相異相愛のはてに
永和に案内されて辿り着いたのは、城の上層階にある小さな客間だった。
「ここ、ここ。夜雲くんは久しぶりになるよねぇ」
永和が先に客間に入り、大きな障子窓の元へと向かう。
永和に続いて客間に少し入ったところで立ち止まる夜雲と千染。
古い木の匂いが二人の鼻を霞む。
千染は客間の中を軽く見回した後、隣にいる夜雲を見る。
夜雲は相変わらずの無表情で前を見ていた。
(………)
永和の“久しぶり”という発言から、夜雲は以前にもここに来たことがあるのだろう。
そして千染が予想するに、ここには夜雲だけではなく……。
「これでよし、と」
窓の障子を開けてその向こうにある景色を眺めた永和は、振り返る。
「それじゃあ、もうそろそろ始まるだろうから二人共ゆっくりくつろいどきな〜」
始まるとは何か。
それを聞く間もなく、永和は二人の横を通り過ぎて客間を出ていってしまう。
千染は永和が去っていった後を、お面越しに見続ける。
「……ここはね」
それからすぐに夜雲から声が聞こえて、千染は彼の方に顔を向ける。
だが。
「あとで布団用意するようお手伝いの子に言っておこうか?」
去ったはずの永和が音もなく戻ってきて、開いた襖の影からひょっこりと顔を出しながら、(余計な)気遣いの声をかけていた。
無言で永和に注目する二人。
程なくして。
「見たらすぐ帰りますので。お構いなく」
声は静かでありながらも強い口調で、夜雲ははっきりお断りした。
永和は「そっかぁ」とだけ言うと顔を引っ込める。
それから少しも経たずして足音も気配もなくなったので、今度の今度こそ本当に去っていったようだった。
二人の間に何とも言えない空気が流れる。
「……愉快な方ですね」
しばらくして、千染が嫌み混じりに永和への感想を吐く。
「あんな感じなんだ。昔から……」
対して、夜雲は淡々とした様子で応じる。
そんな夜雲の横顔を、千染はお面越しに見る。
じぃっと……、少しの変化も逃さないかのように。
「……ここはね」
夜雲は再度言い出す。
千染の手から夜雲の手が、するりと離れていく。
「城主の山吹さまが用意してくれた特別な席なんだ」
「特別な席……?」
「そう」
畳が小さな音をたてて軋む。
その音と共に、夜雲は障子が開かれた窓の元へ向かう。
「父さまと母さまと僕の……特別な席」
夜雲は窓の縁に手をかけて静かに言う。
その背中を、千染は黙って見る。
「祭りがあると……ここで……、………」
夜雲の口が途中で止まる。
昔から変わらぬ無感情な藤色の瞳で、窓から見える景色を見下ろす。
何度も見てきた城下町の祭りの景色。
色とりどりの提灯が町を鮮やかに染め、軽やかな祭囃子がずっと聞こえる。
いくつも並んでいる屋敷や平屋の間を子どもが走っていったり、仲睦まじそうな男女が肩を並べて歩いたり、母父と思わしき男女が子どもに団子を買ってあげて喜んでるその子の頭を撫でたりと……。
ここに住んでいる人々が祭りを心の底から楽しんでいる。
明るい城下町、笑っている人々。
その様子を夜雲はじっと見つめる。
いつもの無表情で。
……程なくして町の景色から目を離し、振り返る。
「お面」
短い言葉。
突拍子もなく飛んできたその単語に、千染は少しだけ首を傾げる。
「ここならとってもいいんじゃないかな?」
続けて、千染が抱いた疑問の答えを夜雲は言う。
その発言に対して千染は少しの間黙っていたが、静かにゆっくりと手を上げていく。
後頭部にある紐の結び目に片手を伸ばし、もう片方の手はお面の顎を掴む。
そして、しゅるりと結び目を解き、その下にある美貌を露にした。
何度も見てきた千染の顔。
薄暗い客間の中でも見てすぐわかるくらいに美しい彼の顔を、夜雲は黙って見つめる。
「……なんです?」
ずっとこっちを見ている夜雲に、千染は怪訝そうな反応をする。
千染の反応に対して夜雲は目を伏せて首を横に振ると、
