたはずなのに、きっと私が楽しくて話過ぎていたせいだ。それをこうなるまで相手に気づかせないんだから腹が立つ。ああなんかムカついてきたな。
もし恋人になったとしても、劣等感を引きずり続けるだろう。柳蓮二は優しいから、私のその感情が消えるようにきっと力を尽くしてくれる。でも、これは他でもない私の内面の問題だ。
それなら。
私はその夜、柳蓮二に初めて自分から連絡を取った。クリスマスの日にもう一度会ってほしいということを伝えるために。
「わかった。」とだけ返事が来たのを確認して、私はクローゼットの奥からラケットを引っ張り出した。
そして迎えた12月25日。午前11時。
「…星谷、これは」
「来てくれてありがとう。急で申し訳ないんだけど、今から私と戦ってほしくて」
ジャージ姿にラケットバッグを背負って現れた私を前にして、柳蓮二は開眼したまま立ち尽くしていた。
「好きって言ってくれてありがとう。本当はすごく嬉しかった。でも、今のまま付き合っても私ずっと劣等感抱えっぱなしになると思う」
「…」
「だから、私が柳蓮二にテニスで勝ったら付き合ってほしい。一応これでも中高はテニス部だったし、ここ最近練習もしてた」
「星谷、俺は」
「最近知った。日本代表なんでしょ。ほぼ無理なことくらいわかってるよ。でもこうさせてほしい。お願いします」
「お前が、そう言うのなら」
そのまま大学内のコートを借りることになった。部活を休んでいるはずの柳蓮二が現れ、しかもジャージに着替え始めたせいで部員たちはざわついた。しかし、部員でもなんでも無い文字通り部外者の女の私がいたことでタダ事じゃないことは感じとったらしく、ちらちらとこちらを見ながらも練習を再開した。
「蓮二!大切な用事があるから部活は休むと、」
「すまない弦一郎。これがその大切な用事だ」
黒い帽子の男はサッパリ意味が分からないという顔で隣のコートに帰っていく。そりゃそうだろうな。自らこの状況をつくり出した私だって、正直意味が分からない。
意味が分からないけど、こうするしかない。
そして、試合がスタートした。ところが。
「ゲームセット!ウォンバイ柳!ゲームカウント5-0!」
ものの15分もしないうちに2ポイントしか取れないまま終了した。その二点もあまりに無様な私を見るに見かねて柳蓮二がダブルフォルトしたポイントだ。というかサーブはなんとか入ってもまともにラリーが続かなかった。
当然だ。練習期間、5日間。ブランク、2年と半年。現役時代最高戦績、
「高校2年時ダブルスで地区大会3位入賞、だろ」
これくらい知られているのではもう驚かない。
やっぱりダメだった。それなのに、こんなにも清々しい。久々に身体も動かせたし。
なにより、柳蓮二がいればたとえ恋人じゃなくたってなんだって楽しい。それでいいじゃないか。
「ちょっと待て。何勝手に自己完結しようとしているんだ」
「え、なんで。普通に負けたから終わりじゃん。今まで通りってことで」
「それはお前が勝った場合の話だろ。俺が勝った場合どうなるか決めていなかったよな」
「あ」
「全く、つくづく勝手な奴だ。人が勇気を出して告白しても聞く耳は持たないわ、あげくクリスマスデートかと思って部活を休んでまでうきうき行ってみればジャージで来るわ…どれだけ俺を振り回せば気が済むんだ」
子どもみたいに怒る柳蓮二がなんだか新鮮で面白くてニヤニヤしていると、真面目に聞いているのか、と怒られた。
「その節は本当に申し訳ありません…。あっそうだ、昼ご飯奢るよ!この前結局お金返せなかったし!ね、それで許してよ」
「馬鹿野郎、そんなもので償えるとでも思っているのか」
「はい、すみません」
不味いな…今財布にいくら入ってたっけ、万札あったかな、と必死に思い出そうとするが思い出せない。
「では、これから3つ俺の言うことを実行するのでどうだ」
「3つ!?多いな」
「諸々ひっくるめての利子つきだと考えれば妥当だと思うが」
「あーもうわかったよ聞きますよ、何!?」
「すべて簡単なことだ。まず1つ目、このあとすぐ自宅に戻り私服に着替えてこい。」
どうだ簡単だろ、とでも言いたげに腕を組んだ。
いや簡単だけど往復で20分はかかるしこの汗だくの状態から修正するとするなら1回シャワー浴びないといけないし。
「面倒だね…」
「文句を言うな。2つ目、着替えてきたら昼食に付き合え。金は出すな」
