相異相愛のはてに
「独影」
「お前は……」
「お前は忍に向いておらん」
「お前は忍にしては血が通い過ぎておる」
「忍というものは、もっと冷たい……死人と変わらんものじゃ」
「或いはどこまでも異物であるか……」
「お前は……生まれる場所を間違えたのかもなぁ」
「まぁ直に……忍がいらぬ時代がくる」
「図太くて能天気なお前にぴったりな時代がくる」
「それまで」
「精々足掻いて生き延びろ」
***
爽やかな風が吹き、木々がざわめく。
暖かな木漏れ日が差す林の中……木の根元で寝そべっていた独影は、ゆっくりと目を開いた。
昔から変わらない見慣れた光景が、独影の黒い瞳に映る。
空を覆う葉の群衆。
その隙間から差し込んでくる陽の光が心地よい。
独影は軽くあくびをして、起き上がる。
そして、先ほど見た夢を思い出す。
(……久しぶりに見たな……、師匠の夢……)
大きな熊の背に跨り気難しい表情をしている老人の姿が、独影の頭に浮かぶ。
その老人の名は忌示丸(きじまる)。
独影に忍法を伝授した上忍だ。
巣隠れの忍ではあるが、人嫌いなため里から外れた山奥にある小屋で暮らしていた。
同じ里の忍でも忌示丸とまともに関わったのは先代の忍頭と櫻世、櫻世の姉、上忍の荻盧(おぎの)、そして弟子の独影くらいで……あとは誰一人忌示丸と関わろうとしなかった。
それくらい、忌示丸は可愛げの欠片もない頑固爺だった。
口を開けば文句と否定ばかり。
しまいには手を上げることもしばしば。
関係を築くどころか、会話すら成り立たない。
だけど、独影はそんな師が不思議と嫌いではなかった。
正確には嫌いになれなかったと言えばいいのか。
とにもかくにも、憎まれ口を叩きながらもほぼつきっきりで忍法を継がせてくれた師が決して嫌いではなかった。
(………)
その師も、今はいない。
どこにもいない。
忍法を完全に得て、数日ほどして相方の熊と一緒に去っていった。
師匠はもう帰ってこない。
二度と会うことはない。
そう察しながらも、独影は去っていく師の背中を黙って見送った。
去り際に師が自分に残した言葉は、相変わらず否定的で嫌み混じりのものだった。
自身の忍法を自分の代で終わらすはずだったのに、色々あって継がせる羽目になってしまったのだから、師の不満を考えると当然といえば当然の反応だろう。
……それでも、生き延びろと言ってくれたのは素直に嬉しかった。
真意はどうであれ、生きてほしいと思ってくれたのかなと都合のいいように受け取ることにした。
だから独影はこれからも生きるのだ。
どうしようもない、逃れようのない死に直面しない限り。
足掻いて、藻掻いて、生き延びるつもりだ。
一人にでも己の“生”を望まれたのなら。
……だから、千染もそうならないだろうかと、彼に彼の生を望むような言葉をかけ続けてきたのだが。
独影は小さなため息をつく。
(まぁ……結果的にいい感じの子に目をつけられてよかったけどな。若医者くんの感覚は正直理解し難いけど、千染のこと本気で好きなようだし)
あとはもう時間の問題だな。
千染は「生きてきた世界が違う」と否定的なことを言っていたが、拒絶はしていなかった。
つまりは夜雲と一緒にい続けること自体は嫌ではないということ。
となれば……夜雲が前見た時と変わらぬ調子で押していけば、少しずつでも絆されていくのではないか……と。
独影はなんとなく思った。
「は〜、あとは戦がとっとと終わってくれたらなぁ〜」
組んだ両手を空高く突き上げながら、独影はあくび混じりに言う。
そして、力を抜くように息を吐いて、伸ばした両手を下げると
「なー?心ノ羽ちゃん」
この場にいないはずの人物の名を口にした。
少しの間が空く。
どこかの木にへばりついていた虫が飛び立ったところで、独影の背にある木の裏からひょっこりと小さな影が出てくる。