「ううん。別に……。ただ……、なんだかきみの顔を見るのが久しぶりに感じて」
いつもの抑揚のない声でそう言うと、体を前に向き直した。
千染は夜雲の不可解な発言に訝しげな顔をする。
久しぶりも何も、ここに来る前に何度も見ているではないか。
こいつは何おかしなことを言っているんだ。
と、思いながらも……夜雲のよくわからない発言は今に始まったことではないので、千染は敢えて口に出さず黙って彼の隣へと向かった。
「………お面、しててよかった」
千染が隣に来たところで、夜雲は言う。
どこか安堵しているかのような声で。
「永和さんがきみの素顔を見たら、きっと放っておかなかったと思う」
「まさか。あの方は女好きでしょう」
「そうだけど……。男とか女とか、そんなことどうでもよくなるくらい……きみは綺麗だよ」
夜雲の最後の言葉に反応して、千染は彼の方に顔を向ける。
夜雲の横顔が目に入る。
いつもの、何の変わり映えもない横顔が。
(………)
綺麗、美しい。
そんな言葉、何十、何百と聞いてきた。
飽きるくらいに。
どうでもいいくらいに。
却って、不快に思うことがあるほどに。
……だけど、夜雲の口から出たものは………。
「……殺す時以外であの方に素顔を晒すことはないので、安心してください」
素っ気ない口調でそう言いながら、千染は夜雲から目を離す。
それと入れ代わるように、今度は夜雲が千染を見る。
「まぁあの方に限らずこの町にいる全員に言えることですけど」
「………それって」
「?」
「僕は特別……ってこと?」
「……」
夜雲の発言に千染の表情が一気に面倒くさそうなものへと変わる。
「きみの素顔も、名前も……ここで知っているのは僕だけ」
単調だった夜雲の声に、僅かな弾みが生じる。
「知っている上で……こうやってきみと一緒にいられている」
「………」
「これってやっぱり、その、きみにとって……僕は……」
少し緊張しているのか、はたまた照れているのか。
夜雲は若干口籠りながらも言葉を紡ぐ。
だが。
「別にわざわざ口に出して言う必要はないでしょう」
最後まで言いきる寸前で、千染の声に遮られてしまった。
少しの苛立ちが混じった気だるげな声。
それでも千染が放った言葉に、夜雲は少しだけ目を大きくし、頬を仄かに赤く染めた。
そこかとなく浮き立っているような夜雲の気配や視線を感じて、ますます面倒に思ったのか、千染は眉間に皺を寄せていく。
「で」
顔を前に向けたまま、千染は無理矢理話題を変えにかかる。
「ここにいると何があるのですか?」
やや強い口調で夜雲に問う。
夜雲に先ほどの発言を言及されないために。
千染の横顔を見つめていた夜雲は少し考えるかのように……否、今の気持ちを味わうかのように、視線を落として黙り続ける。
そして、しばらくして再び視線を上げて千染を見ると、
「永和さんが言ってたよね」
「?」
「花火があがる頃だって。ここはそれが」
と、説明しようとしていた途中で。
ヒュ〜〜……ドンッ
空で何かが大きく弾けたかのような音が響いた。
突如聞こえたその音と自分達を照らしてきた一瞬の光に、千染は目を大きくする。
「ああ、始まったみたい」
千染とは対照的に慣れきった様子で、夜雲は外に顔を向ける。
その動きにつられるかのように千染も、夜雲から目を離して外を見る。
また、ドンッと空を打つような音が聞こえる。
その音と共に……夜色の空で咲く大きな光の花。
咲いては闇に溶け、また咲いては闇に溶けていく。
ほんの一瞬しか見れない儚く、美しい火の花。
その花が、ここからだとよく見えた。
「……」
千染の赤い瞳に、夜空に咲く花が何度も映る。
思わず見とれてしまう。
花火のことを知らないわけではない。
過去に一度や二度くらいは見たことある。
だけど……こんなにも近くで見た花火は初めてだった。
音も、大きさも、光の強さも、遠くの山から見かけたものとは違う。