なんでそうまでして人に奢られたくないんだろうこの人。気持ちはわからなくもないけど。
「3つ目、」
一瞬何が起きたのかわからなかった。わからんが、柳蓮二が今までで一番距離が近いことだけはわかる。眩暈がした。
「もう一度言うが、俺はお前が好きだから恋人になってほしい」
これ、3つじゃなくて4つじゃない?なにどさくさに紛れて人のファーストキッス普通に奪ってんだ。神聖な場所(であろう)テニスコートで何してくれてんだ。
こういう行動がすべてキマってしまうのも。さっきまでさんざん命令口調だったくせにここ一番で「ほしい」なのも。相手にもならなかったから全貌は見れなかったとはいえフォームがいちいち綺麗だったのも。全部ずるい。
でもまあ私も返事もせずに逃げたりしたし、十分ずるい奴だ。こう考えるとずるい奴同士、案外釣り合っているのかもしれない。
返事の代わりに十数秒前の柳蓮二の真似をしてみた。全く驚かず「計算通りだ」とでも言わんばかりに腰に回される手に腹が立った。抱けない顔だと思ってたのにたったいま抱かれてることに気づいて、また腹が立った。最初から腹立たしい奴だったけど、今日は史上最強に腹が立つ。
でも柳蓮二の手が氷みたいに冷たいことに気づいて、「緊張してるの」と聞いても何も返事が無いことにきゅんとしてしまったから、許してやらんことも無い。
試着室でつい柳蓮二を思い出して衝動的に買ってしまったままクローゼットで眠っているワンピースを思い出す。あれ着て食事に行こう。どんな顔するかな。
試合にボロ負けたはずなのに、どうしようもなく気分が上がった。
人権の無い息の詰まる平日昼間で唯一自由気ままに過ごすことの許される午後12時15分から13時15分までの1時間。他でもない自分自身と会話しながら食事をとることが私の日課だった。
たったの数分で空になった弁当を元通りハンカチで包む。バッグから読みかけの本を取り出そうと隣の椅子に身を乗り出すと、バッグが消えていた。そして代わりに、長すぎて持て余しているとしか思えない脚がフレームインした。えっあれ、いつのまに?
3,4人用の四角いテーブルは学食に300台以上設置されている。この時間に学食を利用する学生は限られていて、つまりなんというか、わりとガッラガラだ。いや今日はこれでもそこそこに混んでいる方かもしれない。でも見知らぬ人と相席を強いられるほど混んでいるわけではないはずだ。
とりあえず、この2年ほどのアルバイトで培った愛想笑いをぎこちなく向けながら会釈をするが、おそらく一切笑えていない。
ゆっくり視線を上げると、何が面白いのか、口元だけに笑みをたたえた整った顔立ちの殿方が座っていた。そして、「こんにちは」となんとなく想像していた通りの低いイケメンボイスで返してくる。
70点、けれど、抱けない顔だ。
彼氏が絶えない、というかアプローチしてくる男が年中絶えないフェロモンのシンボルのような友人がくれたアドバイスを私は常に実践している。
―男に興味持てないじゃなくて、持つんだよ!まず周りを見渡してみ。あの人とチューできる?あの人は?ね、こんな感じで考えれば自然と興味がわくでしょ。
残念ながら私にそのハードルは富士山並みに高く、そのへんのどうでもいい男を見るたびいちいちキスできるか否かを考えたら男性への興味どころか嫌悪感で押しつぶされそうになってしまった。そこで、自分が抱けるかどうか…自分が主導権を握る形を想像する方法に変えることで事なきを得たのだ。
身の程知らず加減は置いておいて私の好きな顔について語らせていただくと、それは吉沢亮だ。または山下智久、もしくは桐山漣だ。わかりやすすぎて自分でも呆れるほどに同じ系統の美青年たち。この3人なら抱けるどころか抱かれても構わない。しかしあんなに国宝級に綺麗な顔をした男性がこんな出荷が断念されたじゃがいものような女を抱いているところなんて想像しただけで絶対に嫌だ。
塩と砂糖を混ぜたような顔、といえば分かり易いだろうか。向井理では塩成分が強すぎるし、千葉雄大では砂糖成分が強すぎる。
目の前にいるこの男は、向井理にこそ一切似ていないものの、塩成分が強すぎることは確かだった。目が開いてないことも、上品なぱっちり二重瞼が好きな私にとってはマイナスにしかならない。よって、整った顔ではあるとは思うものの抱くことはできない。要するに私にとってのこの判定はただ単に顔が好みであるか否かの話だ。だって、顔って重要じゃない?
