相異相愛のはてに
ーーーーー……存在価値がないくせに……。
千染の口から不意にもれたその言葉を、芙雪と心ノ羽は聞き逃さなかった。
心ノ羽は目を見開いて千染を見て、芙雪も心ノ羽と同じく目を見開き、かつその瞳に鋭い刃のような色を覗かせた。
「お前……」
芙雪の口から、低い声が出る。
誰もが聞けば震え上がるほど、殺意が滲み出た重々しい声だ。
実際、側にいた心ノ羽がその声を聞いた瞬間、一気に芙雪の方を見てガタガタと震えた。
「今……なんて言った?」
先ほどの言葉が、心ノ羽に対してなのは明白で。
言葉の内容もしっかり聞き取ったが、もし、ここで千染がすぐに謝るようだったら見逃してやるつもりだった。
今すぐ殴りたい気持ちはもちろんあるが、心ノ羽がいる手前、なるべく暴力沙汰・殺生沙汰になることは避けたかった。
少なくとも、現状の芙雪はそう思っていた。
……だが。
「ああ……、すみません。塵虫の媚びる姿が見るに耐えられなくて、つい本音をこぼしてしまいました」
千染は……謝りこそはしたが、全く悪びれる様子もなく半笑いで心ノ羽を貶める言葉を言い放った。
芙雪は……芙雪はもちろんながら、キレた。
静かに、そしてその場に充満するほどの禍々しい殺意を放って、キレた。
目つきからして殺気立っている芙雪を見上げて、心ノ羽は「あわ……あわわわわわ……」と怯えの声をもらして、震える。
芙雪は心ノ羽の頭に置いていた手をゆっくりと上げ、背中にある大太刀の柄を掴む。
「ふ、芙雪さまぁ……!?」
「……心ノ羽、里に帰っていろ。わたしはこの下種に灸を据える」
「え、ぇ、えぇぇえええ!?で、で、でも、でも……!」
芙雪と千染を交互に見て、心ノ羽は激しくうろたえる。
芙雪も千染と同じ上忍。
下忍・中忍を遥かに上回る実力を持った上忍同士が、ぶつかり合うとどうなるか。
恐ろしいことこの上ない光景を想像して、心ノ羽の顔がみるみるうちに青ざめる。
「おやおや、謝ったのに許してくれないんですか?」
うろたえている心ノ羽なんて全く、これっぽっちも気にせず、千染は笑顔で芙雪に会話を持ちかける。
その笑顔は先ほどまでとは違って、どこか楽しげだった。
「謝った?あれのどこが謝罪だ?お前こそ、まともに謝ることが出来ない糞餓鬼じゃないか」
「すみません、って言った時点で少なくとも心ノ羽よりは謝れてるのですけどねぇ」
「もういい。お前と会話するだけ無駄だ。……その無駄に綺麗な顔、斬り刻んで使い物にならなくしてやる」
芙雪の物騒な発言に心ノ羽が声を失っている一方で、千染は顔をうつ向かせ、くくくとおかしそうに喉を鳴らして笑う。
「出来るんですかぁ?あなたが。わたしに顔を斬られたあなたが」
柔らかでありながら挑発的とも言える声色でそう言いながら、千染は腰におさめている小太刀の柄を掴む。 千染も臨戦態勢に入ってしまい、それを見た心ノ羽はより一層困惑して、あわわあわわと意味のない声を上げて何度も二人を交互に見る。
止めないと。
今のこの二人なら殺し合いになりかねない。
どうする。
間に入って、説得するか。
怖いけど、ものすごく怖いけど、でも、ここは本当にどうにかしないと……!