果てない闇に抗うかのように何度も咲き、輝く、大きな花。
とても壮大で、とても非現実的で、とても……美しい。
夜雲が言っていた“特別な席”の意味がわかった。
ここは花火がよく見える。
人混みに煩わしい思いをすることなく、静かに。
側にいる確かな存在を感じながら。
……それが、その事実が、より一層。
夜雲が周囲からどのように思われているのか。
自分に殺された彼の両親が、他者からどのように扱われてきたのか。
言葉に表さずとも、知らしめるには十分だった。
(……)
全てにおいて真逆。
その現実を体感しながら、千染は花火を見つめる。
一方で、千染の隣で同じく花火を見上げていた夜雲ノ目が、静かに、何の未練もなく、彼の方に移る。
夜空に咲く花を見上げている千染。
時折眩い光に照らされるその姿は美しくも、どこか儚げで、どこか寂しげなようにも見える。
そんな千染の姿に夜雲は何か言おうとしたのか、口を開きかける。
が……すぐに閉じて、ゆっくりと視線を落とす。
(………)
花火の音と共に脳裏を過ったのは、過去の光景。
父と母、そして幼い自分。
三人でここから花火を見た時の記憶。
何度も打ち上げられる花火を見ながら、母と自分の肩に手を回して抱き寄せていた父の一雲。
確かな存在を感じるように。
互いに一人ではないことを伝えるかのように。
一瞬過ったその光景に、僅かに色づいていた夜雲の表情が……“無”となっていく。
顔がうつ向いていき、目元に陰りが落ちる。
今、夜雲がどんな目をしているのか。
それは……もしかしたら夜雲自身もわかっていないかもしれない。
そう時間が経つこともなく、夜雲はゆっくりと顔を上げてい、いつもの無表情で千染の横顔を見る。
そして……少し悩ましそうにまた視線を落とした後、襟に手を伸ばし、少し引っ張って開いたそこにもう片方の手を入れて、中に忍ばせていたものを取り出した。
「千染くん」
夜雲の声に反応して、千染は振り向く。
自分に向き合うように体ごとこちらを向いている夜雲の姿が、千染の目に入る。
胸元にある手には、薄紫色の布が握られていた。
「これを……きみに渡したくて」
そう言って夜雲はどこかぎこちない動きで、胸元にあった手を……綺麗に畳まれている薄紫色の布を、千染に向けて差し出す。
千染は怪訝そうに夜雲を見ていたが、差し出されているその手が微かに震えていることに気づく。
少しの間その手を見て、再び夜雲に目を向ける。
千染と目が合った瞬間、夜雲はすぐに視線を横にずらす。
能面のような顔に、僅かな緊張の色が覗いている。
その顔を、その様子を、千染はじっと見つめる。
表情から怪訝さが消えていく。
夜雲がそれ以上何か言う様子も、何かしらの行動に出るような気配もない。
千染は少し考えるように夜雲を見つめた後、静かに視線を落としていく。
再び視界に入ったのは、彼の手にある薄紫色の布。
それをまたしばらく見つめて、千染は横に垂れていた手をゆっくりと上げていく。
そして、その手を前に伸ばし、夜雲の手にある薄紫色の布を受け取った。
(………)
……中に何かがある。
どうやら布自体は単なる包みで、夜雲が渡したいものはこの中身だと理解した千染は、畳まれている布を開いていく。
その一方で、千染に伸ばしていた手を下げた夜雲は顔をうつ向かせる。
千染の反応を見るのを恐れているかのように。
そんな様子の夜雲をよそに、千染は開いた布の中にあったものを指で摘みとる。
それは……瑠璃色の丸い石がついた簪だった。
「……簪?」
怪訝そうに千染は呟く。
耳に飛び込んできたその声に、夜雲は力無く垂れていた自分の左手首を掴む。
「それ……、その……」
絞り出すような夜雲の声を聞いて、千染は視線を上げる。
千染の視線を感じてか、夜雲は黙り込んでしまう。
そして、
「………仕事で、もらったもので」
今にも空気に溶けてしまいそうな声で、簪のことを言い出す。
