相異相愛のはてに
「どうして素直に死んでくれなかったのだろう」
「どうして里なんて作ったのだろう」
「どうせ爪弾きにされるのに……忍なんて他にいくらでもいるのに……」
「死んでくれていたら……こんな異形で生まれることなかったのに……」
「人間として生まれれたのに……」
「人間じゃなくても……、正しい姿の……真っ当な生き物に生まれることが……出来たのに……」
「死ねばよかったのに……死ねば……」
「……雹我」
「雹我の苦しさは雹我にしかわからない……。だから……わたしの言うことなんて全て薄っぺらくて……気休めにすらならないだろう」
「……それでも」
「雹我の先祖が生きることを選んでくれたから、里を作ってくれたから、わたしと姉は逃げることが出来た。安心して住める場所をすぐに見つけれた。こうして……雹我と出会えた」
「お前と出会えたことを……わたしは嬉しく思うぞ」
「だから、ありがとうな」
「生まれて、生きて、わたしと出会ってくれて」
***
青い空。
そして緑鮮やかな山々と遠くに見える村や城下町。
広い世界の一部がよく見える崖の上で、雹我は胡座をかいて紐で束ねられた紙に何かを書いていた。
木で作られた蓋付きの小さな器。
その中にある墨に筆先を浸して、顔を上げ、景色を見ては紙を見てを繰り返し、紙に筆を走らせる。
さらさらと、滑らかに。
だが、途中で筆の動きがぴたりと止まった。
爽やかな風が吹き、雹我の長い白髮を揺らす。
少しの時間を置いた後、雹我はゆっくりと顔を上げる。
そして、
「千染か……」
すぐ様空気に溶け込んでしまいそうな静かで、小さな声。
それでも確かに聞き取ったその声に、後ろから雹我に歩み寄っていた千染は足を止めた。
こちらを見ずとも誰なのかわかる辺り、さすが普段から視覚以外の感覚で過ごしているだけあるといえばいいのか。
「見てのとおり、今これを外しておる。某の視界に入らない方がよいぞ」
「……言われなくてもわかっています」
雹我の忠告ともいえる発言に、千染は淡とした口調で応える。
雹我の忍法は彼の瞳に在る。
それは視界に入る全ての生き物を支配する忍法。
彼が何気なく思ったことでも、その瞳に映った者は“そのとおり”にする。
一人の“個”ではなく彼の“傀儡”と化する。
それが雹我の忍法だ。
故に、忍頭である櫻世を除いた上忍と里の若い衆は雹我の目を見たことないのだ。
「して、何用だ?」
「……」
止まっていた筆が再び動き出す。
雹我が何をしているのか、千染からはよく見えない。
かといって、気になるわけでもないので千染は雹我の背中から目を離してその向こうの景色を見た。
「雹我さんと……少し、お話がしたくて」
「ほぉ……某と話か」
珍しいな、と言いかけたが寸前で呑み込む。
余計なことを言って、千染が拗ねて帰ってしまうことになったらいけないから。
雹我はそれ以上何も言わずに千染の言葉を待つ。
程なくして。
「雹我さんは……世が泰平を迎えましたらどうされますか?」
筆が、また止まる。
「戦のない……忍が必要ない世で……どう生きようと思いますか?」
閉ざされていた雹我の口がほんの少し開く。
千染の質問が至極意外だったのだろう。
あのどこまでも“忍”だった子が、殺人鬼とまで呼ばれるほどに自分をも殺していた千染が。
これからのことを、未来のことを聞いてくるとは。
紙に押しつけたままの筆の下で墨がじわりと広がる。
何の理由があって、そのようなことを聞いてきたのか。
どういう心境の変化があったのか。
疑問に思うことはあれど、雹我は一旦それを頭の隅に置いておくことにする。
そして、千染に聞かれたことを考える。
世が平和になったらどうするか。
忍が不要になった世でどう生きるか。
「……そうだな」
紙から筆を離す。
「忍が要らなくなるほどに世が平穏になったら……やりたいことをやろうと思っておる」
そう言って雹我は顔を上げて、どこまでも広がる景色を見つめる。
「……やりたいこと」
復唱するように、千染が呟く。
「ああ。今まで出来なかったことをな」
「それは……何なのですか?」
「……」