と、息をするのも苦しいくらい緊迫した空気が流れる中、心ノ羽が心ノ羽なりに必死に策を考えている時だった。
「おぉ〜い、千染ぇ〜」
どこからともなく、男の声が聞こえてくる。
突如聞こえたその声に、心ノ羽は「ほぁ!?」と声をあげて反応する。
よく過剰な反応をする少女である。
その一方で、千染と芙雪はその声に眉一つ反応する様子もなく、依然として臨戦態勢に入ったまま互いを見続けていた。
二人の間に、上から一つの影が音もなく下りてくる。
黒の忍装束に黒の長い襟巻き、逆立った短い黒髪と全体的に黒が印象的な男が、二人の前に現れる。
驚いていた心ノ羽だったが、その男が誰なのかわかると一気に安堵の笑みを浮かべ、そして、
「独影さま!」
独影(ひとかげ)……と、その男の名前を呼んだ。
独影と呼ばれた男は、よっこらせと立ち上がると人当たりの良い笑顔を心ノ羽に向ける。
「よ〜、心ノ羽ちゃん。久方ぶり。元気にしてたかぁ?」
「は、はい!病気も怪我もなく、このとおりです!」
「はは、そりゃあよかった。心ノ羽ちゃんの元気な声と笑顔が、みんなの活力の源だからねぇ」
「そ、そんな……む、むしろ元気だけが取り柄なので……」
独影の言葉に、心ノ羽は後ろ頭を掻きながら照れくさそうにえへへと笑う。
そのやり取りを聞いていた千染は、(元気以外何も無いんですけどね……。いやむしろそれすらも鬱陶しいから、ずっと死ぬまで落ち込んでいて欲しいものですけど)と心の内で悪態をつく。
こちらをずっと睨みつけている芙雪から視線を反らさないまま。
心ノ羽と軽く会話をした途中で、独影は「あ、そうそう」と思い出したかのような声をあげて、千染の方に顔を向ける。
「千染ぇ、ちょっと大事な話があるんだ。面を貸しな」
独影の呼び出しを聞いて少しの間を置いた後、千染はようやく芙雪から目を離して独影を見る。
千染と目が合った独影は、ふっとおかしげに笑うと、今度は芙雪の方に顔を向ける。
「そういうわけで芙雪。千染は借りていくぜ。手合わせなら他を当たりな」
「………」
「あ〜、でもせっかく心ノ羽ちゃんがいるわけだし、里に戻って荻爺のとこで一緒に三色団子を食べたらどうだ?みんなの土産に買ってきたんだ」
「三色団子!?」
三色団子と聞いて、誰よりも真っ先に反応したのは心ノ羽だった。
大好物なのか、ちょっと前まで泣いたり怯えたり困惑したりとしていたのに、それが嘘だったかのように目を輝かせ、表情に喜びに満ちる。
なんとも単純な少女だ。
これをちょろいと言わずして何と言うか。
独影はすかさず心ノ羽に笑いかける。
「そうそう、三色団子。心ノ羽ちゃん、大好きだろ?」
「はい!芙雪さま!荻爺さまのところに行きましょう!三色団子が待っております!」
「……」
大太刀の柄を掴んでずっと千染を睨みつけていた芙雪だったが、ぱたぱたと近寄ってきて子犬のようにはしゃぐ心ノ羽の存在を間近で感じ、酷く不満げな顔をしたものの……諦めたように柄から手を離した。
可愛い心ノ羽の楽しみを奪ってまで己の意思を優先するほど、芙雪は冷徹ではなかった。
芙雪の戦意がなくなったのを見た独影は、にっと笑う。
「芙雪もたまには息抜きしないとな」
「………」
「んじゃ、心ノ羽ちゃん。芙雪のことよろしくな〜」
「はい!三色団子ありがとうございます、独影さま!ささ、芙雪さま!行きましょう!」
心ノ羽は芙雪の手を掴むと、早く早くと言わんばかりに引っ張る。
その手を振り払うわけにもいかず、芙雪はされるがままに心ノ羽に連れて行かれる。
独影に恨めしそうな視線を向けながら。
それを物ともせず、独影は芙雪と心ノ羽に向かってひらひらと手を振った。
心ノ羽の嬉しそうな声と共に二人の姿が見えなくなり、独影は振っていた手を下ろす。
そして、にまっとした笑みを浮かべて千染の方を振り向く。
振り向いたが、千染は独影を無視するようにその場を去り出した。
それを気にすることもなく、独影は千染を追いかける。
「……大事な話なんてないでしょう」
独影が隣に来たところで、千染は口を開く。
やや不機嫌そうに。
「あ、やっぱわかってた?」
独影はおどけるように笑う。
「でもよ〜、ああでも言わないと芙雪止まらなかったと思うぜ?」
「別に止めなくてもよかったのですけど」
「いやいや、さすがに上忍二人のどっちかが喧嘩の末に死亡とか笑えねぇから。それにそんなことになったら、居合わせていた心ノ羽ちゃんが死ぬまで気に病むじゃん」
「存分に病めばいいですよ、あんな糞餓鬼。そうなるのでしたら、お前を押しのけてでも芙雪さんと殺し合うべきでしたね」