長い黒髪を後ろに一つ束ね、まだ幼さの残る顔立ちをした少女。
そして忍頭・櫻世の姪。
心ノ羽だ。
「き、気づいておられていたのですか……?」
木越しに独影を覗くように見ながら、心ノ羽は動揺を隠しきれない表情と声で問う。
それに対して独影は、いつものにこやか笑顔で心ノ羽の方を向くと
「まぁな。なんなら心ノ羽ちゃんが来たから起きたようなもんだし」
と、気さくな声で言った。
独影のその発言に、心ノ羽は小さな衝撃を受ける。
つまり、独影は寝ていたにも関わらず自分の気配に気づいていたということ。
自分なんて寝ていたら誰かが近くを通りかかっても……いや、それどころか櫻世や芙雪達が揺さぶっても起きないこともあるくらいなのに……。
これが上忍というものなのか、と心ノ羽は上忍のすごさを改めて思い知らされる。
逆に寝ていてもすぐわかるくらい心ノ羽が気配をむき出しにしていたとも言えるが……。
「どうしたぁ?悩み事か〜?」
そう言って独影は隣の地面をぽんぽんと叩く。
それを見た心ノ羽は木の裏から出て、独影の隣にちょこんと座る。
一連の流れから違和感もぎこちなさも全くない辺り、よくあるやり取りなのだろう。
「あのぉ、独影さま……」
「うん」
「……」
「……」
「………」
「………」
「……あの……」
「うん」
いつになく口ごもっている様子の心ノ羽を急かすことなく、独影は平然と彼女の言葉を待つ。
一方で、独影の様子を窺うように見たり、悩ましげに目を逸らしたりする心ノ羽。
明らかに挙動不審だ。
そんな心ノ羽の様子を見ても気にすることなく待ち続ける独影。
小鳥の囀りが聞こえるのどかな時間だけが流れていく。
「……独影さまって……どんなこと言われたら怒りますか?」
しばらくして恐る恐るとそう言ってきた心ノ羽に、独影はきょとんとする。
そして、んーと声を漏らしながら宙を仰いで考えた。
「どんなことを言われたら怒る……なぁ。罵倒は一通り言われてきたけど特に……、脅しもまぁそんなに……」
今まで師や千染、芙雪、その他敵の忍等に言われてきた嫌みや罵り、嘲りの言葉を思い浮かべながら独影は呟く。
「で、では!これだけは言われたくないって言葉はございますか!?」
「言われたくない言葉ぁ?、………」
やけに自分の怒りどころを聞いてくる心ノ羽に、独影は何かぴんときたような顔をする。
そして、横目で心ノ羽を見ると
「心ノ羽ちゃん……。もしかして俺が怒りそうだと思っていることを聞こうとしてる?」
ぎくり。
その擬音が聞こえてしまいそうなくらい表情からしてあからさまな反応をしてきた心ノ羽に、独影はやはりと言わんばかりに目を細めた。
「何かと思えばそんなことかぁ。安心しろって。心ノ羽ちゃんが何言ってきても怒ることはぜってぇねぇから」
いつもの軽い雰囲気を醸し出して、独影は心ノ羽が話しやすくなるような空気を作る。
だが、それでも心ノ羽は言うことに躊躇いを感じているのか、抱えた膝に顔を埋める。
「だからなんですよ〜。優しくて気さくな独影さまをもし怒らせてしまったらと考えると……ゔーっ!もう大好きなお団子食べれなくなります!数年寝込みます!」
「そんなに?」
「千染さまでしたら何言っても怒るのでまぁいっかってなれるのですが……」
「………」
もしここに千染がいて、今の発言を聞いたら拳か蹴りを三発ほど入れていただろう。
というより今まで散々千染からいびられ同然にきつく当たられてきてるのに、さらりとそんな発言が出来る心ノ羽の精神力に、独影は感心せざるを得なかった。
「まぁとにかくぜってぇ怒らねぇから、いつもみたいに気楽に言いなって」
へらへらと笑って手をひらひらと動かし、緩さ全開に発言を促す独影。
そんな独影を見ても悩ましげにしていた心ノ羽だったが、これ以上独影に気を遣わせてはいけないと思い、意を決する。