千染の問いにすぐ答えず、雹我はゆっくりと顔を下げていく。
紙に書かれているもの……否。
描かれているものを、見つめる。
そして、少し迷うかのように無言を続けたい後、小さく息を吸い込んだ。
「日本のありとあらゆるところに行き、この目で見た景色を……紙に描きたい」
静かで……だけど、しっかりとした声で雹我は言う。
「どこまでも穏やかで、ただただ美しい……その一言だけが浮かぶ景色を見て、頭の中だけでなく手元に残していきたい。だから……」
筆を下げ、手にある紙を崖下に広がる景色と重ね合わせるように少しだけ上げる。
そして、
「泰平の世になったら……絵を描く旅に出るつもりだ」
そう言った雹我の視界には、崖下の景色と大差ないほど墨で精密に描かれたその景色の絵があった。
それが風景画と呼ばれるのはもう少し先の話。
まだ七割くらい途中の絵で、一部墨が滲んでいるが、それでも誰もが見たら圧巻されるといえるくらい見事なものだった。
千染は少しだけ目を大きくする。
少し見えた雹我の絵もだが、何よりも彼の発言が意外過ぎるものだったから。
やりたいことが明確にあるのも、絵を描くことも。
下手すれば里の誰も知らないのではなかろうか。
……唯一、櫻世は知っているかもしれないが。
「絵……描くの好きだったのですか?」
千染は問う。
とりあえず思ったことを。
「……こうして紙に描いている時は、不思議と負の感情が訪れることなく、胸の中が澄みきっているような感覚がするから……好きなのであろうな」
“好き”という感情の具体的な感覚がわからないのか、雹我は半ば他人事のように答える。
意外な気持ちでいっぱいだった千染だが、だんだんと表情が何とも言えないものになっていく。
その気配を感じ取ってか、雹我は紙を下げると再び口を開いた。
「己の未来を憂いておるのか?」
千染は何も言わない。
表情も変わることなく、地面に広がる草を見つめる。
「幾多とヒトを殺してきた忍が、平穏に身を委ねて生きるなんておこがましいと思っておるのか?」
答えないというより答えられないといったように、千染は無言を続ける。
答えたら、雹我ごと否定することになりかねないから。
「……千染よ」
千染の心境を汲み取るかのように。
「ヒトを殺めていようがいまいが……生きる者は生き、死ぬ者は死ぬ」
雹我が言い出す。
重みのある、静かで低い声で。
「善人が早くに死ぬこともあれば、悪人が長く生きることもある。それが世の仕組みだ」
風で木々の揺れる音と共に、雹我の言葉が千染の耳に入り込んでくる。
「故に、お前の手がいくら汚れていようと裁かれることなく生き続ける可能性は必ずしもあるということだ。……否、むしろ」
雹我の口が一旦止まる。
そして、
「生きることが“罰”……ということもあるのかもしれないな」
空を悠々と飛んでいる鳶が鳴く。
いやに澄んだ空気が千染の肌を撫でる。
「……それでも」
真っ白な前髪の奥にある双眼でどこまでも広がる緑豊かな景色を見つめながら、雹我は呟くように言い出す。
「たった一人でも……お前の“生”を望み、お前と共に在ることを望み、お前の未来を案じ、幸せを願っているのであれば……応じてやってもよいのではないか?」
その一人が誰を示しているのか。
雹我は敢えて言わない。
そして、千染も言及しない。
「泰平の世でやりたいことが浮かばなければ、その一人に己が生を委ねるのもまた一つ生き方だと思うが」
今、千染の頭の中に在るのは誰なのか。
「まぁ……最終的に決めるのはお前だ。某の言ったことは幾多とある道の一つと思ってくれればよい」
自身が思い浮かべている人物と、果たして一致しているのか。
それを雹我が知る由もない。
また、沈黙。
けど、そう時が経つこともなく、今度は千染が口を開いた。
「そうですね……」
呟きとも囁きともいえる小さな声で、千染は返事をする。
強めの風が吹き、千染の艷やかな赤髪が靡く。
「わたしは……」
千染の視線が横に逸れていく。
何か考えるように、或いは雹我の背中を視界から消すように。
今の彼の頭に巡っているのは何なのか。