吐き捨てるようにそう言った千染に、独影はははっと面白そうに笑う。
「本っ当お前、心ノ羽ちゃん大っ嫌いだな〜。里で心ノ羽ちゃんをそこまで嫌ってるのはお前ぐらいだぞ?」
「鼻につくんですよ。あの餓鬼の発言も、挙動も、全部」
「ま〜、確かにあそこまで素直で感情豊かなのは忍として致命的だけど、でもいいじゃん。可愛いんだから」
「フッ……まぁいいですよ。どうでもいい。あれがいない時まであれのことを考えたくないですからね」
独影の能天気な発言を鼻で嘲笑い、千染は木漏れ日が差す林の中を歩いていく。
特に目的もなく。
今すぐ里に帰ったところで、また心ノ羽と芙雪に遭遇して、今度の今度こそ本当に殺し合いになりかねないし。
熱りが冷めるまで、適当なところを散歩していた方がいいだろう。
千染の熱りが冷めるまで。
芙雪はともかくとして、好戦的な千染があそこまでの殺意にあてがわれて、すぐにすぐ冷めるわけないのだから。
現に。
「そういえば、独影」
「ん?」
会話をふっかけたかと思いきや、千染はいつの間にか手に持っていた棒手裏剣を独影の首目がけて突き出す。
だけど、独影は特に変わった様子もなく、素早く取り出した苦無で棒手裏剣を難なく受け止める。
「お前、お土産を買うお金なんてどこにあったんですか?」
「え?あー、実は仕事合間に小遣い稼ぎしてたんだよ」
「ほぉ、小遣い稼ぎ……。もしかして適当な輩を引っ掛けて体でも売ったんです?」
「んなわけねぇよ。お前みたいに美女と見違えるほどの美貌と体格ならともかく、俺みてぇな美形でもねぇ体のごついあからさまな男を抱きてぇやつなんてまずいねぇだろ。小汚い振売に化けて、近くの山でとった新鮮な魚を売っただけさ」
「へぇ……独影に商売人みたいな真似出来たんですね」
「出来るっての。まぁさすがに高値では売れなかったけどな」
方や棒手裏剣で何度も相手を刺そうとし、方やそれを苦無で難なく受け止めていく。
普通に会話を続けながら、二人の手は静かな攻防戦を繰り広げる。
上忍同士らしく、目に止まらぬ速さで。
昔からそうだった。
千染と独影は昔馴染みの間柄で、攻撃的な千染を独影はよく受け止めていた。
物理的に。
それを独影は嫌だとか怖いとか、思ったこともなかった。
昔馴染みとして、千染のそういうところをそれなりに理解しているつもりだった。
……けど。
「千染よぉ」
会話のきりのいいところで、独影は独影の中で言いたいと思っていた本題を持ち出す。
千染の静かな猛攻を受け止めながら。
「お前が誰よりも殺生を好んでいるのはわかっているつもりなんだがよ。いい加減、控えた方がいいんじゃねぇか?」
「ふぅん。それはつまり?」
「余計な恨みを買うことはよせってことだ」
苦無の角度を変えて、独影は棒手裏剣を千染の手から弾き飛ばす。
が、間髪入れずに今度は小太刀が下から上へと独影の体目がけて襲い来る。
それを苦無でなんとか受け流すと、独影も得物の鎖鎌を取り出す。
「必要以上の殺生をすればするほど、復讐される確率が高くなるぜ?」
「誰が来ようと返り討ちにするから問題ありませんよ」
「そりゃお前より強いやつは滅多にいねぇけどよぉ。でももし、お前以上に強いやつが仇討ちに来たらどーすんだよ?」
「その時はその仇討ちというものを受け入れますよ。潔く」
「はぁ……お前は別に死ぬ時は死んでもいいって思ってんだろうけど、俺はやだぜぇ?仕事とは無関係の余計な恨みでお前が死ぬのは」
千染からの風を斬り刻む勢いの連続斬りを、独影は鎌と鎖を上手く使って受け止めていく。
攻撃の全てを見事に捌かれたところで、小太刀と鎖鎌が強くぶつかり、けたたましい金属音と共に二人の間に距離が開く。
「少しは昔馴染みのお願いも聞いてくれよ。なぁ」
静けさが戻ったその場に、独影のため息混じりの声だけが聞こえる。
いくら千染が、熱りが冷めないからって長い付き合いの相手まで軽く殺しにかかってくるような殺人鬼の狂人でも、独影にとっては苦楽を共にした昔馴染みに変わらないのだろう。
そんな独影の気持ちを知ってか知らずか、千染はしばらく真顔で独影を見つめる。
そして、微笑を浮かべると、静かな動きで小太刀を鞘におさめた。
どうやら、気が済んだようだ。
「忍が死を拒むなんて……滑稽ですねぇ」
千染が得物を引っ込めたのを見て、独影も鎖鎌を忍装束内に戻したが、飛んできた彼の言葉に少しげんなりとした表情をする。
わかっていた。
千染が簡単に自分の言葉を受け入れないのはわかっていた、わかりきっていた。
過去にも何度と同じようなことを言ってきたのだから。
言って、その回数だけ突っぱねられてきたのだから。