そして、一旦立ち上がって独影の方を向き、正座をして彼を見据えると
「独影さま」
「うん」
「どうか!わたしを独影さまの弟子にしてください!!」
真剣そのものの張りがある声で心ノ羽はそう言うと、ものすごい勢いで平伏した。
小鳥の囀りがどこからともなく聞こえる。
あまりにも予想外過ぎる発言だったのか、独影は目を大きくしたまま無言で心ノ羽を見続ける。
長いようで短い沈黙が流れる。
地面に額を擦りつけて平伏していた心ノ羽だったが、程なくして小刻みに震え出す。
そして、
「やーっぱり怒ったじゃないてすかぁあああっ!!どうぞどうぞ!好きなだけ罵倒するなり殴るなりしてください!!」
「へ!?いや、怒ってねぇよ……!?」
空気を切る勢いで頭を上げるなり、泣いて怒って詰め寄ってきた心ノ羽に、独影は戸惑いながら仰け反った。
「ちょっと驚いたんだ。まさか心ノ羽ちゃんが弟子入りをお願いしてくるなんて……、しかも俺の」
櫻世さまにはそのことを話しているのか。
芙雪は知っているのか。
と、独影の頭の中で色んな考えが巡る。
その一方で、独影が怒っていないとわかった心ノ羽は安堵したように座り込んだが、すぐに沈んだ表情をする。
「やっぱり……差し出がましいですよね……。忍としての基礎どころか、ろくに刃を振るえないわたしが独影さまの弟子なんて……」
「ん〜……いや、まぁ……」
「け、けど!もっと頑張りますので!なんとか中忍まで上り詰めますので!ですからどうか独影さまの弟子に……!!」
「ちょ……、ちょっとちょっと待って心ノ羽ちゃん。一旦落ち着いて……」
再び鼻息荒くして詰め寄ってきた心ノ羽の肩を軽く押し返しながら、独影は心ノ羽に冷静になるよう声かけをした。
少しのやり取りをした後、ある程度頭が冷えた心ノ羽は静かに座り込む。
「えぇと、まず聞きたいのは……心ノ羽ちゃんが俺の弟子になりたがってることを櫻世さまは知ってるのか?」
「いえ」
「つまり心ノ羽ちゃんの独断と」
「はい」
「芙雪は知ってんの?」
「いえ、知りません。口外したのは独影さまのみです」
「はぁ〜、なるほど……」
独影は目を伏せ、頭を人差し指で軽く叩きながら考える。
どこか悩ましげにしている様子の独影を見て、心ノ羽の表情がだんだんと申し訳なさそうなものになっていく。
「……やっぱり、迷惑ですよね」
沈んだ声で、心ノ羽は言い出す。
それに反応して独影は伏せていた目を上げる。
視界に入ったのは、顔をうつ向かせて暗い表情をしている心ノ羽。
いつもの晴れ模様な彼女が、今日は珍しく曇り……いや下手すれば雨模様だ。
いつもと違う心ノ羽を独影はじっと見つめる。
観察するように、考えるように。
そして、
「俺は構わないよ」
独影の言葉に、心ノ羽は目を大きくして顔を上げた。
「ただ、いくつか聞きたいことがあるんだ。その上で結果的にどうするか心ノ羽ちゃんが決めてほしい」
頬杖をつき、仕草はいつもの緩い感じと変わらないが、声色からはいつになく真剣さを感じる。
そんな独影を前にして、心ノ羽は気を引きしめた。
「まずは雹我さん以外の上忍の弟子になるのが何を意味してるのか、わかってるかな?」
「は……はいっ。その方の忍法を受け継ぐことになるんですよね」
「うん。わかってるならよし。んじゃあ、なんで俺を選んだのかな?」
「……」
「千染と冬風さんは選ぶ以前として、還手ちゃんはまともに取り合ってくれなさそうだから選ばないのはんかる。芙雪も話は聞いてくれるだろうけど、芙雪の忍法は習得するには命懸けになるし選ぶには勇気いるだろうし何よりも芙雪自身が了承しないと思う。心ノ羽ちゃんを大事に思ってるからね」
「……」
「となれば、選択肢は二つ残るわけだ。春風くんか、俺か」
「……」