千染の表情に深い陰りが落ちていく。
鳶の鳴き声が聞こえる。
景色を眺めていた雹我は静かに視線を落とし、手にある紙を……自身が描いた風景の絵を見る。
どれほどの時間が経ったのかわからない。
案外、短かったかもしれない。
とにかく。
「やはり……戦のない世で生きている自分が、想像出来ません」
千染は喉の奥から押し出したような声で吐き出した。
否定的な言葉を。
それに対して雹我は何も言わない。
反応らしい反応すら見せない。
「雹我さん……」
ただただ黙って、千染の声に耳を傾ける。
「わたしは……もしかしたらうんざりしているのかもしれません。……この世界に。」
彼の言葉を。
心の片鱗を。
「戦があれば正気を失え、平和になったら正気になれ」
千染がどんな表情をして語っているのか。
「そんな都合の良い、勝手極まりないことを押しつけてくるこの世に……嫌気がさしてるのかもしれません」
雹我からは見えない。
「今更……正気になんて……」
それでも声色から微かに感じる。
「戻れるわけないのに」
千染の感情が。
彼の吐いたため息が、風に乗って消える。
雹我は依然として黙ったままだ。
肯定も、否定もしない。
極めて落ち着いてる表情からは彼の心情は一切伝わってこない。
……程なくして、千染が鼻で小さく笑った。
「忍が正気の有無を口にするなんておかしいですよね」
嘲笑混じりに千染は言う。
雹我……というより自分に向けて言っているようだ。
「そもそも正気というものがあったのかも疑問だというのに……」
そう呟いて、千染はふと口を止める。
不意に脳裏を過ったのは、夜雲の言葉。
いつしか彼が自分に向けて言い放った言葉。
ーーーーきみは……きみが思っている以上にまともだよ。
ーーーーまともな人間だよ。
声色だけでなく姿までもが鮮明に浮かぶ。
単調だけど嘘の気配を全く感じさせない声。
自分を、自分だけを映している藤色の瞳。
千染の胸の中がざわりと騒ぐ。
妙な忙しなさが心臓から至る臓器にかけて広がるような感覚に襲われる。
それが喉元までせり上がってきたところで、千染は口を引き締め抑え込む。
夜雲が、自分を好きだと口にする彼が、どういう人物なのか。
自分にとって何なのか。
千染の中で、その答えはもう決まっていた。
だから、これ以上の思考は不要だ。
千染の肩の力が静かに抜け、視線を前に戻していく。
そして、
「すみません……、余計なことを言いまして……」
いつもの冷めた表情に戻り、いつもの淡々とした声で、千染は雹我に謝った。
雹我は手元の紙から目を離して顔を上げる。
「けど……雹我さんがわたしと同じような気持ちでよかったです。あなたが未来を前向きに見据えているのなら……きっと他にも同じような心持ちの者もいることでしょう」
そう言いながら千染は踵を返す。
千染の動きを感じ取った雹我は、一瞬振り向きかけるが寸前で止める。
今の自分の視界に千染を入れたらどうなるか。
それを見越して振り向くのをやめる。
「巣隠れの未来は……案外暗くないのかもしれませんね」
淡とした声。
だけど、どことなくうっすらと安堵の色が紛れ込んでいるような、そんな声にも聞こえる。
口を閉ざした千染は足を踏み出す。
一歩、また一歩と、音もなく。
……だが、その途中で。
「櫻世は」
耳に飛び込んできた名前に、千染は反応する。
静かに立ち止まる。
「お前が……どんな道を歩もうと、お前を受け入れ、寄り添おうとするだろう……」
吹いてきた風に、雹我の白髪と千染の赤髪が靡く。
「もしかしたら……お前が心の根底で求めているものを……、見つけ出し……導いてくれるかもしれぬ……」
千染の口は一直線に閉ざされたまま。
「それでも……だめなのか?」
赤い瞳は前を見つめる。
鬱蒼とした日の光の当たらない薄暗い山の中を……見据える。
「……言葉は他者と心を通わせるのに必要なものだ」
静かに諭す雹我の頭に、ある光景が浮かぶ。
過去の記憶。
やわらかな光に満ちた記憶。
木の枝で地面に絵を描いている若かりし頃の自分と、その向かい側でしゃがみ込んで朗らかな声で喋っている若かりし頃の櫻世。