「あ、はい、こんにちは」
「毎日弁当を持ってきているようだが、自分で作っているのか?」
「そうですけど…」
「そうか。関心だな」
物凄い勢いで心拍数が上がっていくのをどこか冷静に自覚しながら、わざとらしく腕時計を見た。あ~もう時間だ。すみません失礼します~。大噓をついて荷物を70点青年の隣の椅子からひったくり、競歩選手並みのスピードで退散する。
こっわ…絶対宗教勧誘じゃんあれ…
上京ならぬ上神奈川する前、田舎の母から口すっぱく言われていたことを思い出す。ニコニコと愛想良く近づいてくる見知らぬ人間は大体宗教勧誘か怪しいセミナーの人だからね、話聞いてたらあっという間に飲まれちゃうからね。…お母さんありがとう。貴女の言うことに間違いはなかったよ。全く、一人寂しく弁当食ってる女に目を付けるなんて恐ろしい。
だいぶ昼休みは邪魔されたけど、たまには昼寝でもして午後の講義に備えるのもいいかもしれない。今日は9月のわりに天気良いし、日の当たらない席を早めにとってしまおう。運動不足のせいで簡単に上がってしまう呼吸を整え、まっすぐ歩きだした。
昨日の私は、かなり呑気だった。
「ほう、夏目漱石か」
びくりと反射的に後ろを振り向いた。奴が立っている。
さすがにわきあがる嫌悪感が抑えきれず、何か用ですか?と自分でも引くほどに冷たい声で尋ねた。しかしそいつは全く動じることなく、それどころか「失礼。」と隣に腰掛けた。
「あの、何ですかあなた」
「あなたが読んでいる本」
「は?」
「夏目漱石だろう。俺も好きなんだ。しかし文学部でもないのに珍しいな」
いや会話の続きがしたいんじゃなくてですね、と言いかけるが一旦置いておくことにしよう。あとカバーも見ずによくわかったな。
「私のこと、知ってるんですか」
「勿論だ。立海大学情報学部2回生、星谷梨々香」
もうダメだ、時間も思考も停止した。
相手に個人情報が知られている以上どうにもならない。私はどうなるのだろう。よくわからない宗教に入れられ多額のお布施をとられるのだろうか。いや金ならまだしも生贄とかにさせられるのかな。誰か、誰か、
「これは失礼な順序だったな。俺は経済学部の柳蓮二という者だ。よろしく」
全くよろしくしたくないのに差し出された手を握ると、温度があることに意外性を感じる。
「ではまたな」
定規みたいにまっすぐ伸びた背中が去っていくのを呆然と見ること数秒、ハッと我に返った。「またの機会なんてないから!」と叫ぶが振り返りもせず消えていった。
柳蓮二は宣言通り「また」の機会をつくった。つくりまくった。
学食の場所をA棟からC棟に変えても、数日でかぎつけられた。私が存在を無視しても一切気にしていない様子で話しかけてきたり、隣で勝手に本を読み始めたりする。あまりにもスマートにやってのけるため、友人たちに相談してもストーカーだと信じてもらえない。それどころか「惚気ないでよ~」と彼氏と間違えている始末だ。
「遅かったな」
そしてついに今日、講義終了後門の前で待っていた。
速足でその前をすり抜けると、同じスピードでついてくる。もう警察呼ぼうかな。
「待ってくれ。もう暗いから女性一人で帰るのは危険だろう。送る」
「結構です。家知られたくないし」
「では、このあたりで夕飯でも食わないか。もちろん俺の奢りだ」
「それも結構です。そうしていただく義理ありませんから」
柳蓮二は困ったような顔をして見せた。しかし今のこの状況は世界中の誰がどう見たって私の方が困っている。
なんだ、なんなんだこいつは。そうまでして私を宗教団体だかセミナーだかに引き入れたいのか。
「少し…1時間程度話ができるだけでもいいのだが」
この数週間を振り返った。確実に柳蓮二により引っ掻き回された日常。
こいつの性質上、このまま無視し続けても何も変わらない。それならば、今片付けたほうがいいのかもしれない。いや、今片付けるべきだろう。
「わかりました。1時間なら。あと、奢らなくていいから私が店を決めていいかな。」
わかりましたも言い終わらないうちに、「勿論だ」と微笑んだ。
いざというときに助けを求められる…繁華街、
それなりにリーズナブル…チェーン店、
電車に乗るふりをして住所を悟らせない…駅前にある店、