「春風くんはまぁ……初めは驚くだろうけど、なんだかんだ了承してくれると思うよ?なんなら春風くんの方が年近いし、俺より気兼ねなくお願いしやすいんじゃないかな?」
「………」
悩ましげな表情をしてずっと黙り続ける心ノ羽。
返すに相応しい言葉を考えているのだろう。
だが。
「……忍法?」
「!」
心ノ羽が相応しい言葉を見出すよりも早く、独影が核心を突いてきた。
心ノ羽は目を見開き、独影を見る。
あまりにも忍らしかぬ素直な反応を見せた心ノ羽に、独影はつい笑ってしまった。
「はははっ、心ノ羽ちゃんって口を割らす必要がないくらいわかりやすいなぁ」
そう言って面白そうに笑う独影を呆然と見ていた心ノ羽だが、だんだんと複雑そうな表情になって視線を落とす。
「は〜、なるほどなぁ。忍法で選んだわけだ。確かに俺の忍法は便利だからな〜」
「……いえ」
「?」
心ノ羽は迷っているかのような素振りをした後、腹をくくったかのような目つきになる。
そして、視線を上げて独影を真っ直ぐ見据えると
「独影さまの忍法を選ばせていただいたのは、便利だからではありません」
「?、つまり?」
「唯一!夢がある忍法だからです!!」
心ノ羽の大声と共に、近くの木にとまっていた小鳥がばささと羽ばたいていった。
まさかのまさか過ぎる発言。
予想にもしていなかった言葉に、独影はぽかんとする。
そして、思う。
夢がある忍法、とは一体……。
「だって……だって動物さんと意思疎通が出来る忍法なんて素敵じゃないですか!」
独影が浮かべた疑問に応じるように、心ノ羽は喋り出す。
「可愛いうさぎさんや猫さんや犬さん、カッコいい烏さんや熊さんとかとお話出来るんですよ!?仲良しになれるんですよ!?お友達になれるんですよ!?とっっっても夢のようなことだと思うんです!」
やけくそ気味な様子で。
「ですから!その夢のような忍法を受け継がせてもらえるなら頑張れると!刃を振るって誰かを傷つけるのはすっごく、すっっっごく苦手ですけどそういった目標があれば、今よりもっと頑張れると!!そう見越して独影さまに弟子入りを申し出た次第です!!!!」
心ノ羽は思っていること全てを吐き出した。
その場が静かになる。
心ノ羽の小さな息切れだけが聞こえる。
独影は未だ呆然としたまま、心ノ羽を見続ける。
何も言ってこない独影を前に、呼吸が落ち着いた心ノ羽は悟ったように目を閉じる。
そして、静かに腰を上げると
「さぁどうぞ!浅はかで馬鹿な女だと踏むなり蹴るなりしてください!!」
「え……?いや……」
潔く仰向けになって自分をいたぶるよう声を張り上げた。
「独影さまが汗を流し血を流し苦汁をすすり続けて得た忍法を夢がある忍法だなんて!とんだ侮辱ですよね!!しかも他の方々の忍法を夢がなくて向上心をそそらせない忍法って言ってるも同然ですし!!」
「心ノ羽ちゃん……」
「皆様の崇高な忍法を夢があるとかないとかふざけた価値観で図って!!万死に値しますよね!死……は怖いですすみません!手首切るので許してください!!」
「ちょいちょいちょい!気を急き過ぎだって……!!」
大層喚いているかと思いきや起き上がるなり懐から取り出した苦無で手首を切ろうとしている心ノ羽を見て、さすがの独影も少し慌てた様子で止めた。
「やっぱり怒ってますよね?怒ってますよねぇえ?うえぇぇ……」
独影に苦無を取り上げられた心ノ羽は手を地面につき、めそめそと泣きながら項垂れる。
心ノ羽が念入りに自分の怒りどころを聞いてきた理由がわかった独影は、少し戸惑いながらもなるほどなと納得する。
確かに心ノ羽の言っていることは、浅はかで、忍法というものを軽く見ているようにも聞こえる。
これを他の上忍が聞いたら、どう思うのか。
千染は言わずもがなとして、還手は多少なりとも不快に思うだろうし、春風は不快まではいかなくとも困惑はするだろう。