「言葉あってこそ……生じるものがある」
雹我にとって、今でも鮮明に覚えている大切な記憶。
今の自分がいる大きな理由。
櫻世がいなければ、今頃自分はどうなっていたのか。
……少なくとも今こうやって、絵を描いていることは絶対になかっただろう。
「言葉を通して心をさらけ出すのは、至極簡単なようで至極難しいのは……わかる。……だが、櫻世なら」
「でも」
千染の声が雹我の声を遮る。
いつになく感情が滲み出た強めの口調。
それに反応してか、雹我の頭に浮かんでいた光景が霞がかったように消えてしまう。
「……御頭には……いるじゃないですか」
そして、今度は絞り出すような声で。
「一番……何よりも誰よりも、大事に思っている存在が……いるじゃないですか」
千染は言う。
心の一部を……さらけ出す。
拳を強く握りしめて。
耳に入ったその言葉と千染から感じる気配の重みに、雹我は驚いたかのように黙り込んでしまう。
木々がざわめく。
千染は微かな震えを帯びた口で息を吸い、大きなため息のように吐き出す。
握っていた拳がゆっくりと開いていく。
そして、それ以上何も言うことなく再び歩き出し……光が遮られてる薄暗い山の中へと消えていった。
空から鳶の鳴き声がまた聞こえる。
千染が去り、一人となったその場で、雹我は前を見続ける。
日の光で照らされている景色を……見つめる。
(……)
千染の口から出た言葉が、彼から感じた感情の気配が、あまりにも予想外だったのか。
雹我は彼が去ったとわかっても、しばらくは絵描きを再開することが出来なかった。
(………)
先ほどの言葉を櫻世が聞いていたら。
先ほどの千染を櫻世が見ていたら。
彼は……どんな反応をしていただろうか。
……。
…………。
……予想したところで、結局はただの蛇足にしかなり得ないだろう。
千染はここで言ったことを櫻世には言わない。
絶対に。
そして、自分が櫻世にもらすことはないと信じて、ほんの少しさらけ出したのだろう。
心からの言葉を。
そう察した雹我は、薄く開いていた口をゆっくりと閉ざす。
そして、手元にある自分が描いた絵をまた見つめる。
(………)
本音をこぼすとすれば。
千染の気持ちはわからなくもない。
彼の一番になりたい。
若い頃、ほんの一時だけ……そう思っていたことがあった。
……けど、そんなの、そんな気持ちは抱くことさえおこがましいと思うようになった。
櫻世は光だ。
忍でありながら、影を照らしている。
忍の中でも殊更異形で異質な自分達を、日の下でも生きられるように導いてくれる。
彼は特別だ。
彼の一番は彼が決めて然るべきことだ。
自分達に許されてるのは、その事実を受け入れることのみ。
……だから。
(某は……櫻世がいるだけで……櫻世が生きているだけで……十分だ)
それ以上は何も求めない。
そう思う雹我の頭に、屈託なく笑う若かりし頃の櫻世と優しく笑う今の櫻世の姿が思い浮かぶ。
やわらかな風に吹かれ、雹我の口元がほんの少し緩む。
だけど、すぐに切り換えるように千染のことを考えてか、きゅっと一直線に引き締まる。
千染の未来は千染のものだ。
歩む道も、末路も、それを選ぶのは、権利があるのは……千染自身だ。
そうとはわかっていても、割り切っていても、きっと……迎える末路によっては櫻世は悔やみ、悲しむだろう。
それは姪御である心ノ羽も同じ。
そして……独影も。
殺人鬼と呼ばれ、そう呼ばれるに相応しい業を重ね、多くから恐れられているお前でも……死ねば悲しむ者はいる。
そう言えば、よかったのだろうか。
(……余計なことか)
雹我は考えるのをやめる。
今、考えたところで答えを出せる本人はいないのだから。
それに……生きていれば、千染も前向きになれる何かに出会すかもしれない。
明日でも、明後日でも。
いつしか、自分のように。
そうなることを願いながら、雹我はゆっくりと顔を上げる。
そして、絵を完成させるべく、乾いた筆先を器にたまっている墨に浸した。
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