私たちは大学最寄り駅前の某ハンバーガーショップに入った。明るい店内で見る柳蓮二はやっぱり整った顔をしていて、質の良さそうなシャツも相まって育ちの良さそうな雰囲気を醸し出している。ファストフードが似合わない男だ、と思った。
「よく来るのか」
「いや、久々に来た。あんまり外食とかしないんで」
金が無いんだよ金が、と付け足そうとしたがそこから怪しいものを売られる流れになったら困るのでやめた。
私の分まで支払おうとする柳蓮二を押しのけてダブルチーズバーガーセットを頼む。同じものを注文した彼とともに席に着いた。
「今日は星谷の話が聞きたい」
「は?」
「例えばそうだな、最近読んで面白かった本は」
なるほど、柳蓮二は宗教勧誘ではなく街頭調査員だったらしい。
それならば話は早い。適当にアンケートに答えて帰らせていただこう。
「最近っていうか今読んでる途中なんだけど、これですかね」
バッグから読みかけの文庫本を取り出し、テーブルに置いた。
「これは…確か百貨店のコピーライターが執筆した短編集だな」
「そうそう!だからか、ストーリーもいいんだけどタイトルがどれも素敵でね。共感できるかは別として刺さるんだ」
「登場人物の女性一人一人が洋服をきっかけに成長したり前向きになる物語だったな。丁寧で読みやすい文章や構成もまた魅力的だ」
「え、読んだことあるんですか」
「ああ。」
「嘘、え、すごい!結構女の人向けの本かなって思ってたんだけど」
私は休み時間の暇潰しに本を読んでいるだけで、読み進めるのも遅いしジャンルもかなり偏っている。そしてそれだけに、誰かと読んだ本の内容や感想を共有するのは初めての体験だった。
気づいたら時計の短い針が3周していた。爽健美茶にゴロゴロ浮かんでいた氷は解け切っている。
「さて、今日はもう遅い。帰ろう」
柳蓮二の一言がなければ私は延々と話し続けていただろう。
家まで送るというがそこは丁重にお断りし、家路につく。
「楽しかったな…」
ふと脳裏に浮かんだ柳蓮二の顔面点数が、75点くらいに上がっている気がして慌ててホーム画面の吉沢亮を見た。美しい。
でも、また一緒に食事に行くくらいならいいかもしれない。
そう思ってしまってから、自分でも驚くくらいに柳蓮二に対するガードが緩んでいった。友人に「彼氏、また来てるよ」と言われても否定するのも面倒になった。週に2回は外食をするようになった。その向かいの席には必ず柳蓮二がいて、いろんな話をした。あらゆることの知識が豊富でちょっとウンチクっぽいときもあるけど、茶化す間もなく話に引き込まれてしまう。連れていかれる店も、悔しくなるくらい雰囲気も味も良かった。
柳蓮二と過ごす時間はあっという間に過ぎていく。そう気が付いたのは、相変わらず定規みたいな背中が離れていくのがなんだか寂しくて、見えなくなるまで見送ったときだった。
そんなある日、柳蓮二はいつもみたいにこれまた洒落た洋食屋に連れて行ってくれた。ひとしきり話して笑って、さて帰るかと席を立った。
トイレから戻ると、柳蓮二が会計を済ませて私が出てくるのを待っていた。いそいそとバッグから財布を取り出す。
「ごめんお待たせ!いくらだっけ?」
「気にするな。このくらい」
「いや気にするよ、学生同士だし。えーっと確か1800円だったよね」
「本当に構わない」
「ダメだよ、そういうのはいつか彼女にでもしなって」
「ならば、恋人になればいい」
「ん?」
「恋人になればいいだろう」
本当に今日はどうしたんだよ、そう茶化そうとしたのに珍しく開眼している目がそれを許さなかった。
「えっと、柳蓮二、あの」
「お前が好きなんだ。初めて見たときからずっと」
「え、え、」
「俺の恋人になってくれないか」
「嘘だ」
「そんなわけあるか」
「だって、そんな」
柳蓮二がそんなこと言うはずがない、だってあんた、いつだったか計算高い女が好きって言ってたじゃん。
最初こそ気持ち悪かったけど、柳蓮二は良い奴だ。頭が良くて話が面白くて優しくてさりげなくて、やることなすこと全部腹立つくらい上手くいってて。顔も今じゃ100点なんてとっくに超えてる。
そんな柳蓮二が、私のことなんて好きなわけない。
「飲みすぎなんじゃない?あ、今日は飲んでなかったっけ…はは、どっちでもいいか」