冬風はどう思うかはわからないが、表向きやんわり棘ある言葉を吐きつつ受け流しそうだ。
芙雪は心ノ羽一番な女なので全く気にしないし、むしろ独影の忍法が選ばれたことに対して嫉妬やら不満を感じるくらいだろう。
そして、当の独影はーーーー。
「………ふっ」
「?」
「ぷ……くくっ、夢がある忍法、かぁ……。ふっ……、はははっ……!あははははっ……!!」
笑った。
心ノ羽の発言を思い出し、独影は腹を抱えて笑った。
怒るどころか突然笑い出した独影に、心ノ羽はきょとんとする。
木々のざわめきと共に、独影の笑い声だけが聞こえる。
一頻り笑った独影は、大きく息を吐いて落ち着きを取り戻す。
「そっかそっかぁ。心ノ羽ちゃんにとって俺の忍法は動物と仲良くなれる夢のような忍法なのかぁ」
疑問符を大量に浮かべているような表情をしてこちらを見ている心ノ羽の視線を感じながら、独影は笑い混じりに言う。
怒ってる様子も、呆れてる様子もない独影に、心ノ羽はますます首を傾げる。
「お、怒らないのですか……?」
「んー、確かに本来は怒って然るべきところだろうけど……」
考えるような素振りをしながら、独影はちらっと心ノ羽を見る。
不安げな表情をしてこちらを見ている心ノ羽。
さすがに説教されると思っているのだろう。
だが、それに反して独影は
「ま、明るくて前向きなこと言われてるからいいかなーって」
と、頬杖をついてからりとした笑顔を心ノ羽に向けながら、あっさりとした言葉を返した。
独影の反応に心ノ羽は目をぱちくりとさせる。
「でも心ノ羽ちゃーん。結局のところそれって心ノ羽ちゃんがすっごく苦手な刃を振るうための理由作りにしてない?」
だが、独影はすかさず鋭い指摘をする。
今度は意地悪な笑みを浮かべて。
独影のその指摘に、心ノ羽はまたもやぎくっとする。
「目標を作るのは立派なことだけど、無理矢理作った目標と心底望んで作った目標は同じ目標でも全然違うんだぜ?」
独影の言葉が何を意味しているのか。
説明されなくともそれとなく理解した心ノ羽は、顔をうつ向かせる。
「でも……、でも、わたし……本当にだめで……」
地についてる手を握りしめる。
「もう十四になるのに……手裏剣を投げることすらまともに出来なくて……」
声がだんだんと弱々しくなっていく。
「櫻世さまは焦らなくていいと言ってくださるのですが……、でも……櫻世さまの優しさに甘えていたら……ずっと恩返しが出来ない気がして……」
心ノ羽の表情が苦しげに歪む。
「だから……」
早く一人前の忍になって、里を支えたい。
育て親の櫻世と優しくしてくれた里の人達の役に立ちたい。
でもそのためには刃を振るえるようにならないといけなくて……。
人を斬れるようにならないといけなくて……。
それを乗り越えないと、それが出来るようにならないと。
自分は……、いつまで経っても……。
「いいじゃん、だめで」
足手まとい、と思いかけたところで独影の声が心ノ羽の思考を遮った。
涙で滲んでいた心ノ羽の目が大きく開く。
「櫻世さまが焦るなって言ってんなら、別に急がなくていいじゃん」
あっけらかんとした声が、心ノ羽の耳に入る。
心ノ羽はゆっくりと顔を上げて独影を見る。
いつもと変わらぬ平然とした様子の独影の姿が、心ノ羽の薄茶色の瞳に映る。
「誰にも迷惑だとか役に立てとか言われてないならさ。櫻世さまも里の連中もそこらへんははっきりと言うから」
そう言ってへらりと笑う独影。
だが、言いきったところでハッとなる。
そういえば千染が大分言っているな、と。
しまったと思いかけた独影だった……が。
「だからこそです……。大した成果を出してないこんなわたしでも優しく受け入れてくださる人達だからこそ、早く立派になって恩返しをしたいのです……」
(あれこれそもそも千染のこと頭にないやつ……?)