でも、それでももしかしたら、しつこく言い続ければいつか千染が折れてくれるんじゃないかって思っているのだが……。
今回も折れてくれなかったようだ。
「忍が忍である以上は、いつだろうがどこであろうがどんな理由であろうが……死ぬ時は死ぬんですよ。いつでもどこでも死んで当たり前なんですよ」
「はぁ」
「だからわたしは、その時が来るまで全力で好きなことを楽しみたいんです。手を抜きたくないんです」
「へぇ」
「それに我慢してきた長い生よりも、思いきり楽しんだ短い生の方が生きた甲斐があるというものじゃないですか。独影はどういう考えかわかりませんが、わたしはそういう考えですよ」
「そうかいそうかい」
独自の価値観を語り出した千染には、もう何を言っても無駄なわけで。
独影は耳穴を小指でほじりながら、適当な返事をする。
「へそを曲げましたか?」
「呆れてんだよ」
千染は独影に歩み寄り、独影も千染の元に向かう。
そして、ある程度距離が縮まったところて、また肩を並べて歩き出す。
「まぁそう簡単に死ぬつもりはありませんから、安心してくださいな」
「そうだな。せめて殺される間際になっても全力で抵抗してくれよな」
「はいはい。死にものぐるいで抵抗しますよ。出来そうであれば」
「あー……あ。そういえば、この先実がたくさんなってる木があったんだよ。多分柿だ。せっかくだからとってこうぜ」
「おや、柿ですか。いいですよ。柿は好きです」
嫌いだったら付き合ってくれなかったんだろうか、と思いつつ、独影はその柿がなっているであろう木のところに向かいながら、千染と何気ない会話をする。
千染とこうやって、のんびり歩きながら会話するのもあと何回になるのか。
出来れば、もう天が決めてるであろう回数をなるべく減らしたくないから、余計な恨みを買うようになる無駄な殺生はやめて欲しいのに。
本当、なんだかなぁ。
千染とこういうやり取りをする度に、自分だけがそう思ってんだろうなぁと思い知らされてしまう。
忍として間違ったことは言ってないし、むしろそういった生に執着しない姿勢が正しいんだろうけど、なんだかなぁって思ってしまう。
忍として生まれたから、仕方ないんだろうけど。
……いや、忍だから。
忍だからこそ、こうやって二人っきりの時だけでも、忍という柵から開放されて何者でもない個の人間として、接したいというのに。
だから本音を言っているというのに。
(……まぁ、千染から見たら俺もただ付き合いが長いだけの“忍”なんだろうな。……もういいけど)
独影はもう半ば諦めの気持ちが入っていた。
千染が、独影の思うような個の人間として接してくれる日は、きっとないだろう。
それほどに、千染は“忍”だ。
殺人鬼ではあるが、根っからの“忍”だ。
“忍”として、完成している。
もはや、“忍”であることが、彼の“個”なのかもしれない。
そう考えると、もう諦める方に傾くしかなかった。
……それでも一応、僅かな望みにかけて、これからもこういったやり取りをするだろうが。
「あ、心ノ羽ちゃんは柿食べるかなー?こっそりあげたいんだけど」
「不愉快な餓鬼の話やめてくれません?」
「あぁ〜ごめん」
そう、だから、何と言うか。
変な話だが、千染からこうやって人らしい感情をはっきり向けられている心ノ羽が、独影はちょっと羨ましかったりした。
辛辣過ぎる接し方されてるのは確かに可哀想なんだが、千染が混じり気のない素の感情を向けているような感じがして。
こんなこと、千染の前で言ったら本気で血祭りにあげられそうだから言わないけど。
とりあえず。
とりあえずだ。
今、この時は、お互いが確かに生きていて、存在している。
いい加減、小難しいことを考えるのはやめて、昔ながらの二人の時間を堪能しよう。
そうしてようやく思考を止めた独影は、千染の話に耳を傾ける。
この前囚えた忍者にした拷問の話だ。
楽しそうに話している。
あまりの凄惨な内容にやや引きつつも、(あ〜そうなったら、俺でもそれくらいするかもなぁ)と一部は共感する。
この先、どちらかが死ぬまで、こんな感じなんだろうな……と。
独影は少し笑いながらなんとなく思った。
……千染も、そう思っていたのかもしれない。
独影と同じことを思っていたのかもしれない。
いつか呆気なく死ぬ時が来るまで、何も変わらないと、思っていたのかもしれない。
だけど、明日心ノ羽と向かう任務で、彼は出会う。
大きな変化のきっかけとなる人物に。
そのことを、彼はまだ知らない。
そして、“彼”も。
“彼”も、また。
千染に会うことを、
“再び”会えることを、
まだ知らない。