千染は少し訝しそうにしながらも、夜雲の話を黙って聞くことにする。
「僕が……使うことはないし……、かと言って売るには……なんだか勿体なくて……」
夜雲の声にだんだんと微かな震えが混じる。
「それで……」
また黙り込む夜雲。
千染の目が怪訝そうに細くなる。
流れる沈黙。
少し経って夜雲のうつ向いてあった顔が、ゆっくりと上がっていく。
僅かな感情の揺れが映し出された藤色の瞳が、千染に向けられる。
その瞳に一瞬だけ戸惑いの色を見せた千染だが、すぐに落ち着き払った目つきになって見つめ返す。
そして、長いようで短い沈黙が流れた後、
「きみに……よく似合いそうだって、思って……」
いつになく弱々しくも……気持ちの込められた抑揚のある声で、夜雲は千染に言った。
夜雲のその声と言葉に、千染は少しだけ目を大きくする。
焦げついた匂いを乗せた生温い風が、窓からふわりと吹いてくる。
何も言わず夜雲を見続ける千染。
再び流れる沈黙に耐えきれなくなったのか、夜雲はまた千染から目を離し、今度は背を向ける。
「でも……もしいらなかったら、誰かにあげてもいいし……売ってもいいから……」
左手を掴んでいる手に力を入れながら、夜雲は後ろにいる千染に言う。
しばらく、少し驚いたかのように夜雲を見ていた千染だったが、再び視線を落とし……手にある簪を見る。
瑠璃色の石に銀の棒。
手触りからして決して安物ではないことがすぐわかる。
売ったらいくらほどするだろうか。
仕事も減っていく一方だから、売って金にして櫻世に渡せばいいように使ってくれるかもしれない。
忍頭の姿を浮かべ、そう思いかけていた千染だった……が。
ーーーーきみに……よく似合いそうだって、思って……。
先ほど言われた言葉が、不意に脳裏を過る。
千染の思考が止まる。
その時の夜雲の声が、目が、脳裏に浮かぶ。
ちりちり、ちりちり、と頭の奥で何かが焼きつくような感覚がする。
胸から何かが込み上げようとしてくる。
これは。
この感情はーーーーー。
「………ありがとうございます」
どれほどの時間が経ったのかわからない。
案外短かったのかもしれない。
とにかく何度目かの花火が打ち上げられた直後に、千染は静かな声でお礼を言った。
その言葉に反応して、夜雲は振り返る。
簪を薄紫色の布に包んで懐に入れようとしている千染の姿が、夜雲の目に入る。
それが懐に入りきったところで、夜雲の目つきが……どこか安心したかのように柔らかなものになっていった。
左手を掴んでいた手の力が抜けていく。
「……祭り……」
夜雲の口がぎこちなさげに開く。
「どうだった?」
視線を落としたまま襟元を整えている千染に向かって声をかける。
「別に……。どうと言われましても祭りは祭りですよ」
答えになってない答え。
素っ気ない口調でそれだけ言うと、千染は窓の方に体を向き直す。
千染の横顔から特にこれといった感情は伝わってこない。
喜んでる様子も呆れてる様子もない、ただ静かなだけ。
そんな彼の横顔をしばらく見た後、夜雲も再び体を窓の方に向ける。
「……ただ」
少しの時間が経って、千染が小さな声で言い出す。
その声を聞き逃さなかった夜雲は、彼の方に少しだけ顔を向ける。
「花火を……こんなに近くで見たのは、……初めてでした」
外の暗闇に溶けてしまいそうなほどの儚げで小さな声。
その言葉の中にどんな意味が込められているのか、それは千染しか知らない。
だけど、夜雲は何か感じとったのか……目に仄かな明るさが宿る。
そして、
「そう……」
微かにだが、浮き立った声。
「なら、よかった」
千染から目を離し、窓の外を眺めながら夜雲は呟くような声で言う。
その口は微かに……なんとも判断しづらいものだが、口角が上がっているようにも見えた。
夜雲のその反応を千染が見ることはない。
ただいつの間にか終わっていた花火を名残惜しむように見上げていた。
空の焦げついた匂いが、二人の鼻を掠めた。