なら……いいか……。
と、一瞬の焦りが杞憂だったことを知り、独影は深く気にしないことにした。
「まぁ恩返ししたい気持ちはわかるけどよぉ。でもそれで心ノ羽ちゃんが苦しむことになったら本末転倒じゃん。却ってみんな悲しむと思うぜ?」
「……でしたら、わたしは何を」
「要するに心ノ羽ちゃんが本当にやりたいと思ったことをやって、それを極めて、みんなに恩返しすればいいと思うぜ?」
独影の口から出た言葉に、心ノ羽は目を大きくする。
「それだったら心ノ羽ちゃんにとっても、みんなにとっても、良いことになるだろ?」
単純明快。
それを表しているかのようにあっさりとした声で独影は言った。
呆然としたように独影を見ていた心ノ羽だったが、だんだんとまた沈んだ表情になっていく。
「で、ですが……わたしのやりたいことなんて……」
「戦が終わったら忍なんて必要なくなる」
独影の声が、心ノ羽の弱音を遮る。
心ノ羽は口を止めて独影を見る。
「多分、そう遠くない先で戦は終わると思う。その証拠に年々俺らの仕事が減っていってるし」
独影は心ノ羽から目を離し、昔からよく見てきた林の景色を見つめる。
「だからさ、何も忍にならないといけないって思う必要は……もうないんだ」
小さな風が吹いて、鮮やかな緑が揺れる。
「……櫻世さまが心ノ羽ちゃんに鍛錬させたり任務につかせたりしてるのは、自分の身を守れる程度には強くなってほしいって意味だろうし……」
昔と変わらぬ自然の匂いが鼻を掠める。
「それに……こっち側に染まりきっていない心ノ羽ちゃんだからこそ、選べる道があると思うんだ」
静かな声でそう言って、独影は目を伏せる。
そんな独影を心ノ羽は黙って見つめる。
何か言いたげに、でも、何を言えばいいのかわからないように。
「ま、つまりはさ」
しばらくして独影は伏せていた目を上げる。
そして、心ノ羽を再び見ると
「もうちょい広く、色んなものを見て、色んなことに触れてみたらどうだ?」
そう言って心ノ羽に優しく笑いかけた。
木々が柔らかにざわめく。
遠くから鳥の綺麗な鳴き声が聞こえてくる。
心ノ羽は大きく瞬きをする。
「例えばあんまり行かないところに行ってみるとか、普段やらないことをやってみるとか。そうすれば、もしかしたら心ノ羽ちゃんが心底やりたいって思うことに出会うかもしれない」
独影の口から出る言葉が、するすると心ノ羽の耳に入っていく。
「だから俺の弟子入りするかは、もうちょっとあとで考えてもいいんじゃねぇか?で、どうしてもやりたいことが見つからなかったら、とりあえずって感じで俺に弟子入りを申し出たらいい」
耳に入っていった言葉が胸に浸透していく。
「俺はいつでも心ノ羽ちゃんを受け入れるからさ。話もこうやって聞くし、な?」
優しげな声でそう言って、頬杖をついて軽く笑いかけてくる独影。
その声に、その表情に、言われた言葉も相まって心ノ羽の大きく開いていた目が嬉しさと感動に揺れる。
その言葉がどれだけ心強いか。
その言葉がどれほどの安心感を心に流してくれるか。
少し潤みかけてる目を伏せ、涙を堪えて、心ノ羽は笑顔になると再び独影を見る。
そして、
「身に染みる言葉の数々ありがとうございます……!独影さま……!」
正座になって心の底からのお礼を言うと、独影に向かって頭を深々と下げた。
「独影さまに胸の内を明けてよかったです……!おかげで気持ちがとても楽になりました……!本当にありがとうございます……!!」
「いやぁ思ったこと言っただけだってぇ。そんな畏まらずいつもどおりでいいよ」
頭を下げたままお礼を言い続ける心ノ羽に、独影はへらへらと笑いかけながらいつもの軽い調子で言う。
独影としては言葉そのまんま、心ノ羽に対して当たり前に思ったことを言っただけの話なのだろう。
だけど、心ノ羽にとってはその当たり前の言葉が救いになった。