「…星谷」
「ごめん、今日は帰る」
柳蓮二は追ってこなかった。
2週間経って街中がすっかりジングルベルな雰囲気になった今も、連絡すら来ていない。いままでなら翌日には校門前で待ち構えていただろうあいつの姿はいつになっても現れず、拍子抜けした。なんだよ、あんなにしつこかったわりにはあっさりしてるじゃないですか。
「最近彼氏こなくない?喧嘩?」
「いやだから彼氏じゃないんだってば、ストーカーだって」
「ふーん。そのわりに元気ないね」
「バイトが書き入れ時なんで」
疲れてるんだよ、と机に突っ伏す。今日も明日も、来週のクリスマスイブもシフトが入っている。今年も随分と稼げそうだ。
「ねえこれだよね、あんたの彼氏」
「彼氏じゃないって…ん!?」
スマホ画面に映るのは、ジャージを着てラケットを持ち、ついでにオーラを背負って立つ柳蓮二の姿だった。
見出しにはUー20日本代表、世界屈指のデータテニスプレイヤーの文字。
「あんだーとぅえ、ん?日本代表?は?」
そんなこと一言も言ってなかったじゃないか。
「まさか知らなかったの?」
「知らないよ!テニス別に詳しくないし、あいつ全然自分で言わないし!」
「好きな女に『俺実は日本代表なんだぜ~』って自分でわざわざ言うのカッコ悪くない?」
「それはそうかもしれないけどっ!」
「あ~やっぱ告白されてたんだ」
クソ、はめられた。
「で、逃げたんでしょ」
なんでわかる。
「まあ私も高校からしか知らないけど。柳くん、当時からめっちゃモテてたよ。そんな人がさ、あんたみたいな冗談通じない女からかうためだけに弄んだり告ったりするかね?本当はわかってんじゃないの?」
柳蓮二がそんなことする奴じゃないということくらい本当はわかっている。本気で好いてくれていることくらいわかっている。
そして、私自身が柳蓮二に恋をしていることだってとっくにわかっている。
「…ただ怖いだけだよ」
だってそんな素敵な人が、私と釣り合うわけがない。容姿はおせじにも綺麗とは言えなくて、頭だってせいぜい平均レベルで、スポーツだって芸術だって何一つ才能を持ち合わせていない、卑屈な普通の女子大生。
大体私、柳蓮二のことをほとんど何も知らない。テニスが強いことも、薄々そうだとは思っていたけど、女の子からモテることも。そこそこの時間を共にしていたはずなのに、きっと私が楽しくて話過ぎていたせいだ。それをこうなるまで相手に気づかせないんだから腹が立つ。ああなんかムカついてきたな。
もし恋人になったとしても、劣等感を引きずり続けるだろう。柳蓮二は優しいから、私のその感情が消えるようにきっと力を尽くしてくれる。でも、これは他でもない私の内面の問題だ。
それなら。
私はその夜、柳蓮二に初めて自分から連絡を取った。クリスマスの日にもう一度会ってほしいということを伝えるために。
「わかった。」とだけ返事が来たのを確認して、私はクローゼットの奥からラケットを引っ張り出した。
そして迎えた12月25日。午前11時。
「…星谷、これは」
「来てくれてありがとう。急で申し訳ないんだけど、今から私と戦ってほしくて」
ジャージ姿にラケットバッグを背負って現れた私を前にして、柳蓮二は開眼したまま立ち尽くしていた。
「好きって言ってくれてありがとう。本当はすごく嬉しかった。でも、今のまま付き合っても私ずっと劣等感抱えっぱなしになると思う」
「…」
「だから、私が柳蓮二にテニスで勝ったら付き合ってほしい。一応これでも中高はテニス部だったし、ここ最近練習もしてた」
「星谷、俺は」
「最近知った。日本代表なんでしょ。ほぼ無理なことくらいわかってるよ。でもこうさせてほしい。お願いします」
「お前が、そう言うのなら」
そのまま大学内のコートを借りることになった。部活を休んでいるはずの柳蓮二が現れ、しかもジャージに着替え始めたせいで部員たちはざわついた。しかし、部員でもなんでも無い文字通り部外者の女の私がいたことでタダ事じゃないことは感じとったらしく、ちらちらとこちらを見ながらも練習を再開した。
「蓮二!大切な用事があるから部活は休むと、」
「すまない弦一郎。これがその大切な用事だ」