悩みの種を摘んだ。
そして、独影の優しさ、心の広さが身に染みた、
本当に自分は恵まれている。
目の前の独影を筆頭に櫻世と雹我、芙雪に春風に里の人達、そしてちらりと赤髪の彼の影を頭に浮かべて、心ノ羽は思う。
だからこそ。
心ノ羽は意を決するように頭を上げて、その勢いで立ち上がる。
「わたし!自分のやりたいことを見つけます!わたしが本当にやりたいと思うことを……!」
先ほどまでの暗い雰囲気はどこにいったのやら。
目を輝かせ明るく元気な声でそう意気込む心ノ羽を見て、独影はその切り替わりの早さに少し驚きつつ、安堵したような笑顔になる。
いつもの心ノ羽に戻ったと。
「お話聞いてくださりありがとうございます!早速里に戻って、まずやりたいことを見つけるために何をするか考えます!また近いうちにお礼をさせてくだしい!私に出来ることがあれば何でもします!」
「いいの?んじゃあ、すっごく暇な時でいいから握り飯潰して焼いたやつ作ってくれたら嬉しいかな」
「あ、あの美味しいやつですね!わっかりました!心を込めてお作りします!それでは独影さま!また!」
「うん、またね」
笑顔で手を大きく振って走り去っていく心ノ羽を、独影は軽く手を振り返して見送る。
軽やかな足音と共に、心ノ羽の姿が延々と並ぶ木々の向こうへと消えていく。
姿だけではなく気配も感じなくなったところで、独影は上げていた手をゆっくりと下げていく。
そして、心ノ羽が去っていった後を見つめて柔らかな笑みを浮かべると、顔を前に向き直した。
(……夢がある忍法、か……)
独影は緑あふれる景色を見据えて、心ノ羽が言ってきた言葉を思い出す。
動物と意思疎通が出来て素敵。
動物達と仲良くなれる。
友達になれる。
………こんな言葉、師匠が聞いたらどんな反応をしただろうか。
我らの忍法を便利とか使い勝手がいいとか言われては不愉快そうに顔を歪めてきた師匠が聞いたら。
(まぁ……普通に怒るか。ふざけるな、なめるな、とか言って)
でも案外、あの下にひん曲がってばかりの口が幾分か緩んでいたかもな……。
その姿を想像して独影は思わず笑ってしまう。
そして、つい思ってしまう。
心ノ羽がもっと早く生まれて師に会っていたら、もしかしたら里に残ってくれていたかも……と。
風がまた吹いてくる。
どことなく冷たく感じる風に当たりながら、独影は少し……ほんの少しだけ表情に寂しさを覗かせる。
だけど、すぐに元の落ち着いた表情に戻ると「っしょ」と声を出して立ち上がる。
「心ノ羽ちゃんのやりたいこと……戦が終わる前に見つかるといいんだけど」
と、独り言を呟き独影は歩き出す。
戦が終わって忍の必要性がなくなったら里を出る。
そう決めてるからこその発言なのだろう。
(まぁ見つからなかったら見つからなかったで、心ノ羽ちゃん連れての二人旅もいいだろうけど……。あ、でも櫻世さま……は辛うじて許しても芙雪は許さないか)
なんなら無理矢理でもついて来そうだし……。
と、もしかしたらあるかもしれない未来を想像して、独影は満更でもないように笑う。
その頃には千染も夜雲のところで落ち着いてるだろうか。
願わくばそうあってほしいものだ。
平和で明るさのある未来を思い描いて、独影は温かな気持ちになる。
と、その時だった。
「?」
ばさりと空気を払うような音と共に、一匹の烏が独影の元に降りてくる。
烏に気づいた独影は腕を上げて、そこにとまった烏を見つめる。
烏も独影をじっと見つめる。
時間が経つにつれて、独影の表情が怪訝そうなものへと変わっていく。
「……わかった」
独影が静かにそう言った直後、腕にとまっていた烏が羽ばたく。
そして、独影も足に力をいれて木の枝に飛び乗り、飛んでいった烏を追いかけるように木から木に飛び移ってその場から去っていった……。