黒い帽子の男はサッパリ意味が分からないという顔で隣のコートに帰っていく。そりゃそうだろうな。自らこの状況をつくり出した私だって、正直意味が分からない。
意味が分からないけど、こうするしかない。
そして、試合がスタートした。ところが。
「ゲームセット!ウォンバイ柳!ゲームカウント5-0!」
ものの15分もしないうちに2ポイントしか取れないまま終了した。その二点もあまりに無様な私を見るに見かねて柳蓮二がダブルフォルトしたポイントだ。というかサーブはなんとか入ってもまともにラリーが続かなかった。
当然だ。練習期間、5日間。ブランク、2年と半年。現役時代最高戦績、
「高校2年時ダブルスで地区大会3位入賞、だろ」
これくらい知られているのではもう驚かない。
やっぱりダメだった。それなのに、こんなにも清々しい。久々に身体も動かせたし。
なにより、柳蓮二がいればたとえ恋人じゃなくたってなんだって楽しい。それでいいじゃないか。
「ちょっと待て。何勝手に自己完結しようとしているんだ」
「え、なんで。普通に負けたから終わりじゃん。今まで通りってことで」
「それはお前が勝った場合の話だろ。俺が勝った場合どうなるか決めていなかったよな」
「あ」
「全く、つくづく勝手な奴だ。人が勇気を出して告白しても聞く耳は持たないわ、あげくクリスマスデートかと思って部活を休んでまでうきうき行ってみればジャージで来るわ…どれだけ俺を振り回せば気が済むんだ」
子どもみたいに怒る柳蓮二がなんだか新鮮で面白くてニヤニヤしていると、真面目に聞いているのか、と怒られた。
「その節は本当に申し訳ありません…。あっそうだ、昼ご飯奢るよ!この前結局お金返せなかったし!ね、それで許してよ」
「馬鹿野郎、そんなもので償えるとでも思っているのか」
「はい、すみません」
不味いな…今財布にいくら入ってたっけ、万札あったかな、と必死に思い出そうとするが思い出せない。
「では、これから3つ俺の言うことを実行するのでどうだ」
「3つ!?多いな」
「諸々ひっくるめての利子つきだと考えれば妥当だと思うが」
「あーもうわかったよ聞きますよ、何!?」
「すべて簡単なことだ。まず1つ目、このあとすぐ自宅に戻り私服に着替えてこい。」
どうだ簡単だろ、とでも言いたげに腕を組んだ。
いや簡単だけど往復で20分はかかるしこの汗だくの状態から修正するとするなら1回シャワー浴びないといけないし。
「面倒だね…」
「文句を言うな。2つ目、着替えてきたら昼食に付き合え。金は出すな」
なんでそうまでして人に奢られたくないんだろうこの人。気持ちはわからなくもないけど。
「3つ目、」
一瞬何が起きたのかわからなかった。わからんが、柳蓮二が今までで一番距離が近いことだけはわかる。眩暈がした。
「もう一度言うが、俺はお前が好きだから恋人になってほしい」
これ、3つじゃなくて4つじゃない?なにどさくさに紛れて人のファーストキッス普通に奪ってんだ。神聖な場所(であろう)テニスコートで何してくれてんだ。
こういう行動がすべてキマってしまうのも。さっきまでさんざん命令口調だったくせにここ一番で「ほしい」なのも。相手にもならなかったから全貌は見れなかったとはいえフォームがいちいち綺麗だったのも。全部ずるい。
でもまあ私も返事もせずに逃げたりしたし、十分ずるい奴だ。こう考えるとずるい奴同士、案外釣り合っているのかもしれない。
返事の代わりに十数秒前の柳蓮二の真似をしてみた。全く驚かず「計算通りだ」とでも言わんばかりに腰に回される手に腹が立った。抱けない顔だと思ってたのにたったいま抱かれてることに気づいて、また腹が立った。最初から腹立たしい奴だったけど、今日は史上最強に腹が立つ。
でも柳蓮二の手が氷みたいに冷たいことに気づいて、「緊張してるの」と聞いても何も返事が無いことにきゅんとしてしまったから、許してやらんことも無い。
試着室でつい柳蓮二を思い出して衝動的に買ってしまったままクローゼットで眠っているワンピースを思い出す。あれ着て食事に行こう。どんな顔するかな。
試合にボロ負けたはずなのに、どうしようもなく気分が上がった。
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